第19話 回復魔法はアリですか
捕捉:
作中で1年とか2年とか言われている学生ですが、この学院は何歳からでも入学できて、入学してから何年目、という意味になります。必要な授業を受けて、必要な試験を受けて、必要な単位を獲得したら、その年度で卒業ができるようになります。首席とはつまり、もっとも卒業に近い学生、ということになるので、2年目でもう首席のセシリアは本当に優秀な学院生ということになるでしょう。
もしかすると、学院には10年の40歳男性とかもいるかもしれません。いても作中に出しませんが。
十八人になったのは、王都に来て十一日目の夕方だった。数えたのはオスカーだ。練習のあと中庭を一周走って唐揚げを受け取った学生の名前を、本の余白に一人ずつ書きつけていたらしい。最後の一人を書き終えたところで、オスカーが本から顔を上げた。
「……監督さん。十八人、です」
のぞきこんだ余白には、細かい字で名前が並んでいた。フィン。ルーカス。オスカー。セシリア。イルザ。テオ。ヘンリエッテ。その下に、まだ顔と名前が一致しきらない学生たちの名前が十一人ぶん。
十八人。ハーケンでブルーノが十八人目になった日のことが、ふっと頭をよぎった。
「……紅白戦、できるな」
* * *
王都で初めての、まともな紅白戦は、その翌日の昼過ぎだった。魔法はセシリアとの約束どおり、規則が決まるまで全部禁止のまま、手と足だけでやる。皆それを承知のうえで、浮かずに中庭の土を踏んでいた。
左手には、そろいのグローブ。ミットのあとから頼んだ左手用も、同じ鞍職人がゴルドのグローブを手本に縫って、ゆうべのうちに人数ぶん届けてくれていた。これも釣り銭の続き、だそうだ。
十八人を九人ずつに分けて、紅組はヘンリエッテが投げてセシリアが受け、白組はルーカスが投げる。審判は拓海が務める。
一回、二回と、試合はそれなりに進んだ。風の糸がなくても腕のしなやかなヘンリエッテの球はよく伸び、セシリアは何度か後ろへそらしながらも、そのたびに自分の足で拾いに走っていく。浮かずに。
三回の表だった。ヘンリエッテの投げた球がすっぽ抜けて、打席のルーカスの左肘にまともに当たる。ごつ、と鈍い音。悲鳴を上げてうずくまるルーカスのもとへ、拓海は審判の位置から飛び出していた。
「ルーカス!」
肘を押さえた指のあいだから、赤黒い腫れが見る間に広がっていく。背中を冷たい汗が流れ落ちて、自分の右肘の奥までつられてずきりと疼いた。
「どいてください」
振り返ると、右翼の守りから駆けてきたらしい小柄な女子学生が、肩で息をしていた。そばかすの散った顔に、栗色の髪をきつく結んでいる。ノーラという紅組の一年生で、唐揚げを受け取るときにいつも小さな声で礼を言う子だ。
ルーカスの横に膝をついたノーラが腫れた肘に両手をかざすと、その手のひらから淡い緑の光がこぼれだした。春先の若葉のような色をした光が、ルーカスの肘をやわらかく包みこむ。赤黒い腫れが端のほうから引いていって、三つ数えるほどのあいだに、肘は元の色に戻っていく。ルーカスがおそるおそる、治ったばかりの腕を曲げ伸ばしする。
「……痛くない」
「治癒術を、学んでいます。打ち身くらいなら、すぐです」
相変わらず、消え入りそうなほど小さな声だった。その声に背中を押されたように、ルーカスが立ち上がって一塁のほうへ目をやる。
「監督さん。一塁、行けます」
一塁を指さして、拓海はほっと息をついた。それでも胸のどこかには、小骨のような引っかかりが残っていた。
* * *
引っかかりの正体がわかったのは、五回の表だった。ヘンリエッテの球が目に見えて遅くなり、マウンドの上で肩が大きく上下していた。風の術など関係なく、腕を振って球を投げ続けたのは、きっと生まれて初めてだったのだろう。腕がもう、上がりきらない。タイムがかかって紅組の内野がマウンドに集まったところへ、右翼の守りから、ノーラがそっと近づいてきた。
