第18話 首席、走る
翌朝、拓海はまだ暗いうちに目を覚ました。屋根裏の窓の外では、灯り玉が夜の名残のように白く光っている。二つの月は、塔の陰に隠れて見えない。外套をはおり、ゴルドのグローブと赤い糸のボールを手にして、拓海は足音を立てないように塔の階段を下りていった。
中庭に、霜は降りていなかった。地熱の術のおかげで、土はほんのりと温かく、うっすらと立ちのぼる湯気のようなものの中を、小さな影が走っている。
今日は、柱の陰には隠れない。拓海が腰を下ろしたのは、ゆうべ唐揚げの包みを置いた中庭の隅の石の腰掛けだ。
影は一周して、拓海の前を通り過ぎかけたところで足をもつれさせた。二、三歩たたらを踏んでどうにか踏みとどまったセシリアの紫の瞳が、拓海に気づいて大きく見開かれる。
「……いつから、そこに」
「今、来たとこや」
大きく上下する肩に合わせて、三つ編みの先から汗が一滴落ちた。
「ゆうべの、あれは」
「ワイの」
「……そうでしたのね」
セシリアの目が、拓海の隣へ移る。腰掛けの上には、ゆうべの布がきちんとたたまれたまま残っていた。
「布を、お返しするつもりでしたわ。洗って。……でも、置いていかれたのが誰のものかも、わかりませんでしたから。……ですから、そこに、置いておきましたの」
「ええよ、そんなん」
ローブの裾を直し、息を整えてから、セシリアはまっすぐに拓海を見た。
「……おいしゅうございましたわ」
唐揚げへの礼にしては、上品すぎる。こらえきれずに笑うと、セシリアが少しむっとした顔をした。
* * *
「わたくし、走るのが、学院でいちばん下手ですの」
拓海から少し離れて、セシリアは腰掛けの端に座る。
「小さいころから、走ったことが、ほとんどありませんでしたの。ローゼンハイムの家では、物を手で取るのは、魔法の下手な者のすることだと教わります。歩くのも、階段を上るのも、浮いていれば済みますもの」
膝の上で、両手が重なる。右の手が上だった。
「四つのときには、もう、自分の体を浮かせることができましたわ。六つのときには、家じゅうの本を、指一本で棚に戻せました。……でも、そのかわり、走り方を、誰も教えてくれませんでしたの」
「せやから、夜中に」
「昼間に走ったら、皆に見られますでしょう。首席が、あんなにみっともなく走るところを」
白みはじめた空の下で、セシリアは少しだけ唇をかんだ。
「三日前、中庭で、あなたが全部禁止とおっしゃったとき。わたくし、腹が立ちましたの。魔法を取り上げられたら、わたくしには何も残らないと、思いましたから」
拓海は口を挟まずに、手の中のボールの縫い目を親指でなぞっている。
「でも、あの夜、塔の窓から、四人で地面に座っているのを見ましたの。浮かずに。……それで、試してみたくなりましたの。魔法を使わないで、わたくしの体が、何ができるのか」
そこまで言って、セシリアは小さく首を振った。
「何も、できませんでしたわ。三晩走って、まだ、まっすぐ走れませんの」
手の中の赤い糸のボールに、拓海は目を落とした。何も言わずに、下からふわりと放る。セシリアのほうへ。手を伸ばせば届くところへ。山なりの、ゆっくりした球を。
セシリアは指を向けなかった。考えるより先に、手のほうが勝手に前へ出る。
ぱしっ、と小さな音がして、白い球がセシリアの手のひらに収まった。
――左の、手のひらだった。
球を握ったまま、セシリアは凍りついたように自分の左手を見つめている。
「……投げ返してみ」
はっとしたように球を右手に持ちかえて、セシリアは立ち上がった。拓海のほうへ向き直り、右腕をぎこちなく振る。球は拓海の足もとのずっと手前に落ちて、ころころと転がっていく。セシリアの頬が、さっと赤くなった。
転がってきた球を拾って、拓海はもう一度下から放った。セシリアはまた、左の手で捕る。
「今度は、左で投げてみ」
「――できませんわ」
即座の、硬い声だった。
「左手は、不作法ですもの」
「不作法?」
「小さいころ、左の手でばかり物を取ろうとして、ばあやに、何度も叱られましたの。匙も、ペンも、杖も、右で持つものだと。左で何かをするたびに、手の甲を、ぴしゃりと」
左手の甲を、セシリアは右手でそっとなでる。
