↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【毎日更新】異世界J民〜やきうのおにいさんは、異世界でも野球観戦したいンゴ〜  作者: みどり葉
《第2章》【悲報】ワイ、魔法学院の監督になってしまう
PR
19/33

第17話 唐揚げ串は王都にない

 翌朝、中庭に降りてきたのはやはり三人だった。フィンとルーカスとオスカーで、昨日の夕方に去っていった十二人は一人も戻ってこなかった。


 四人でキャッチボールをする。ルーカスは相変わらず投げる腕と同じ側の足を出し、オスカーは昨日書きつけた余白の上にまた新しい字を書き足していて、フィンの光の粒は球が手に収まるたびにぱっと弾けた。


 それでも、三人は三人だ。チームに必要な九人には六人、紅白戦に必要な十八人には十五人も足りない。中庭の隅の石の腰掛けに座って塔の窓を見上げてみても、窓はどれも閉まったままだった。


「……ハーケンのときは、どうやって人を集めたんですか」


 球を手の中で転がしながら、ルーカスがぽつりと聞いてくる。


「最初は、酒場の娘と、鍛冶屋のおっさんと、木こりと……ようわからんうちに、集まってた」

「ようわからんうちに」

「あと、揚げじゃがいもや」


 三人そろって、きょとんとした顔。


 頭に浮かぶのは、ハーケンの空き地の見物席だ。試合の日の午後になると、ブルーノが大鍋に油を張って、じゅわっという音と香ばしい匂いが通りの向こうまで流れていく。その匂いにつられて、人が集まってきたのだ。三回の途中で売り切れてしまい、ブルーノが試合を抜けて揚げに帰った日まであったくらいだ。


「試合を観に来た人もおったけど、揚げじゃがいもを食べに来た人も、おったと思う。……ほんで、食べながら観てるうちに、観るほうが目当てになってた」


 オスカーが本の余白に何か書いているのは、たぶん『揚げじゃがいも』だろう。膝を叩いて、拓海は立ち上がる。


「貼り紙にも、揚げじゃがいもって書いたしな。……作るか」



* * *



 昼過ぎ、四人で丘のふもとの市場へ降りた。三百段の石段を三人とも自分の足で降りていくのだが、ルーカスは途中で二度浮きかけて、そのたびに慌てて足を下ろしている。


 王都の市場は、ハーケンの市の何十倍も広い。灰色の石畳の広場に、布の屋根の屋台が見渡すかぎり並び、客と商人が大声で値段を言い合っていた。干した魚、塩漬けの肉、山のように積まれた冬の根菜。どこかの屋台から、焼いた腸詰めの匂いも流れてくる。


 じゃがいもの屋台はすぐに見つかった。一つ手に取ってみると、ハーケンのじゃがいもよりひと回り大きくて、つるりとした薄い皮の下にずっしりとした重さがある。


「……水っぽいんかな」


 王都の芋はまずいらしい、水っぽくて揚げると崩れる、というブルーノの声が耳の奥でよみがえる。屋台の主人に聞いてみると、なぜそんなことを聞くのかという顔をされた。


「揚げる? 芋は煮るもんだよ。揚げたらぐずぐずになっちまう」


 試しに二つだけ買って、昨日学院長が「当座の手当である」と言って屋根裏の床に置いていった小さな革袋から、銅貨を払う。学院の厨房の隅を借りて、揚げてみることにした。料理番は白い前掛けをした無口な老人で、指先をひと振りするだけで竈の火が強くなったり弱くなったりする。その老人が、鍋に油を張る拓海の手もとを、腕を組んだまま眺めていた。


 じゃがいもを櫛形に切って油に入れると、じゅわっ、という音がした。ハーケンと同じ音だ。


 同じだったのは、そこまでだった。櫛(くし)形の角が溶けるように崩れはじめ、箸の代わりの木の匙ですくい上げてみると、外はべたりと油を吸って、中は水を含んだように柔らかい。


