第1話 【悲報】ワイ、異世界に転移してしまう
誰にも読ませる予定がなかったものですが、ついに200話を越えてしまったので、少しずつ確認と修正をしながら投稿していこうと思います。雑文ですがぜひお楽しみ頂ければ幸いです。
スタンドのざわめきは、いつだって潮騒に似ている。
すり鉢の底に広がる緑の芝の周りを、数え切れない人の頭がぐるりと埋め尽くしている。人間がいる。耳の尖ったエルフがいる。尻尾を振る獣人の親子がいる。額に短い角をのぞかせた鬼人の若者たちは身を乗り出して打撃練習を眺め、鱗の光る龍人の一団は腕を組んで静かに座っている。背びれを寝かせたサハギンの漁師たちは、通路の端で干し魚をかじっていた。ひげを編み込んだドワーフの老人たちにいたっては、まだ試合も始まっていないのに、もう三杯目の木のジョッキを空けている。
「ビールいかがっすかー! 冷えてますよー!」
背中に樽を背負った若い売り子が、通路を駆け上がってくる。三塁側の内野席、中段の通路側に座っていた男が、軽く手を上げた。
「一杯ちょうだい」
「あっ、イッチさん! いつものっすね!」
慣れた手つきで樽の栓をひねり、売り子は木のジョッキに琥珀色の液体を注いでいく。きめの細かい泡が縁までせり上がって、こぼれる寸前でぴたりと止まった。男は銅貨を五枚渡してジョッキを受け取り、縁より高く盛り上がった泡が揺れたので、口のほうを寄せて軽くすすった。
「今日、どっちが勝つと思います?」
「そら、先発次第やろな」
「またそれー!」
売り子は笑って、次の客のほうへ駆けていった。
男は三十歳くらいに見える。日に焼けた顔に、目尻の笑い皺。くたびれた帽子をかぶり、右の肘には古びた布のサポーターを巻いていた。
グラウンドでは、両軍の選手たちが整列を始めていた。一塁側に並ぶのは、身の丈三メートルを超える巨人族の選手たちだ。肩幅だけで普通の人間の倍はあり、手にしたバットは大人の太ももより太い。
三塁側に並ぶのは、半神族を筆頭にした悠然たる出で立ちの選手たち。半神の主将は肌がうっすらと光を帯びていて、帽子の下の髪が、風もないのにふわりと揺れていた。
外野の奥には、電光掲示板の代わりに巨大な水晶の板が据えられている。その表面に、魔法の文字が浮かび上がった。
――巨人 対 半神。
ひときわ大きくなった歓声のなかで、男はジョッキを膝の間に挟み、懐から一台の板を取り出した。手のひらに収まるほどの、黒い板。この世界のどこにも売っていない、それどころか、この世界のどこでも作れない代物だ。表面には細かな傷が無数に走り、画面の端から古いひびが一本、斜めに伸びている。角は欠けて丸くなっていた。
画面をつけると、右上の電池の表示が、歓声に合わせてぐんぐん伸びていく。七十、八十、九十。あっという間に満タンだ。
男は親指を滑らせ、慣れた手つきで文字を打ち込んだ。
『【実況】巨人VS半神【異世界】』
送信。数秒もしないうちに、画面にレスが並び始める。
『2:風吹けば名無し:きたああああ』
『3:風吹けば名無し:異世界伝統の一戦や』
『4:風吹けば名無し:イッチ今日もビール飲んどるんか』
『5:風吹けば名無し:はよ先発教えろ』
男は小さく笑って、ジョッキを口に運んだ。苦みと、麦の香ばしい甘さ。喉を通る冷たさ。
祭服のような白い長衣の上に胸当てをつけた球審が、本塁の後ろで両手を高く掲げた。
「プレイボール!」
地鳴りのような歓声が、すり鉢の底から空へ駆け上がっていく。その音に身を預けるようにして、男はぽつりと呟いた。
「……あの頃は、こんなとこまで来るとは思わんかったンゴ」
隣の席に、誰かが腰を下ろす気配がした。男はそちらを見ずに、ジョッキを少しだけ持ち上げてみせた。
* * *
十七歳の打越拓海にとって、野球とは「観るもの」だった。
正確に言えば、一年と少し前まではそうではなかった。投げるものだった。打つものだった。土にまみれ、汗をかき、マウンドの上で心臓が破裂しそうになりながら、それでも投げ続けるものだった。