「それで、右で持つようになりました。右で持つのが下手なぶん、魔法で補うようになりました。……そのうちに、手で何かを持つこと自体、しなくなりましたわ」
――あの子にとって、魔法は、手と足の代わりだったのだ。
学院長の声が、耳の奥でよみがえる。何と言えばいいのか考えてみても、気の利いた言葉は出てこなくて、結局思ったままを口にした。
「野球にな、不作法な手なんか、ないで」
セシリアが顔を上げる。
「右で投げても、左で投げても、ストライクはストライクや。ワイの国にはな、左で投げる投手だけの呼び名があるくらいや。サウスポー言うてな。左の投手は、それだけで、みんなに欲しがられる」
「……左が、欲しがられる?」
「右で投げるやつばっかりのとこに、左が一人おったら、打つほうは、ものすごい打ちにくいねん。球がいつもと逆から来るからな」
自分の左手と、手の中の球。セシリアの目が、その二つを行ったり来たりする。
「ここには、ばあやはおらん。……一球だけ、左で投げてみ」
長い沈黙のあいだに、中庭の向こうで灯り玉がひとつ、またひとつと消えていった。夜が明けかけている。白んでいく空の下で、セシリアは球を左手に持ちかえた。
構えはめちゃくちゃで、足の位置も肘の高さも何もかもが誰にも教わっていない形をしている。
それなのに、腕を振った瞬間。
その腕は右で振ったときとはまるで別のもののように、するりとしなって、球をまっすぐにこちらへ運んでくる。
ぱしん。
拓海のグローブの真ん中で乾いた音が鳴り、中庭がしんと静まりかえった。
左手を振り下ろした形のまま、セシリアは動かない。やがてゆっくりと、その左手を目の前に持ち上げる。
「……変、ですわ」
声が、少し震えていた。
「何も、考えませんでしたの。体が、勝手に」
「勝手に動くんが、ほんまの利き手や」
セシリアは左手から目を離さない。塔のあいだから朝日が射しこんで、中庭の土の上に二人の影を長く伸ばした。
* * *
「九人は、どこに立ちますの」
隣に座り直したセシリアの、まっすぐな問い。
棒切れで地面に描いていく守備位置は、乗合馬車の中でオスカーたちに描いてみせたのと同じ絵だ。
「投手。捕手。一塁、二塁、三塁、遊撃。左翼、中堅、右翼」
「この中で、いちばん、全部が見える場所は、どこですの」
迷わず、拓海は本塁のうしろを指さす。
「捕手や」
「捕手」
「九人の中で、一人だけ、みんなのほうを向いて座ってる。投手も、内野も、外野も、走者も、打者も、全部、目の前に見える。投手に、どんな球を投げるか合図するのも、捕手や」
すっと細くなったセシリアの目は、何かを頭の中で並べているようだった。
「それから」
棒切れの先で、本塁のうしろをとんとんと叩く。
「捕手は、球を止める仕事や。投手の投げた球を、どんな球でも、後ろにそらさんと、止める」
拓海を見たセシリアの指先が、三つ編みの先を肩の後ろへ払った。中庭で初めて会った夕方と、同じしぐさだった。
「それなら、得意ですわ」
言ってから、セシリアの目が自分の左手に落ちる。
「……手で、ですのね」
「手で、や」
左手を握って、開いて、もう一度握る。
「魔法禁止の件は、まだ、納得しておりませんわ」
「わかってる」
「わたくしは、わたくしの魔法も、わたくしの体だと、今でも思っておりますの。……それとこれとは、別の話ですわ」
「わかってる。それはワイも考えてる」
セシリアは立ち上がって、ローブの裾を払う。
「捕手の手袋は、どちらの手にはめますの」
「投げるのと、反対の手や。ワイは右で投げるから、左にはめる」
ゴルドのグローブを見せると、セシリアはそれと自分の右手を見比べた。
「……では、わたくしは、右手に」
「せやな。せやけど……」
拓海は手もとのグローブに目を落とした。左手用のグローブは、ゴルドが作ってくれたこれ一つしかない。右手にはめるミットなんて、王都のどこにも、まだないのだ。
* * *
『1:異世界イッチ:首席、左利きやった』
『2:風吹けば名無し:お嬢が?』
『3:風吹けば名無し:子どものころに右に矯正されたパターンか?』
『4:風吹けば名無し:>>3 昔は多かったらしいな ワイのおかんも箸だけ右や』
『5:風吹けば名無し:サウスポーのお嬢とか属性盛りすぎやろ』