 フィンが一つ、口に入れる。


「……おいしい、です」


 光の粒が、ほんの少しだけ弾ける。気を遣ってくれているのは、その少なさでわかった。


 拓海も一つ食べてみたものの、外のかりっとした歯ごたえも中のほくほくした甘さもない。ブルーノの揚げじゃがいもとは、まるで別物だ。


「……ブルーノさんの言うたとおりや」


 鍋の前で、拓海の肩ががくりと落ちる。



* * *



 その夜、屋根裏の物置でスレを立てた。


『1:異世界イッチ:王都の芋、揚げたら崩れた』

『2:風吹けば名無し:かわいそう』

『3:風吹けば名無し:芋の品種がちゃうんやろな メークインと男爵みたいなもんや』

『4:風吹けば名無し:男爵もメークインも、揚げて崩れるようなことはないで』

『5:風吹けば名無し:王都の芋はこっちにはない品種なんかな』

『6:風吹けば名無し:芋がアカンなら唐揚げ串にしたらええやん 球場飯の王様やぞ』

『7:風吹けば名無し:焼きそばも忘れんといて』

『8:風吹けば名無し:>>7 異世界に麺あるんか?』

『9:風吹けば名無し:唐揚げなら鶏と醤油と生姜とにんにくと片栗粉や』

『10:風吹けば名無し:>>9 醤油ある時点で異世界ちゃうねん』


 唐揚げ串。


 その言葉の上で、指が止まる。本拠地の外野席で、何度も買ったあれ。紙コップに串に刺さった唐揚げが三つか四つ入っていて、食べながら観ていると指が油でてかてかになり、メガホンまでべたついたものだ。


『11:異世界イッチ:やったるわ 唐揚げ串』

『12:風吹けば名無し:ええやん』

『13:風吹けば名無し:イッチ、異世界の鶏は大丈夫なんか 火吹いたりせんか』

『14:風吹けば名無し:>>13 コカトリスとかやったら石にされるで』

『15:風吹けば名無し:唐揚げ作ろうとして石化するイッチ』

『16:風吹けば名無し:草』


 石化してたまるか。スマホを伏せる。電池は、四十パーセント。



* * *



 翌日、また市場へ降りた。鶏はあった。羽をむしられ足を縛られた鶏が屋台の軒先に何羽もぶら下がっていて、少なくとも火を吹きそうな様子はない。ハーケンの鶏は卵が目当てで、廃鶏をたまに食べる程度だったが、見た目はそう変わらなかった。生姜もにんにくも、乾かした根や球が籠に盛られて並んでいた。


 なかったのは、醤油と片栗粉だった。


「黒くて、しょっぱい、豆の汁……」


 手振りを交えた説明に、香辛料の屋台の主人が首をひねる。


「豆を、汁にするのかい。どうやって」

「豆を、こう、麹(こうじ)で……いや、麹もわからんよな……」


 いくつ屋台を回っても、同じことだった。ついでに焼きそばの麺のことも聞いてみたが、小麦の粉を練って細長くして、と手振りで言っても、どの主人も首をかしげるばかり。スレで懸念されていたとおり、王都の市場に麺はないらしい。片栗粉にいたっては、説明のしようもない。じゃがいもから取る白い粉、とも言ってみたが、返ってくるのは困った顔ばかりだった。王都の芋から粉を取るところなど、拓海にも想像できない。

 広場の隅の噴水の縁に四人で座りこむと、噴き上がる水の音が、屋台の呼び声をぼんやりと遠ざけていく。


「……醤油がないと、唐揚げにならへんのや」

「しょうゆ、というのは、そんなに大事なものなんですか」

「大事や。唐揚げの、魂みたいなもんや」


 オスカーが本の余白に『しょうゆ=唐揚げの魂』と書きこんだ、そのときだった。


「黒くて、しょっぱい汁なら、心当たりがなくもない」


 頭の上から、声が降ってきた。顔を上げると、毛皮の襟のついた濃い緑の外套の男が立っている。

 四十をいくつか過ぎたくらいだろうか。よく手入れされた口ひげに、印章のついた太い金の指輪が一つだけ。目尻に笑い皺があるのに、その奥の目は少しも笑っていない。値踏みする目だ。ハーケンの町長が、町長室で見物人の数から金の話を始めたときと同じ目。