「あの……腕の疲れも、取れますよ」
ヘンリエッテの目が、マウンドの脇に立つノーラへ向く。
「打ち身と、同じです。疲れも、体の傷みの一種なので」
ノーラがヘンリエッテの右肩に手をかざすと、淡い緑の光が肩から肘へ、肘から指先へと流れていった。腕をぐるりと回したヘンリエッテが、目を見開く。
「……一回の表と、同じだわ」
そこからのヘンリエッテの球は、一回と同じ速さに戻っていた。白組の打者が三人続けて凡打に倒れたところで、白組の学生たちから声が上がる。
「ずるい!」
「こっちの投手は、もうへとへとなのに!」
見れば白組のルーカスも、四回あたりから球が浮きはじめていた。白組の学生たちが、いっせいにノーラを振り返る。
「ノーラ、こっちにも!」
「ルーカスの肩も!」
おろおろと両方のチームを見比べるノーラの袖を、紅組の学生が引き、白組の学生が反対側から引く。このままでは、ノーラの袖のほうが先にちぎれてしまう。
「――ちょい待ち!」
両手を広げて、拓海はあいだに割って入った。しんと静まりかえった中庭で、ノーラを見る。ヘンリエッテを見る。肘をさすっているルーカスを見る。
怪我を治すのは、悪いことではない。それでも全部禁止の決まりのとおりなら、三回にルーカスの肘を治したところで、ノーラは退場だった。あのとき拓海は、一塁を指さしただけだ。
そのうえ、疲れまで治せるなら。投手は何回でも、一回の表と同じ球が投げられる。九回でも、十八回でも。そうなれば、治癒術を使える者が多いチームが勝つ。それは、野球なのか。
「……回復魔法って、アリなんか」
問いが、ぽろりと口からこぼれていた。誰も、答えなかった。
* * *
その答えが出る前に、もう一つ問題が起きた。六回の表、一死一塁。打者が三塁線に転がした球を、テオが腰を落として捕る。今度は股を抜かれずに、そのまま一塁へ。一塁には、フィンがいた。
テオにとって初めての、きれいな送球だった。まっすぐ胸もとへ向かってくる球に、フィンの顔がぱっと輝く。
光の粒が弾けた。うれしさがそのままあふれ出したように、いつもの何倍もの光がフィンの周りへ噴き上がる。その渦に巻きこまれた送球はぐらりと揺れて、フィンのグローブの先をかすめ、後ろへ転がっていった。走者が二塁へ、三塁へと走る。転がっていく球を呆然と見送ったフィンの目が、まだ光の粒がふわふわと漂っている自分の両手に落ちた。
「……ごめんなさい」
声が震えていた。
「止められ、ない。うれしいと、出ちゃう」
マウンドから、ヘンリエッテが静かに口を開く。意地悪ではなく、ただ事実を言うだけの声だった。
「全部禁止、なのでしょう。……今のは、魔法よ」
フィンの目に、涙が浮かんだ。全部禁止なら、フィンは退場だ。肩の疲れを消してもらったヘンリエッテも、消したノーラも、本当なら同じだった。うれしいと光る子が、うれしいときに、退場になる。
フィンは退場にはせえへん――三日目の夕方に自分でそう言ったことを、拓海は思い出していた。どうして、と聞かれて、あのときは答えられなかった。今も、答えられない。
「――今日は、ここまでや」
試合は、そこで止めた。学生たちは黙ったまま、中庭の土の上に座りこんでいく。浮いて帰ろうとする者も、笑っている者も、誰もいなかった。
* * *
片づけが終わるころには、塔の影が中庭の半分まで伸びていた。その隅で右肘をさすっていると、ノーラがおずおずと寄ってきた。
「あの、監督さん。その肘……」
「ん?」
「さっきから、ずっと、さすってらっしゃるので。……診ても、いいですか」