『6:風吹けば名無し:で、投手にするんか?』
少し迷ってから、書きこむ。
『7:異世界イッチ:捕手や 本人が、全部見える場所がええって』
『8:風吹けば名無し:左のキャッチャー!?』
『9:風吹けば名無し:プロにはほぼおらんで』
『10:風吹けば名無し:三塁に投げるとき右打者が邪魔になるとか、本塁でのタッチがどうとか、理由は諸説あるけどな』
『11:風吹けば名無し:>>10 マジレスすると左利き用のキャッチャーミットが特注レベルでほとんど売ってないから※¹』
『12:風吹けば名無し:>>11 草 需要少なすぎて作られないんやな』
『13:風吹けば名無し:そもそもそっちの世界じゃ右利き用でもグローブ自体が特注品やろ』
『14:風吹けば名無し:お嬢が捕手やりたい言うてるんやから、やらせたったらええねん』
十四番の書き込みの上で、拓海の親指が止まった。
ほな、ええやん。こっちの世界の野球や。誰がどこを守るかは、ここにいる人間が決める。
『15:風吹けば名無し:問題は手袋や 右手用のミットがいるで』
『16:風吹けば名無し:>>15 鍛冶屋のおっさんに頼んだら十日かかって十日で届くやつ』
『17:風吹けば名無し:往復二十日は長いな』
『18:風吹けば名無し:王都にも革の職人はおるやろ そっちで探せや』
* * *
その日の昼、拓海は市場の南の三列を訪ねた。ドーラン商会の本店は屋台ではなく、扉の上に天秤の看板を下げた石造りの三階建てで、中に入ると香辛料と革と干した果物の匂いが、いっぺんに押し寄せてくる。
奥の帳場で何人もの番頭に囲まれていたマルセルは、拓海を見ると、手のひと振りで番頭たちを下がらせた。
「釣り銭の続きを、受け取りに来たのかね」
「頼みがあって、来ました」
帳場の机の上に紙を一枚広げる。その朝、屋根裏に戻ってから窓の明かりの下で描いた絵だ。ゴルドのグローブを手本に、指の位置と革の網と分厚い詰め物の場所を、できるだけ細かく描きこんである。
「捕手の手袋です。これを、右手にはめる形で、作れる職人を探してるんです」
絵を手に取ったマルセルの目が、指の位置をひとつずつなぞっていく。
「右手に、はめる手袋」
「はい」
「つまり、左の手で投げる者のための、手袋か」
拓海は答えなかった。絵から目を上げたマルセルが、その顔を見てふっと笑う。
「答えなくていい。商人は、客の手の内は、口外しない」
呼ばれた番頭が短い言いつけを受けて、絵を手に奥へ消えていく。
「うちの鞍を縫っている職人がいる。鞍の革は、馬の背と人の尻を、何十年も守る。手の一つくらい、守れるだろう。……三日、と言いたいところだが」
マルセルの指が、二本立った。
「二日で、届けさせる」
「お代は」
「釣り銭の続きだ」
帳場の椅子に、マルセルがもたれる。
「言っただろう。あの紙一枚は、まだまだ、使い切っていない。……それに、首席の娘が地べたにしゃがみこんで球を受けたいと願うほどの価値があるなら、それは実に興味深い」
思わず、拓海はマルセルの顔を見返す。
「……なんで、首席やって」
「商人は、王都で起きていることは、たいてい知っている」
マルセルは、涼しい顔のままだ。
「ゆうべ、学院の中庭で、誰かが一人で走っていたこともね。……知っていることと、口外することは、別だ」
いったい、どこに目がついているのだろう。
* * *
次の日の練習には、十三人が来た。中庭を自分の足で一周走った者に、唐揚げ一本。その決まりはまだ続いていて、練習の前に一周、練習のあとに一周と、走る学生の数は日に日に増えている。
ご褒美の唐揚げ串は、料理番の老人が仕込みのついでで作ってくれるようになった。手間賃と材料費は、ハーケンから運んできた小麦粉が代わりになった。正直、拓海はそれの使い道を考えあぐねていたので、粉屋の双子には申し訳なく思いつつも、丁重に差し出させてもらった。
そうして、仕込みのたびに手がにんにく臭くなる悩みから解放されたのは良かったが、老人の作る唐揚げ串は、明らかに拓海が作ったものよりも味も食感も良くなっていて、少しだけ複雑な気分になった。