「マルセル・ドーランという。この広場の、南の三列は、私の店だ」


 ルーカスが、小さく息をのむ。


「……ドーラン商会の」

「さっきから、妙な注文をして回っている若者がいると、屋台の者から聞いてね。豆の汁に、芋の粉。王都では誰も聞いたことのない品だ。……君が、学院長の呼んだ、辺境の監督か」


 ルーカスとオスカーの目が、そろって拓海に向く。


「……なんで知ってるんですか」

「商人は、王都で起きていることは、たいてい知っている。知らなければ、商売にならん」


 マルセルが外套の内側から小さな陶器の瓶を取り出して栓を抜いたとたん、つんと海の匂いが鼻を突いた。魚と塩と、何か発酵したものの匂い。


「南の港町で作っている、魚の汁だ。小魚を塩に漬けて、一年寝かせる。黒くて、しょっぱい。王都では、匂いがきついと言って、ほとんど売れん」


 瓶を受け取って指先に一滴落とし、なめてみる。しょっぱい。その奥から、深い旨みが舌の上に広がった。醤油ではないけれど、まるで違うものでもない。


「……ナンプラーや」

「なんぷらあ?」


 マルセルの片眉が上がる。


「いや、こっちの話です。……これ、いけます。たぶん、いけます」

「売ってもいい。ただし、私は、値段のつかない取引はしない」


 マルセルの目が、すっと細くなった。


「君は、何を払う」


 ポケットの中の革袋が、やけに軽い。学院長の手当は昨日の芋と今日の鶏で、もうほとんど残っていないのだ。少し考えて、拓海は財布から千円札を一枚抜き取った。


 受け取った千円札を、マルセルは噴水の縁の光にかざした。紙の手ざわりを指先で確かめ、裏返し、また表に返して、透かしの中に浮かぶ人の顔をじっと見つめる。そのあいだ、ひと言もない。


「……これは、何だ」

「ワイの国の、お金です。それ一枚で、屋台の唐揚げ串なら、二本か三本」

「この紙一枚で、串が二本」


 マルセルの喉の奥で、低い笑い声が鳴る。


「この紙を一枚作るのに、王都の版木職人なら、何人がかりで、何日かかると思う。それを、串二本と取り換える国か。……いったい、どんな国だ」

「野球が、毎日、どこかでやってる国です」


 千円札が、外套の内側へ丁寧にしまわれていく。


「魚の汁は、一瓶やろう。それから、揚げ油を一樽。……ただし、この紙の釣り銭は、まだ払っていない。釣り銭は、出来上がったものの、最初の一本だ」



* * *



 その日の夕方、学院の厨房の隅で、四人は鶏をさばいた。いや、さばいたのはほとんど料理番の老人だ。拓海が包丁を持つ手つきを見るなり黙って取り上げると、骨から肉を外してひと口大に切りそろえていく。魔法ではない、ただの長年の腕だった。


 魚の汁にすりおろした生姜とにんにくを混ぜて、鶏を漬ける。厨房に海の匂いが立ちこめて、ルーカスが鼻をつまんだ。


 問題は、粉だった。厨房の粉箱には、小麦の粉がたっぷりある。料理番の老人が黙って指さしたのは竈の脇のパン窯で、学院で毎朝焼くパンのための粉らしい。指でつまむと少しざらりとしていて、握っても固まらずにさらさらと指のあいだからこぼれていく。


 とりあえずそれをまぶして、揚げてみる。じゅわっ、と音がして、こんがりと濃い色に揚がった鶏を、木の匙ですくい上げた。


 かじると、ガリッと硬い音がした。衣が厚くて噛みごたえがあり、中の肉はちゃんと汁気を含んでいて、魚の汁と生姜の味もしっかりしみている。


 うまかった。


 うまかった、けれど。


「……なんか、ちゃう」


 ルーカスはもう、次の一つに手を伸ばしている。


「おいしいですよ?」

「うまい。うまいねんけど……」


 もう一口かじる。ガリッ。この衣には覚えがある。クリスマスに家族で買った、バケツの、あれだ。


「……これ、フライドチキンや」


 唐揚げを作っていたはずなのに。唐揚げとフライドチキンのあいだの、どっちつかずの何か。うまいのに、違う。いつもの外野席で指を油でてかてかにしながら食べた、あの軽いカリッとした唐揚げとは別のものだ。油のついた指のままスマホを出すと、ゆうべのスレはまだ落ちずに残っていた。