中学では地区でちょっとは名の知れたエースで、高校も野球で選んだ。一年の夏には、もうベンチに入っていた。
二年の夏の練習試合で、拓海は肘を壊した。七回の表、ツーアウト一塁。インコースへのまっすぐを投げた瞬間、右肘の内側で、ぶつり、と何かが切れる音を聞いた。痛みが来たのは、その一拍あとだ。ボールはキャッチャーの頭を越えてバックネットに当たり、拓海はマウンドの上にしゃがみこんだまま、立てなくなった。
内側側副靱帯※¹の損傷。手術をすればまた投げられる可能性はある、と医者は言った。ただし長いリハビリが要るし、元通りになる保証はない、とも。
拓海は手術を受けなかった。理由はうまく説明できない。怖かったのかもしれないし、疲れていたのかもしれない。あるいは、元通りにならなかったときの自分を見るのが嫌だったのかもしれない。秋になる前に、退部届を出した。
それからの拓海の生活は、ひどく単純になった。学校へ行く。帰る。テレビかスマホで野球を観る。観ながら、なんJの実況スレを開く。試合が終わったら、反省会スレを開く。寝る。
なんJ。正式には、とある巨大掲示板の「なんでも実況J」という板のことだ。名前のとおり何を語ってもいいはずの場所だが、実際には野球の話をする連中がやたらと集まっている。皆、名無しで、誰が誰だかわからないし、年齢も職業も関係ない。ただ、同じ試合を観て、同じところで叫び、同じところで頭を抱える。
そこは、拓海にとって居心地がよかった。誰も、自分の肘のことを知らない。誰も、「もう投げないの」と聞いてこない。
観ているだけなら、痛くない。
* * *
その日、拓海は久しぶりに球場へ行った。
贔屓の球団の、本拠地での試合だった。外野の自由席には、ひとりで来ている客も多い。拓海もそのひとりとして硬いプラスチックの椅子に座り、スマホで実況スレを開きながら試合を観た。
結果は、ひどいものだった。二回までに五点を取られ、六回に一度は二点差まで詰め寄ったものの、八回に中継ぎが炎上してまた突き放される。最終スコアは三対九。九回裏の攻撃が三者凡退で終わったとき、外野席からは溜め息しか聞こえなかった。
『風吹けば名無し:はい解散』
『風吹けば名無し:なんでこいつ八回に出したんや』
『風吹けば名無し:監督の采配が謎すぎる』
『風吹けば名無し:明日も負けそう』
『風吹けば名無し:なんで観てるんやろなワイら』
最後のレスを見て、拓海は少しだけ笑った。本当に、なんで観てるんやろな。
球場を出ると、夏の終わりの夜風が汗ばんだシャツを冷やした。駅までの道は人でごった返していたので、一本裏の、街灯がまばらな川沿いの道へ入る。土手の下には、少年野球が使う河川敷のグラウンドが、暗いまま広がっている。
ふと、足が止まった。グラウンドの真ん中、ちょうどピッチャーマウンドのあたりで、何かが光っている。
最初は誰かが置き忘れた懐中電灯かと思ったが、それにしては光が柔らかい。白い、ぼんやりとした光が、ゆっくりと明るくなったり暗くなったりしていた。まるで、呼吸しているみたいに。
拓海は土手を下りた。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。帰って反省会スレを読むつもりだったのに、足が勝手に動いていた。
近づいてみると、光っていたのは、一個の硬式ボールだった。縫い目の赤い糸までくっきりと浮かび上がらせて、新品のように白い革が、内側から光を放っていた。
拓海はしゃがみこんで、ボールを手に取った。
手のひらに収まった瞬間、指が、勝手に握りを作った。人差し指と中指を縫い目にかける、ストレートの握り。一年以上、意識して避けてきた形だった。
「……アホか」
自分に向かって呟いたとき、ボールの光がふくれ上がった。白。視界の全部が、白に塗りつぶされていく。耳の奥で、どこか遠くから歓声のような音が聞こえた気がした。