中庭に集まった学生たちの中で特に目立つものは、やはりというか当然のように成績優秀なものたちでもあった。最初に集まった単位目当ての三十人は、もはや数人しか残っていない。
短い髪の女子学生の名前は、イルザ。二年生で、跳躍の術を使わずに走るのはまだぎこちないが、それでも脚が速い。中庭を一周する速さなら、もう誰にも負けなかった。
三塁の男子学生は、テオという。打球を指一本で引き寄せていた手で、今は転がってくる球を腰を落として捕ろうとしては、何度も股のあいだを抜かれている。
そして、風で投球を曲げるヘンリエッテも、明らかに作られた仏頂面を引っさげてやってきた。
「わたしは、唐揚げに釣られて来たのではないのよ」
そう言いながら一周走って、きっちり一本受け取っていく。しっかり釣られている。
問題は唐揚げの粉で、ブルーノの干し芋はもう袋の底に少し残っているだけだった。
そこへ、オスカーが学院の書庫から古い本を抱えてきた。王都の料理の本ではなく、薬草の本。芋をすりおろして水にさらし、底に沈んだ白い粉を集めて乾かす、薬を練るときのつなぎの粉の作り方が載っている。
「芋なら、どんな芋からでも取れるって。たくさんすりおろせば、そのぶんたくさん沈むって、ここに」
拓海が顔を見ると、オスカーは本で顔を隠した。
四人で王都の芋を山のようにすりおろす。桶の水にさらして布で漉し、しばらく置くと、桶の底に白い粉が驚くほど厚く沈んだ。もしかすると王都の芋は、はじめからこの目的で作られていたのかもしれない。
沈んだ粉を木の盆に広げたものの、乾くまでには何日もかかりそうだ。そう思ったところで、ヘンリエッテが黙って盆の上に指先を向けた。指輪がちかりと光る。小さなつむじ風が盆の上をくるくると回りはじめて、濡れた白い粉が見る間にさらさらと乾いていった。
「……投げた球を曲げるより、ずっと簡単よ」
そっぽを向いたまま、ヘンリエッテが言った。
「こういうのなら、禁止じゃないのでしょう?」
「試合中やないからな」
「そう。……それなら、いいわ」
乾いた白い粉を指でつまんでみると、きゅっと鳴くような手ざわりがした。片栗粉の手ざわりだ。
* * *
頼んでから二日目の昼過ぎに、マルセルの約束どおり、ドーラン商会の小僧が中庭に包みを届けに来た。中から出てきたのは、右手用のキャッチャーミットだった。ゴルドのグローブよりひと回り大きく、ずっと分厚い。手のひらの部分には鞍の詰め物と同じ、固く押し固めた羊の毛が入っていて、縫い目は細かくまっすぐだ。親指の付け根には、小さな天秤の焼き印が押してある。
中庭では、十五人の学生が練習をしている。光の粒をまき散らしながら球を追うフィン。外周を走るイルザ。キャッチボールをするルーカスとオスカー。
拓海がミットを眺めていると、中庭が急に静かになった。学生たちが皆、同じほうを見ている。その視線の先、中庭を囲む塔の一つから、外の石段を下りてくる者がいた。
浮いては、いなかった。
一段ずつ、自分の足で。濃紺のローブの裾を片手でつまみ、銀の三つ編みを肩の上で揺らして、石段を下りてくる。
「……首席が、階段を歩いてる」
誰かが、ささやいた。
石段を下りきったセシリアは、中庭の入り口の石のアーチの下で立ち止まり、十五人の学生をゆっくりと見回した。最後に、その目が拓海をとらえる。
「まず、一周、走りますわ」
それだけ言って、セシリアは走りだした。走り方は、まだぎこちない。毎晩夜中に走ったぶんだけほんの少しましになってはいたが、腕と足はちぐはぐに動いていて、中庭の角を曲がるときには一度大きくよろけた。
誰も、笑わなかった。
手を止めた学生たちが見守るなか、セシリアが半周を過ぎたころ、外周の向こうからイルザが走ってきた。何も言わずにセシリアの隣に並び、速さを合わせて走りだす。
少し遅れて、光の粒をまき散らしながらフィンが二人のうしろについた。ルーカスが続き、本を腰掛けに置いたオスカーが続き、テオとヘンリエッテが続く。最後の角を曲がるときには、セシリアのうしろに十人以上の学生がぞろぞろと連なっていた。中庭を見下ろす塔の窓から、声が上がる。
「首席、がんばれ!」
誰の声だったのかは、わからない。それを合図にしたように、あちこちの窓から声が降ってきた。
「あと少し!」
「ローゼンハイム、走れ!」