少し迷ってから、拓海は右腕を差し出した。ノーラの手のひらから、また淡い緑の光がこぼれる。光は拓海の右肘を包みこむと、その奥を探るようにゆっくりと揺れている。やがて、それがすうっと消えた。ノーラの眉が、困ったように下がる。
「……古い傷、ですね。もう、ずいぶん前の」
「高校、いや……こっちに来る、ずっと前や」
ノーラの指先が、肘の内側の、古い傷のあたりをそっとなぞる。
「ごめんなさい。わたしには、治せません。傷が、もう、この肘の形になってしまっていて……これを元に戻すのは、治癒術ではなくて」
「神様の奇跡くらいのもん、やろ」
ノーラが、驚いたように瞬きをする。
「前にも、えらい治癒術師に、同じこと言われたわ」
笑って、右腕を下ろす。
「ええねん。治らんでも。ワイは、観る人やから」
じっと拓海の顔を見上げていたノーラが、胸の前で、小さく指を組む。
「……治せる傷と、治せない傷があるんですね。治していい傷と、治さないほうがいい傷も、あるのかもしれません」
* * *
その夜、屋根裏でスレを立てた。
『1:異世界イッチ:回復魔法って、アリやと思う?』
『2:風吹けば名無し:急にどしたんや』
『3:異世界イッチ:紅白戦で死球の打ち身を治癒術の子が一瞬で治した そこまではええねん 問題は、投手の疲れも治せたことや』
『4:風吹けば名無し:あっ(察し)』
『5:風吹けば名無し:無限完投やんけ』
『6:風吹けば名無し:中四日どころか中零日でいけるやん』
『7:風吹けば名無し:治癒術師の数で勝負が決まるクソゲーになるで』
『8:風吹けば名無し:ドーピングと一緒やな 体を試合中にいじるのはアカンやろ』
『9:風吹けば名無し:でも怪我の手当てはさせたれよ かわいそうやろ』
『10:風吹けば名無し:>>9 手当てはしてええけど、治したらその試合は交代、でええんちゃう』
『11:風吹けば名無し:>>10 それや 続けられへん怪我人ならその時点でベンチに下がるんやから、そのあとで治療するのは好きにしたらええねん』
『12:風吹けば名無し:治したら試合に戻れんのやったら、疲れを治すために使うやつはおらんやろ』
十番から十二番の書き込みを、何度も頭から読み返す。治しても、いい。でも治した者は、その試合には戻れない。それなら怪我人はちゃんと手当てを受けられるし、疲れを消すために使う意味はなくなる。
『13:異世界イッチ:で、もう一個あるんや うれしいと勝手に魔法が漏れる子がおって、その子の光で送球が揺れた 全部禁止やと、その子は退場になる』
『14:風吹けば名無し:それは酷やろ』
『15:風吹けば名無し:体質みたいなもんやん』
『16:風吹けば名無し:てか、全部禁止がもう無理なんちゃうか その世界』
『17:風吹けば名無し:何が許されて何がアカンか、先に言わせといたらええねん』
『18:風吹けば名無し:>>17 申告制か』
『19:風吹けば名無し:ワイらの野球かて、投手の異物使用は即退場やろ でもロジン※¹はええ 何がアリで何がナシか、全部先に決めてある』
『20:風吹けば名無し:危険球は一発退場、乱闘なら警告試合 段階もあるしな』
『21:風吹けば名無し:漏れる子は「ぼくは光ります」って先に言うといたらええ 知っとったら、相手も文句言えんやろ』
先に、言わせる。二十一番の書き込みを、もう一度ゆっくりなぞる。三日目の夕方にセシリアが言ったことが、耳の奥によみがえった。全員が使えるなら、それが、ここでの、同じ条件ではありませんの。
全員が何を使うか、先に知っていれば。それも、同じ条件になるのではないか。
『22:風吹けば名無し:イッチ、それ、一人で決めたらアカンで』
『23:風吹けば名無し:そうそう 選手と一緒に決めえ』
『24:風吹けば名無し:線を引くのは、イッチさんひとりの仕事ではありません。……でも、最初の一本を、どこに引こうか言い出すのは、監督さんの仕事かもしれませんね』