『35:異世界イッチ:唐揚げ揚げたら、フライドチキンになった』

『36:風吹けば名無し:草 どっちも衣つけて揚げた鶏肉やけども』

『37:風吹けば名無し:うまそうやんけ 何があかんのや』

『38:異世界イッチ:>>37 うまい うまいけどコレジャナイ』

『39:風吹けば名無し:その粉、パン用の強力粉ちゃうか 有名店の衣は強力粉って聞いたことあるで』

『40:風吹けば名無し:唐揚げは薄力粉か片栗粉や 強力粉でも揚がるけど噛みごたえ寄りになる 竜田揚げは片栗粉な』

『41:風吹けば名無し:球場の唐揚げは片栗粉混ぜてカリッカリにしとるのが多い気がするわ』

『42:風吹けば名無し:>>41 店によって米粉とかコーンスターチとか配合するんよ ザクザク感も出るで※¹』


 片栗粉。


 スマホを握ったまま、厨房の床に座りこむ。市場じゅうを探して、どこにもなかった粉だ。


 そのとき、目の端に麻の袋が映った。屋根裏から、なんとなく持ってきていた袋だ。出発までの五日のうちに、厨房の隅にいつのまにか増えていた袋。乾かしたじゃがいもの薄切りは旅のあいだに少しずつ減って、まだ半分ほど残っていた。

 袋を開けて、一枚取り出す。薄く、白く、からからに乾いている。指で押すとぱきりと割れて、割れた断面から、白い粉がさらさらとこぼれ落ちた。


「……あ」


 ハーケンの芋だ。揚げても崩れない、ブルーノが毎日揚げていた芋。


「オスカー、すり鉢、どこにあるか聞いてきて」


 聞きに行くより早く、料理番の老人が石のすり鉢を出してきた。四人で代わる代わる、乾いた芋を挽く。ルーカスの腕がすぐに疲れてフィンに代わると、光の粒がふわふわと舞って、すり鉢の中の粉がほんのり光った。オスカーは挽いた粉を、目の細かい布でふるっていく。


 白くて細かい粉ができあがった。片栗粉とは違うけれど、片栗粉に近いもの。それをパンの粉と半分ずつ混ぜて、漬けた鶏にまぶし、油に入れる。


 じゅわっ。ハーケンと、同じ音がした。


 やがて厨房じゅうに、匂いが広がっていく。魚の汁の海の匂いが熱で丸くなって、香ばしくて甘いような匂いに変わっていた。生姜と、にんにくと、揚げた芋の粉の匂い。


 木の匙ですくい上げた鶏は、きつね色よりも濃い色になっていた。焦げているわけではなく、まぶした粉の違いが色にも表れたらしい。表面に細かいでこぼこがあって、指で押すとかりっと音がした。それをルーカスが削ってくれた細い木の串に、三つずつ刺していく。


「……食うてみ」


 真っ先にかじりついたのは、フィンだ。かりっ、という音。次の瞬間、フィンの周りの光の粒が厨房の天井まで花火のように弾けた。


「――おいしい!」


 昨日の「おいしい」とは、まるで違う声だった。ルーカスが二つ目に手を伸ばす。オスカーは本の余白に何か書こうとして羽根ペンを置き、先に食べるほうを選んだ。料理番の老人まで一本取って、ゆっくりと噛んでいる。噛み終えると、空になった串を眺めて小さく顎を引いた。