* * *
頬に、ちくちくしたものが当たっていた。
目を開けると、雲がゆっくりと流れていく青い空があった。仰向けに寝転がった背中の下にあるのは、膝くらいまで伸びた草だった。
「……は?」
体を起こすと、見渡す限りの草原だった。ゆるやかな丘が波のように重なり、遠くには濃い緑の森が帯のように横たわっている。河川敷も、土手も、街灯もない。夜だったはずなのに、太陽は真上にあった。
手の中に、ボールはなかった。代わりに握っていたのは、自分のスマホだ。
夢か、と思った。頬をつねるかわりに、足もとの草をひと握り引き抜いてみる。青くさい匂いが鼻を刺し、指先に湿った土がついた。夢にしては、匂いがはっきりしすぎている。
なら、誰かに運ばれたのか。気を失っているあいだに、半日かけてどこかの田舎まで。それはそれで怖いが、まだ話としてはわかる。ここがどこであれ、日本のどこかではあるはずだった。
拓海はとりあえず画面をつけた。圏外。山奥ならありえる。地図アプリを開く。読み込まない。メッセージアプリ。繋がらない。動画サイト。繋がらない。ブラウザで適当な検索をかけても、白い画面が出るだけだった。最後に、ほとんど惰性で、ブックマークからなんJを開いてみる。
開いた。スレッドの一覧が、いつもどおりにずらりと並んでいる。さっきまで見ていた反省会スレもちゃんとあって、勢いの数字も動いていた。
「なんでやねん」
思わず声が出た。圏外の表示はそのままなのに、なんJだけが、何事もなかったように更新されている。
スレを立てようとして、拓海は指を止めた。何と書けばいいのか、わからない。知らん草原におる、と書いたところで、どこの草原かも説明できない。せめて場所の手がかりになるものを探そうと、立ち上がって周囲をぐるりと見回した。
空の高いところに、白く透けた昼の月が浮かんでいた。それ自体は、べつに珍しくもない。ただ、その隣に、もうひとつ並んでいた。
拓海は目をこすり、もう一度見上げた。大きいのと、ひと回り小さいのが、寄り添うように浮かんでいる。何度まばたきをしても、月は二つあった。震える手でカメラを向けて撮ると、画面の中でも、やはり二つ写っている。
足もとで、がさりと草が鳴った。草の間からひょこりと顔を出したのは、茶色いウサギだ。額の真ん中から、ねじれた角が一本伸びている。とっさにカメラを向けると、ウサギは鼻をひくひくさせ、ぴょんと跳ねて丘の向こうへ消えた。画面には、跳ねる寸前の姿が残っていた。
月が二つある空。角の生えたウサギ。夜から昼へ飛んだ時間。それなのに、なんJにだけは繋がるスマホ。ウサギの消えた丘の先を眺めているうちに、ひとつの言葉が頭に浮かんだ。なんJのなろう系のスレで、さんざん草を生やしてきた言葉だった。
「……マジか」
拓海は震える指で、スレを立てた。
『1:風吹けば名無し:【悲報】ワイ、異世界に転移してしまう さっきまで球場おったのに、気づいたら草原におる。マジで』
『2:風吹けば名無し:釣り乙』
『3:風吹けば名無し:はいはいなろうなろう』
『4:風吹けば名無し:イッチの妄想おもろいやん 続けて』
『5:風吹けば名無し:画像はよ』
画像。拓海はさっき撮った空の写真を貼った。
『6:風吹けば名無し:これが今の空や 月が二つある』
『7:風吹けば名無し:ID変わってないし同じイッチやな』
『8:風吹けば名無し:AI画像で草』
『9:風吹けば名無し:月二つは盛りすぎやろ』
『10:風吹けば名無し:最近のAIすごいな』
「ちゃうねん……」
拓海は草の上に座りこみ、ウサギの写真も貼った。
『11:風吹けば名無し:角の生えたウサギおった これでも信じへんのか』
『12:風吹けば名無し:ジャッカロープ※²やん』
『13:風吹けば名無し:はいAI』
『14:風吹けば名無し:イッチ必死すぎて草』