『25:風吹けば名無し:>>24 ネキ、今日はええこと言う日やな』
『26:風吹けば名無し:今日はってなんや』
* * *
翌日の夕方、拓海は十八人を中庭に集めた。地熱で温かい土の上に皆が輪になって座るころ、灯り玉がひとつ、またひとつと灯りはじめていた。輪の真ん中に規則書の『野球規則 写し』を置いて、その最後の頁を開く。
「ハーケンで、この規則書を書いた人がおる。その人が、別れ際に言うたんや。王都の規則は、王都で遊ぶ人たちと、書いてくださいって」
皆の顔を、ぐるりと見回す。
「せやから、ワイ一人では、書かへん。……みんなで、書こう」
誰も口を開かない。灯り玉の下で、輪になった影だけがゆらゆらと揺れていた。その沈黙を破ったのは、セシリアだった。
「では、まず、監督さんの考えを、お聞かせくださいまし」
ゆうべスレで考えたことを、そのまま話した。試合の前に、使う魔法を先に言う。何ができて、どこまでできるか、審判の前で一度やってみせる。言っていない魔法を使ったら反則。言ったより強く使ったら警告。話し終えたとき、灯り玉の光を受けたセシリアの紫の瞳がきらりと光った。
「……つまり、わたくしの魔法も、わたくしの体として、認めてくださるのね」
「先に、見せてくれたらな」
「見せますわ。何度でも」
そこからは、早かった。まず手を挙げたのは、ヘンリエッテだ。
「投げた球を、風で曲げるのは?」
「自分が投げた球や。先に言うて、見せてくれたら、ええ」
「なら、わたしの球は、魔球ね」
自分の球を、ためらいもなく魔球と呼ぶ。胸を張ったヘンリエッテが指先で小さなつむじ風を回してみせると、オスカーがうれしそうに本の余白へ何か書きつけた。
「曲げるのは、ええ。せやけど、どんだけ曲げても、本塁の上を通らんかったら、ストライクにはならへんで。それと、わざと打つ人の体を狙うて投げたら、警告か、退場や。向こうの規則でも、そうなっとる」
拓海の言葉に、ヘンリエッテは小さく鼻を鳴らした。指先のつむじ風が、くるりと一回りする。
「わかってるわ。わたしの風は、狙ったところへしか曲がらないもの」
その隣で、ルーカスが遠慮がちに手を挙げる。最初の紅白戦で打者たちが片っ端からやっていたことを、ルーカスも見ている。
「その球を、打つほうが止めるのは……」
「それは、あかん。投げた球は、投げた人の球や。打つほうが手ぇ出したら、相手の球に手ぇ出すのと同じや」
次は、おずおずと挙がったテオの手。
「打球を、引き寄せるのは……」
皆が顔を見合わせる。「打球は、まだ、打った人の球なのでは」と首をかしげるオスカーに、「守る人が捕りにいく球なら、守る人の球です」とルーカスが返す。輪のあちこちで、議論が始まった。それを収めたのは、セシリアだった。
「手を伸ばして、一歩踏み出せば届く。そこまでなら、自分で捕ったのと同じですわ。それより遠くから引き寄せるのは、相手の打った球に手を出すのと、同じでしょう」
「……一歩ぶん、か」
「強さを、申し出させればよろしいのよ。テオ、あなた、どこまで引き寄せられますの」
いきなり名指しされたテオの肩が、びくりと跳ねる。
「……本気なら、中庭の端から端まで」
「では、一歩ぶんまでと、申し出なさい。それ以上は、警告ですわ」
テオは何度も小刻みに首を縦に振り、入れ替わりにイルザがぶっきらぼうに手を挙げた。
「跳躍は? 一塁から二塁へ、一歩で」
「跳躍て、消えて、向こうに出てくるやつやろ」
「見えるところまでなら、どこへでも」
最初の紅白戦でも、塁と塁のあいだで走者の姿がふっと消えては、次の塁の上に現れていた。
「ラインアウトっちゅうのがある」
拓海は、いつだったかテレビで見たプロ野球選手の奇妙な走りを思い出していた。