 拓海もかじってみる。醤油の唐揚げではないし、少し海の匂いもして、外野席で食べた唐揚げとは違う味だ。


 でも、ガリッ、ではなく、かりっ、だった。唐揚げだった。


 もう一度スマホを出す。


『43:異世界イッチ:できた』

『44:風吹けば名無し:コレジャナイから立ち直ったんか』

『45:風吹けば名無し:醤油なしでどうやったんや』

『46:異世界イッチ:魚醤と、出発のとき酒場の親父さんが持たせてくれた干し芋を挽いた粉を、パンの粉に混ぜて揚げ直した』

『47:風吹けば名無し:ナンプラー唐揚げやんけ タイ風や』

『48:風吹けば名無し:あれ好き ガイトードやな』

『49:風吹けば名無し:>>46 親父さんの干し芋か』

『50:風吹けば名無し:親父さん……』

『51:風吹けば名無し:親父さん、王都の芋がアカンのわかってて持たせたんちゃうか』

『52:風吹けば名無し:>>51 泣いた』


 五十一番の書き込みの上で、指が止まった。わかっていて持たせたのかどうかは、わからない。袋を積んだときにブルーノが言ったのは、王都の芋はまずい、の一言だけだった。いつも、肝心なことは言わない人だ。ただ、袋の中の芋は拓海が王都で何かを揚げるのに、ちょうど足りるくらいの量だった。



* * *



 鍋の前に戻ると、厨房の入り口に人が集まっていた。五人、六人。夕食前の廊下を通りかかった学生たちが、匂いにつられて足を止めたらしい。皆、拳ひとつぶん浮いたまま首だけ伸ばして鍋の中をのぞきこんでいる。


「……その匂い、何?」


 声をかけてきたのは、短い髪の女子学生だった。おとといの試合で、目に見える場所まで一歩で跳んでいた子だ。その後ろには、打球を指一本で引き寄せていた三塁の男子もいる。


「唐揚げ串や」

「からあげぐし」

「辺境の、いや、ワイの国の、野球を観るときに食べるもんや」


 学生たちが顔を見合わせるあいだに、拓海は皿の上の串と彼らの浮いた足もとを見比べた。


「……一本、食べたかったら」


 厨房の窓の外を指さす。灯り玉に照らされた、四角い中庭。


「中庭を、一周。自分の足で、走ってきて」

「は?」

「浮いたら、あかん。跳んでも、あかん。自分の足で走って、一周したら、一本」


 学生たちがまた顔を見合わせる。何を言っているのかわからない、という顔だ。


 最初に動いたのは、短い髪の女子学生だった。


「……ふうん」


 足が地面に下りる。とん、と靴底で石の床を鳴らしたかと思うと、女子学生は厨房の戸口から中庭へ走りだしていた。


 走り方はぎこちない。ふだん走ることなどないのだろう、腕の振りと足の運びが少しずれている。それでも灯り玉の光の下を、四角い中庭の外周に沿って一周走りきった。戻ってきたときには、肩で息をして頬を赤くしていた。


「……一周、したけど」


 差し出した串を、女子学生がかりっとかじる。


 そして黙ったまま、もう一度中庭へ走りだした。


 三塁の男子が慌てて足を下ろして、あとを追う。残りの学生たちも一人、また一人と、地面に足を下ろしていった。


「……二周したら二本や! 早いもの勝ちやで!」


 叫ぶと、中庭のほうから笑い声が返ってきた。中庭を見下ろす塔に、明かりのつく窓が増えていく。身を乗り出して走る学生たちを眺める顔、指さして何か言い合う顔。そのうちの一つの窓辺で、背の高い女子学生が指先でつむじ風を回していた。銀の指輪が、灯り玉の光を受けてちかりと光る。


 ヘンリエッテの指先で、つむじ風がふっとほどけた。窓が閉まる。閉めた窓の向こうで明かりが消え、少したってから、塔のいちばん下の扉が開いた。



* * *



 すっかり日が暮れたころ、中庭の入り口に緑の外套の男が現れた。


「釣り銭を、受け取りに来た」


 石段を上ってきたのだろう、マルセルは少し息を切らしていて、供の者を一人も連れていない。皿に残しておいた最初の一本は、揚げてから時間がたって少し冷めている。差し出したそれを受け取ると、マルセルは串を眺め、匂いを嗅いでから、かじった。