『15:風吹けば名無し:仮にほんまやとしてもなんでなんJには繋がるねん』
それはワイが聞きたい、と拓海は思った。流れていくスレのなかに、ひとつだけ、妙に丁寧なレスがあった。
『17:風吹けば名無し:信じます。まずは落ち着いて、日が高いうちに道を探してください。そちらの草原なら、東に小さな煙が見えるはずです。人の住む町がありますよ』
『18:風吹けば名無し:>>17 なんやこいつ』
『19:風吹けば名無し:急に敬語ニキおって草』
『20:風吹けば名無し:丁寧ニキ乗っかってて草』
顔を上げ、太陽の位置から東の見当をつける。目を細めると、丘の向こう、森との境目のあたりに、細い灰色の線が一本、空へ伸びていた。
「……ほんまにあるやん」
画面の右上で、電池の表示が十八パーセントを示していた。
* * *
煙の下には、本当に町があった。
石を積んだ低い塀に囲まれた小さな町で、門の上に掲げられた木の看板には、見たこともない文字が並んでいる。なのに、なぜか読めた。「宿場町ハーケン」。拓海はその事実について考えるのをやめた。なんJに繋がる時点で、細かいことを気にしても仕方がない。
門番は拓海の格好をじろじろと見た。贔屓球団のレプリカユニフォームに、ジーンズ、スニーカー。眉をひそめはしたものの、「旅芸人か」とひとりで納得して通してくれた。
石畳の通りには、荷車と人が行き交っている。焼いたパンの匂い、家畜の匂い、鍛冶屋らしき店から響く鉄を打つ音。話している言葉も、なぜか全部わかる。
空腹に気づいたのは、香ばしい揚げ物の匂いを嗅いだときだった。匂いの出どころは、通りの角にある二階建ての酒場だ。軒先には金色に塗った木彫りのじゃがいもがぶら下がっていて、看板の文字は「黄金のじゃがいも亭」。
扉を押して入ると、中は昼間から賑わっていた。太い梁の天井、油でつやつやした木のテーブル。カウンターの奥では、大きな鍋がぐつぐつと音を立てている。
「いらっしゃい! ひとり? 奥の席空いてるよ!」
声をかけてきたのは、拓海と同じくらいの年の少女だった。赤茶色の髪をうしろでひとつに結び、袖をまくった腕は細いのに、しっかりと筋が浮いている。両手に木のジョッキを四つずつ持ったまま、器用に客の間をすり抜けていく。
拓海は奥の席に座り、少女が持ってきた品書きを開いた。文字は読めるのに、意味のわからない料理名ばかりが並んでいる。適当に指さして出てきたのは、肉と根菜を煮込んだシチューと、黒っぽいパン、そして山盛りの揚げじゃがいもだった。
まずは揚げじゃがいもをひとつ、口に放り込む。外側はかりっと音がするほど硬いのに、噛むと中はほくほくで、熱い湯気が口の中に広がった。塩は粗く、ところどころで粒がじゃりっと弾ける。素朴なのに、止まらない。シチューは肉がほろほろになるまで煮込まれていて、溶けた脂と、何かの香草のすっとする香りがした。パンを浸すと、ちょうどいい具合に汁を吸う。気づけば、皿は全部空になっていた。
「いい食べっぷりだねえ」
さっきの少女が、空いた皿を下げに来た。
「うまかったわ。ごちそうさん」
「はい、銅貨八枚ね」
拓海は固まった。ポケットを探ると、財布はある。中には千円札が二枚と、小銭が少し。五百円玉を一枚、そっとテーブルに置いた。
少女はそれを指でつまみ、窓からの光にかざした。
「わあ、きれい。何これ、お守り?」
「……お金、です」
「お金? どこの? 見たことないけど」
少女は五百円玉を裏返したり、爪でつついたりしていたが、やがてにっこり笑ってテーブルに戻した。笑っているのに、目がまったく笑っていない。
「で、銅貨八枚は?」
助けを求めて、拓海はテーブルの下でスマホを開いた。スレはまだ落ちずに残っていた。震える指で、短く書き込む。
『30:風吹けば名無し:飯食ったら日本円が使えんかった 銅貨八枚とか持っとらん どうしたらええ』
返事は、すぐに来た。