「走者が、守備の相手が球を持ってタッチしにきたところを、横に逸れて逃げようとすると、反則ってことでアウトになんねん。少しくらいならええけど、基本的には塁と塁を繋ぐ直線上を走らなあかん※²」
「それを言うなら、まぁ、わたしの跳躍は確かに走ってないとも言えるけど」
「どっちかっちゅうと、守備がタッチでアウトにできへんのが問題やな」
なるほど、と、イルザが納得したように頷いた。
「じゃあ、脚を強めるのは」
イルザの問いに、拓海は言葉に詰まった。脚を強めるのは、自分の体だ。それでも強めた脚で二塁まで一歩で跳べるなら、消えて現れるのと似たようなものだ。物理的にはタッチできるとしても、瞬間移動に近い速度で走り抜けられるならば、守備側は反応できないだろう。見えてくる問題は跳躍と大差がない。
唐突に思い出したのは、向こうの高校の体育館だった。春の体力テストで、マットの端につま先をそろえて、両足で前へ跳んだ。立ち幅跳びだ。
「イルザ。ちょっと、そこから両足で、前へ跳んでみ。魔法なしで」
輪の外のひらけたほうへ向けて、拓海は中庭の土にかかとで一本の線を引いた。線の手前につま先をそろえたイルザが、腕を大きく振って跳ぶ。土の上に、かかとの跡が二つ並んだ。線からそこまで、拓海はかかととつま先をくっつけるようにして、自分の足を交互に置いて数えていく。
「……足、八つぶん。次は、魔法ありで」
もう一度、イルザが線の手前に立つ。腰を落とした脚がうっすらと光り、土を蹴った体が、灯り玉の光の下を低く飛んでいった。拓海はまた足を交互に置いて数えていく。十を過ぎて、十二を数えたところで、かかとの跡に届いた。振り返ると、イルザは両膝に手をついて、肩で大きく息をしていた。光の消えた太ももを、いたわるようにてのひらで触れる。
「……今のが、わたしの限界。これ以上魔法を強めたら、脚のほうが先に壊れる」
「身体の強化は、体に大きな負担がかかりますもの」
輪の中から答えたのは、セシリアだった。
「込める力が強すぎれば、筋を傷めますわ。そうでなくても、息が続きません。……騎士の方々は体を鍛えていらっしゃるから、もっと先まで跳べるのかもしれませんけれど」
騎士なら、もっと先まで。拓海は、まだ肩で息をしているイルザに目を戻した。
「イルザは、どこまでやったら、自分の脚で跳んだと思える?」
イルザは顔を上げて、遠くの跡と、線のすぐ先の跡を見比べた。
「……わたしの感覚で言って良いなら、倍くらいまで。それ以上は脚で跳んだというより、魔法で飛んだって言うべきかしら」
「ほなら、ひとまずそれを身体の強化の上限にしよう」
拓海が告げると、セシリアが顎を指先で触れて、小首をかしげた。
「倍までは、まだ足四つもありますわね。届かない線でも、引いておきますの?」
「引いとく」
拓海は迷わずに答えた。
「騎士がどこまで跳べるかも、まだわからへん。それに、いつか、野球のために強化を磨くやつが出てくる。そのときになって線がなかったら、困るやろ」
「では、魔法なしの倍まで、といたしましょう」
セシリアの言葉に、輪の中から反対の声は出なかった。オスカーが、本の余白に小さく書きつける。イルザ。魔法なし、足八つ。魔法あり、十二。
「今の強さが、イルザの上限や。脚でも、腕でも、どこに使うても、それより強うしたらあかん」
自分の左肘を、ルーカスがそっとさすっている。きのう、ヘンリエッテの球が当たったところだ。
「……腕も強められるなら、あの球が、もっと強く当たっていたかもしれませんね」
ルーカスの言葉に、拓海はきのうの鈍い音を思い出していた。魔法のない球でも、肘はあれだけ腫れたのだ。強めた腕で投げた球なら、肘では済まない。
「投げる球は、打つ人と捕る人が、身を守れる強さまで。それより強い球は、どんなにええ球でも、あかん」
「その物差しは、どなたがお決めになりますの」