一周を走りきったセシリアが、拓海の前で足を止める。両膝に手をついて肩で大きく息をするたびに、ほどけかけた三つ編みが揺れた。
拓海は何も言わずに、右手用のミットを差し出した。顔を上げたセシリアの目が、ミットを見て、天秤の焼き印を見る。そして両手で、それを受け取った。
右の手に、はめる。
何人かの学生がそれに気づいて、顔を見合わせる。右手に、はめた。首席が右手に。そのざわめきのほうへ、セシリアが向き直る。
「わたくし、左利きですの」
中庭じゅうに聞こえる、澄んだ声。
「小さいころに、右に直されました。ずっと、隠しておりましたわ。……でも、隠しておくのは、性に合いませんの」
誰も、何も言わなかった。静まりかえった中庭で、セシリアが拓海のほうへ体を向ける。
「監督さん。わたくし、捕手をいたしますわ」
「……おう」
「魔法禁止の件は、まだ、納得しておりませんわ。ですから、規則がきちんと決まるまでは、この手だけで、捕って差し上げます」
右手のミットを、左の拳でぱん、と叩く。初めてにしては、悪くない音だった。
「決まったら、わたくしの魔法も、捕手の役に立ててみせますわ」
* * *
本塁のうしろに、セシリアがしゃがんだ。しゃがみ方も、かかとを浮かせて膝を開き、ミットを胸の前に構えるのだと拓海が教えた。ローブの裾が土についても、セシリアは気にしない。
拓海が立ったのは十八メートルと少し先。ゴルドの鍛冶屋の床に刻まれた印と同じ距離だ。
下から放るように、ゆるやかに投げた。セシリアは目をつぶらず、球から最後まで目を離さない。
ぱしん。
分厚いミットの真ん中で、球が鳴った。セシリアはその球を左手でつかみ出し、立ち上がって左腕を振る。球はまっすぐに拓海の胸もとへ返ってくる。
中庭が沸いて、拍手が起こった。最初の日、セシリアが指一本で球を止めたときと同じくらいの拍手。いや、もう少し大きい。塔の窓からも、手を叩く音が降ってくる。
返ってきた球をグローブの中で握りしめる。学院長の塔の、屋根裏のすぐ下の窓。そこに短く刈った白い髪が見えた気がした。窓はすぐに閉まった。
* * *
その夜、屋根裏で開いたスマホでは、おとといのスレがあれからも首席の話でずっと伸びていた。その続きに、拓海は書きこむ。
『70:異世界イッチ:今日な、お嬢が塔から自分の足で降りてきて、中庭一周走ったんや 浮かんと』
『71:風吹けば名無し:自分の足で!?』
『72:異世界イッチ:途中から学生が後ろについて走りだして、最後は十人以上並んどった 塔の窓からも、がんばれ言うて声が降ってきた』
『73:風吹けば名無し:首席、走る ってスレタイにしたいわ』
『74:風吹けば名無し:みんなでお嬢の後ろついて走ったん、ドラマのラストやんけ』
『75:異世界イッチ:ほんで走り終わってから、届いたミットを右手にはめて、みんなの前で左利きや言うた』
『76:風吹けば名無し:自分から言うたんか』
『77:風吹けば名無し:かっこよすぎるやろ』
『78:風吹けば名無し:ワイ泣いてもうた』
『79:風吹けば名無し:>>78 ワイも』
『80:異世界イッチ:魔法禁止はまだ納得してへんから、規則が決まるまでは手だけで捕ったる、やって』
『81:風吹けば名無し:で、規則が決まるまで手だけで、か お嬢、宿題置いていったな』
『82:風吹けば名無し:イッチ、魔法の規則、そろそろ書かなあかんで』
八十二番の書き込みの上で、指が止まる。懐から規則書を取り出して、『野球規則 写し』の最後の頁を開く。白い空白の真ん中に、インクの染みが一つだけ乾いていた。
まだ、何も書けない。
それでも、インクを落としたあの夜とは何かが違う気がした。この頁は、一人で書くものではない。あの夜、スレで言われたとおりだ。
規則書を閉じて見た画面の右上は、四十八パーセント。中庭の窓から降ってきた声の数だけ、増えていた。
窓の外で、灯り玉が光っている。学院長の塔の、隣の塔。いつも遅くまで明かりがついている窓に、今夜も明かりがついていた。
その窓の向こうで、誰かが左の手でペンを握っているような気がした。
脚注
※¹左利きのキャッチャーがいない理由:マジレスすると、諸説ありすぎて真相は不明。