『31:風吹けば名無し:食い逃げ定期』
『32:風吹けば名無し:皿洗いルート確定』
『33:風吹けば名無し:異世界でも働けイッチ』
『34:風吹けば名無し:イッチの異世界生活、皿洗いから始まるの草』
『35:風吹けば名無し:がんばれイッチ』
いつもの無責任なスレ民たちの書き込みに、拓海は思わず、声に出してうめいていた。
「イッチ、イッチて、人の気も知らんと……」
「ちょっと、何見てるの」
「あ、いや」
「さっきから言ってる、その『イッチ』って何?」
「……ワイのこと、やけど」
スレでの呼ばれ方だ、と説明しかけたところで、少女がぱっと顔を明るくした。
「イッチっていうんだ。変わった名前だね。あたしはリタ。この店の娘」
「いや、ちゃう、今のは」
「お父さーん! この人、イッチっていうんだって! お金持ってないから皿洗いさせていいー?」
厨房の奥から、熊のような体格の男がぬっと顔を出した。拓海を上から下まで眺めて、無言のまま、顎で厨房の奥を示す。
「よし、決まり。イッチ、こっち来て」
「ちゃうねんて、ワイの名前は……」
言い直そうとしたときには、リタはもう隣のテーブルの客に「新入りのイッチだよ、よろしくね」と紹介していた。客の男たちが「おう、イッチ」「よろしくな、イッチ」と口々に言いながらジョッキを掲げる。拓海は開けた口を、そのまま閉じた。
スレには、こう書き込んだ。
『41:風吹けば名無し:異世界で名前イッチになったンゴ』
『42:風吹けば名無し:草』
『43:風吹けば名無し:草』
『44:風吹けば名無し:ワイらのせいで草』
『45:風吹けば名無し:異世界でもイッチはイッチなんやな』
* * *
皿洗いは、思っていたよりずっときつかった。
厨房の裏には大きな木の桶が二つあり、ひとつにはぬるま湯、もうひとつには井戸から汲んだ冷たい水が張ってある。ぬるま湯の桶で、灰を溶かした水と藁束を使って皿の油を落とし、冷たい水ですすいで、布で拭いて棚に並べる。それを、延々と繰り返す。
灰の水は手に染みて、指先がふやけて白くなり、爪の間がひりひりする。昼の客が引いたと思ったら、すぐに夕方の客がどやどやと入ってきて、皿はまた山になった。
「イッチ、手が遅い!」
「ワイ、こういうの初めてやねん!」
「その『ワイ』って何? イッチの国の言葉?」
「……せやな」
「『せやな』も?」
「せやで」
リタはふうん、と首をかしげ、両手に皿を山ほど抱えて出ていった。
日が暮れると、酒場は昼の倍の客で埋まった。森で木を切る木こりたち、街道を行き来する荷運びの男たち、町の職人たち。笑い声とジョッキのぶつかる音が、厨房まで響いてくる。
桶の前で腰を伸ばして、拓海はこっそりスマホをつけた。電池は、三パーセントになっていた。
「嘘やろ」
なんJを見ていたせいで、思ったより減っていた。充電器なんて、この世界にあるはずがない。三パーセント。これが尽きたら、もう二度と、なんJには繋がらない。
自分でも驚くほど、拓海はそのことに動揺していた。知らない世界にひとりで放り出されたことよりも、金がないことよりも、名前がイッチになったことよりも、なんJに繋がらなくなることのほうが怖い。自分が、あそこ以外に居場所を持っていないことを、思い知らされた気がした。
そのとき、店のほうから、どっと大きな声が上がった。布巾を置いて、厨房の入り口から店を覗く。
店の真ん中のテーブルが空けられ、その上で、二人の男が腕を組んでいた。腕相撲だ。片方は木こりの大男、片方は荷運びの、背は低いが肩の盛り上がった男。周りを客がぐるりと囲み、それぞれ自分の応援するほうに銅貨を賭けて、大声で叫んでいる。
「いけ、ボルグ! 木こりの意地を見せろ!」
「荷運びをなめんなよ、ハンス!」
二人の腕は、テーブルの真ん中でぴたりと止まったまま、ぶるぶると震えていた。額に血管が浮き、顔は真っ赤だ。木こりがわずかに押す。歓声。荷運びが押し返す。もっと大きな歓声。拓海は思わず見入っていた。