「審判や。どっちのチームにも、同じ物差しを当てる」
ヘンリエッテの指先で回っていたつむじ風が、少しだけ小さくなった。目くらましについては、すぐに皆の意見がそろった。相手の目に働きかける魔法。相手の体に手を出す魔法。それは、野球ではない。迷いながら小さく手を挙げたのは、ノーラだった。
「治癒術は……」
ノーラのほうへ、体ごと向き直る。
「怪我の手当ては、してええ。せやけど、治してもろた人は、その試合には、もう戻れへん。代わりの人が出る」
「疲れを、治すのも」
「疲れを治しても、その試合には戻れへん。せやから、誰も、疲れを治そうとは思わへん」
胸の前で指を組んで考えこんでいたノーラが、やがて、組んだ指をそっとほどいた。
「……それなら、わたし、安心して、手当てができます」
「ただ、治す前に、治される人に、ちゃんと聞いたってな。治してもろたら、その試合には、もう戻られへんのやから」
ノーラは自分の手のひらに目を落として、それから小さく「はい」と答えた。最後に、フィンの小さな声がした。
「ぼくは……」
その先を言いかけたフィンより早く、ヘンリエッテが口を開いた。
「目くらましが禁止なら、フィンの光も目くらましになるわよ。きのうみたいに、うれしくて、光ったら」
責める声ではなかった。きのうの六回と同じ、ただ事実を言うだけの声だ。フィンの周りの光の粒が、しゅんと小さくなる。
「……体質は、除外すべきだと思います」
本の余白から顔を上げたのは、オスカーだった。
「精霊や妖精族など、魔法の身体を持つ種族から血を引くひとは、肉体は人間と同じように見えて、体内で魔法が循環する経路が異なります。そのため、祖先には存在した翼を動かす筋肉の動きが魔法の風に変わったり、感情の起伏が光として外側へ飛び出したりするそうです。……フィン、きみは確か……」
皆の目が、フィンに集まる。光の粒をまとった小さな肩が、ぎゅっと縮こまった。
「……ひいおばあちゃんが、精霊、だったって」
しんとした輪の中で、セシリアが静かに言った。
「では、それは、フィンが生まれ持ったものですわ。目くらましとは、分けて考えましょう。審判が、例外として認めればよろしいのよ」
すかさず、ヘンリエッテが付け足す。
「でも、わざと相手に向けて光らせたら、それは、目くらましよ」
「危ない球も、です。生まれつきの力でも」
左肘に手を当てたまま、ルーカスが言った。きのうの死球の痛みは、もう残っていないはずの肘だった。
「……それで、ええ。わざとやなかったら、例外。わざと相手に向けたら、あかん。危ない球は、何があってもあかん」
フィンの周りで、光の粒がまだ不安そうに揺れている。
「ぼくは、何を、申し出たら、いいの」
少しだけ考えると、答えは拍子抜けするほど簡単だった。
「そのまんまや。ぼくは、うれしいと光ります、って」
フィンの目が、こぼれ落ちそうなほどまんまるになる。
「それで、審判の前で、一回、うれしくなってみせる。どれくらい光るか、見せといたら、ええ。それより強く光ったら、警告。……でも、それくらいやったら、フィンの体の一部や」
フィンは、拓海の顔から目を離さない。そして、ぱっと光った。いつもの何倍もの光の粒がフィンの周りに噴き上がって、輪になった十八人の顔を明るく照らし出す。
「――今の、ぐらいです」
中庭が、笑い声に包まれた。その笑い声が収まりかけたころ、ヘンリエッテがふと首をかしげた。
「ねえ。申し出た中身は、相手のチームにも、見せるの?」
輪が、また静かになる。ハーケンでは、そんなことを考える必要はなかった。誰も、何も、隠し持ってなどいなかったのだから。
しかし拓海は、あっさりと言った。
「ぶっちゃけ、どっちでもええと思う」
「それは、どうしてですの?」
セシリアが首を傾げる。その他全員も、拓海に疑問の目を向けていた。