――ああ、これ、試合や。
勝負の行方を、大勢が息を詰めて見守る。押せば沸く。押し返せばもっと沸く。誰かの一瞬に、みんなの声がひとつになる。
手の中で、スマホが小さく震えた。見下ろすと、画面の右上の数字が変わっていた。四パーセント。
店がまた沸く。五パーセント。荷運びが押し込み、木こりの手の甲がテーブルすれすれまで下がる。悲鳴と歓声が混ざり合う。七パーセント。木こりが雄叫びを上げ、そこから押し戻す。店が揺れるほどの大歓声。九パーセント。
「……は?」
拓海は画面と店を交互に見た。ケーブルなんて、どこにも刺さっていない。
最後に、木こりが荷運びの手をテーブルに叩きつけた。勝負あり。木こりに賭けていた客たちが肩を組んで歌い出し、負けた荷運びは悔しそうに笑いながら、自分で自分にジョッキを奢っている。歓声が少しずつ、ただのざわめきに戻っていく。画面の数字は、十一パーセントで止まった。
「はいはい、おしまい! テーブル戻して!」
リタがお玉を振り回しながら、客たちを席へ追い返していく。拓海は厨房の入り口に突っ立ったまま、画面の数字から目を離せなかった。
* * *
皿洗いの続きは明日もある、ということらしく、その夜、拓海は酒場の屋根裏部屋を借りることになった。藁を詰めた布団はちくちくしたが、日なたの匂いがした。小さな窓から、二つの月が見えた。
布団の上にあぐらをかいて、スマホをつける。十一パーセント。さっきから、一パーセントも減っていない。いや、正確には、減らさないように、ほとんど画面をつけないでいた。それでも、どうしても、書き込みたかった。
『88:風吹けば名無し:報告 酒場で腕相撲が始まったんやけど、歓声が上がるたびにスマホの電池が増えたンゴ 3%から11%や ケーブルなんか刺さってへんで』
『89:風吹けば名無し:は?』
『90:風吹けば名無し:>>88 設定盛るな』
『91:風吹けば名無し:異世界の充電器が歓声なの草』
『92:風吹けば名無し:腕相撲で8%回復するスマホ』
『93:風吹けば名無し:ほな毎日腕相撲大会開けばええやん』
『94:風吹けば名無し:腕相撲じゃ毎日は無理やろ 客飽きるで』
『95:風吹けば名無し:もっとこう、毎日やっても飽きなくて、大勢が見て、みんなで叫べるもんないんか』
毎日やっても飽きない。大勢が見る。みんなで叫ぶ。負けても、明日がある。なんで観てるんやろな、とぼやきながら、それでもまた観に行ってしまう。そんなもの、拓海はひとつしか知らない。
拓海がそれを打ち込むより早く、スレのほうが答えを出した。
『96:風吹けば名無し:やきうやろ』
『97:風吹けば名無し:やきうやな』
『98:風吹けば名無し:異世界でやきうはさすがに草』
『99:風吹けば名無し:ボールもバットもないやろ』
『100:風吹けば名無し:やきうのおにいさん異世界でもやきう観たいんか?』
百番目のレスに、拓海は思わず噴き出した。観たい。そうだ。観たいのだ。
この世界には、プロ野球の中継はない。なんJで実況スレを読むことはできても、試合そのものは観られない。打球の音も、スタンドのどよめきも、ここには届かない。なら、作るしかない。
自分が投げられなくても、誰かが投げる試合を、誰かが打つ試合を、この世界で。
拓海はゆっくりと文字を打った。
『101:風吹けば名無し:ワイ、異世界で野球やるわ』
送信して、画面を消す。部屋は真っ暗になり、窓の外の月明かりだけが残った。下の店からは、まだ誰かの歌声と、ジョッキのぶつかる音が聞こえてくる。
布団に寝転がって、右の肘を、左手でそっと撫でた。
一年ぶりに、明日が少しだけ待ち遠しかった。
脚注
※¹内側側副靱帯:関節の内側にあり、関節が外側に曲がりすぎたりグラつきを抑えるのに重要な靭帯。
※²ジャッカロープ:角の生えた兎のUMA(未確認生物)。