「だって、同じ相手と一回しか戦わへんわけやないやん」
「……それは、たしかに。でしたら、見せても見せなくても同じですわね」
言われてみればと、全員が頷いていた。初日に一度だけ繰り広げた魔法合戦のおかげで、この場にいる全員が、すでにお互いの魔法の手の内をおおよそ知り尽くしていた。
「では、こうしましょう。あくまで審判に申し出れば良しとして、相手チームに見せるかどうかは個人の自由。試合前に見えずとも、相手の手の内は、試合の中で読み解けばよろしい。投手の指先に、どんな風が巻いているか。走者の足もとに、どんな流れがあるか」
膝の上の右手のミットを、セシリアがそっとなでる。
「それを読むのは、捕手の仕事ですわね。……いちばん、全部が見える場所ですもの」
思わず見やったその横顔で、楽しそうに光る紫の瞳は、中庭で初めて会った夕方の冷たい光とはまるで違った。
* * *
「どなたが、お書きになりますの」
セシリアの問いに、拓海は羽根ペンとインク壺を彼女の前に置いた。
「セシリアが、書いて」
「わたくしが?」
「ワイが書いたら、また『打ちのめし続ける』みたいになるやろ。読み書きはできるねんけど、言葉遣いがどうにもあかんねん。ハーケンじゃ、あれで衛兵さんにメッチャ詰められたからな」
輪を作る全員が、その言葉を聞いたら笑うしかなかった。学院の掲示板に貼られたあの貼り紙を、ここにいる皆が見ている。
セシリアの目が羽根ペンに落ち、伸びかけた右手が宙で止まる。その向こうで、灯り玉がひとつ、ゆらりと揺れた。そして、左の手で、ペンを取った。
輪の誰ひとり、それには触れなかった。インク壺に浸したペン先が、規則書の最後の頁へ向かう。ベアトリスの一行の下の、白い空白。その真ん中に、小さなインクの染みが乾いていた。
セシリアはその染みの上から、最初の一文字を書いた。染みは一文字目の線の中に溶けこんで、見えなくなった。
『一 試合の前に、選手は、試合で用いる魔法を、審判に申し出る。何ができるか、どこまでできるかを、審判の前で一度やってみせ、その強さを書き留める。』
『二 申し出ていない魔法を用いた者は、反則とし、退場とする。』
『三 申し出た強さを超えた者には、警告を与える。二度目の警告で、退場とする。』
『四 試合のあいだに、傷や疲れを癒やす魔法を受けた者は、その試合に戻れない。これに類する魔法に限り、使用者は申告を不要とし、緊急時、及び対象となる者が自身への治療を認めたならば、反則及び警告を受けない。』
『五 相手の体、相手の道具、相手のふるまいに働きかける魔法を、用いてはならない。打つ者は、相手の投げた球に働きかけてはならない。自分の投げる球と、自分が捕りにいく球に働きかける魔法は、申し出ればよい。捕りにいく球は、手を伸ばして一歩踏み出せば届くところまでとする。』
『六 球に働きかける魔法のほかに用いてよいのは、自分の体の力を強める魔法だけとする。その強さは、立ち幅跳びで測る。審判の前で、魔法なしで一度、魔法ありで一度跳び、魔法ありで跳んだ距離は、魔法なしの二倍までを上限として強さを定める。このとき用いた魔法の強さを、体のどこに用いるときにも、上限とする。』
『七 浮く、消えて別の場所に現れるなど、体にもともとない動きをしてはならない。タッチアウトを非物理的な手法で回避するなど、直接的に相手の守備の行為を拒絶する魔法は、すべて禁ずる。』
『八 投げる球は、打つ者と受ける者が身を守れる強さまでとする。その物差しは審判が決め、両方の組に同じに当てはめる。』
『九 審判は、種族として生まれ持った魔法的な性質を、例外として認めるよう努める。ただし、選手は自身の性質を事前に申し出て、審判の前でやってみせ、その強さを超えないことに努めること。この違反が何度も続いたり、強さが明らかに事前の申告を大きく上回っていると判断された場合、審判はこれにおいても警告を与えたり、退場処分をする権利を有する。種族の性質であっても、意図して五に触れることは許されない。八は、例外としない。』
左の手で書いた字は少し左に傾いていたが、一字一字がくっきりとしていた。ベアトリスの一行は、消さない。その一行に細い線を一本引いて、セシリアは横に小さく書き添えた。
『ハーケンにて、はじめの規則。王都にて、これを書き改める。』
ペンを置いたセシリアの左の指先が、インクで少し黒くなっている。
* * *
輪の外から、声がした。
「……一つ、抜けておるな」
皆が振り返ると、石のアーチの下に学院長が立っていた。杖を片手にさげて、自分の足で。短く刈った白い髪が、灯り玉の光で銀色に見える。輪の中へ入ってきた学院長は規則書をのぞきこみ、左に傾いた字を黙って最後まで読んでいく。
「審判の前でやってみせ、その強さを書き留める。……跳んだ距離なら、誰の足でも測れよう。だが、試合の中で、その強さを超えたかどうか。それは、誰が見る」
とっさに、答えが出てこない。
「監督殿。おぬしには、魔法の強さが見えるのか」
「……見えません」
正直に言うしかなかった。風の糸も光の粒も、目に見えるものなら見える。でも身体の中で魔法がどれくらい強く流れているのか、申し出た強さと試合の中の強さが同じなのか違うのか、拓海には何もわからない。
「見えるのは、わたくしですわ」
名乗り出たのは、セシリアだった。
「魔法の流れなら、学院の誰よりも、よく見えます。……でも、わたくしは、捕手ですわ」
「自分の組の申し出を、自分で裁くわけにはいかん、ということだ」
ぱたん、と学院長が規則書を閉じる。
「わしは知らん」
いつもの言葉だが、いつもより少しだけ声が柔らかい。
「ただ、見えぬのなら、見える道具を使えばよい。学院の倉に、観察鏡がある。魔法の流れの強さを測れる鏡だ。この学院に魔道具の学科があった、四、五十年ほど前の頃、授業で学生たちが作ったものが、そのまま放ったらかしになっておる。……山ほどあるから、好きなだけ持っていけ。誰がのぞき、誰が裁くかは、おぬしらで考えよ」
輪のあちこちで、学生たちが顔を見合わせた。そんな鏡が倉に眠っていることを、誰も知らなかったらしい。
「それと、この頁。写して、一枚はわしの棚に。もう一枚は、辺境の修道女に、だったな」
ベアトリスのことも、写しを頼まれたことも、拓海は学院長に話した覚えがない。聞き返す間もなく、学院長は懐から白い紙を一枚取り出した。指先で二つ、三つと折っていくと、紙はたちまち鳥の形になった。
「わしの鳥なら、峠を越えて、二日で着く」
* * *
その夜遅く、オスカーが新しい規則を清書した一枚を抱えて、学院長の紙の鳥が屋根裏の窓から飛び立っていった。窓から身を乗り出して見送ると、白い鳥は灯り玉の光のあいだを抜けて、峠の方角へまっすぐに遠ざかっていく。峠の向こう。雪の向こう。ハーケンの、教会の窓へ。その紙の端には、拓海が一行だけ書き足しておいた。
『シスターへ。王都で遊ぶ人たちと、書きました。 イッチ』
スマホの画面をつけると、五十三パーセント。中庭の笑い声のぶんだけ増えていた。
翌朝、中庭の入り口の石のアーチに規則の写しが一枚貼り出された。朝いちばんに、その前に立った学生がいる。
体の大きな、三年の男子学生だった。グスタフは九つの規則を上から順に読んでいって、五つ目の前で長いこと足を止めていた。やがて浮かずに、自分の足で、中庭の中へ入ってきた。
脚注
※¹ロジン:投手が使う滑り止め。松ヤニの粉。
※²ラインアウト:厳密には左右3フィート以上離れてはいけない。また、タッチされそうになっているとき以外では適用されない。