 かりっ、という音がした。何も言わずにゆっくりと噛みながら、マルセルの目は中庭に向いている。灯り玉の光の下を、何人もの学生が息を切らして走っている。誰も浮いていない。走り終えた学生たちは厨房の戸口に並んで串を受け取り、石の腰掛けに座りこんでかじりながらまだ走っている仲間を指さして笑っていた。


「……銅貨、二枚」


 串の歯形を眺めながらの、ひと言だった。


「え」

「この串の値段だ。王都の屋台なら、銅貨二枚で売れる。……だが」


 串を持ったまま、マルセルが中庭を見回す。


「人が集まって、何かを観ながら食べるなら、三枚でも売れる。観るものが面白ければ、もっとだ」


 ハーケンの見物席が、頭に浮かぶ。それから町長のことも。木札を売って試合に賭けを持ちこみ、辺境伯の禁止令を招いた町長。女神に、二度と木札は売らないと誓った町長。


「……マルセルさん。もし、王都で、野球をやる場所ができて、そこで何か売るとしたら」

「当然、私の店が売る」

「試合には、口、出さんといてください」


 値踏みする目が、まっすぐ拓海に向いた。


「賭けとか、勝ち負けに金を絡めるのは、なしです。屋台と、席だけ。……前に、それで、えらい目にあった町があるんです」


 答えるかわりに、マルセルは串の最後のひとつを口に放りこむ。


「商人はな、監督。勝ち負けには、興味がない」


 噛みながら、続ける。


「興味があるのは、人が集まるかどうかだけだ。……春の御前試合で、王都の組が、何人の客を呼べるか。私が見たいのは、それだけだ」


 空になった串が、拓海の手に返ってくる。


「魚の汁と油は、明日、一樽ずつ届けさせる。釣り銭の、続きだ。……あの紙一枚は、まだまだ、使い切っていない」


 それだけ言うと、マルセルは中庭に背を向けた。外套の裾が、灯り玉の光の中で揺れる。石段の上で、一度だけ振り返った。


「ああ、それから。君が昼に市場で聞いて回っていた、細長い麺とかいうもの。……練り粉を細長くしたものなら、聖都の名物だ。焼いて食べるという話は、聞いたことがないがね」



* * *



 夜が更けて、学生たちはそれぞれの塔へ帰っていった。帰り際、短い髪の女子学生がぶっきらぼうに振り返る。


「……明日も、揚げる?」

「練習に来たら、揚げる」

「ふうん」


 それきり、女子学生は浮かずに自分の足で塔の扉へ歩いていった。


 厨房を片づけ終えてみると、皿の上に串が一本だけ残っていた。それを布に包んで外套のポケットに入れ、屋根裏に戻る前に、もう一度だけ中庭を見ておくことにした。


 中庭は、しんと静かだ。地熱で温かい土を、灯り玉の光がぼんやりと照らし、さっきまで学生たちが走っていた外周には、たくさんの足跡が残っている。


 その足跡の上を、誰かが走っていた。


 塔の柱の陰で、拓海は足を止める。


 小柄な影だ。濃紺のローブの裾を片手でつまみ上げ、太い銀髪の三つ編みが、走るたびに肩から落ちて背中で跳ねている。走り方はさっきの学生たちの誰よりもぎこちなく、腕と足がちぐはぐに動いて、何度もつまずきかけた。


 それでも、足は、地面についていた。


 セシリアだった。


 一周走って立ち止まり、両膝に手をついて肩で息をしてから、また走りだす。拓海は声をかけなかった。かけてはいけない気がしたのだ。ハーケンの鍛冶屋の奥で、リタが一人で投げていた朝のことを思い出す。雪に本塁とマウンドを描いている背中を見て、声をかけられなかったリタのことも。


 ポケットから布の包みを取り出して、中庭の隅の石の腰掛けの上にそっと置く。足音を立てないように塔の陰を回って、屋根裏への階段を上った。


 屋根裏の窓からは、中庭が見下ろせる。走るのをやめたセシリアが、石の腰掛けのほうへ歩いていくところだった。腰掛けの前で立ち止まったのは、包みに気づいたからだろう。その場で動きを止めたまま、首だけが辺りを見回す。誰もいないのを確かめるように。


 やがて、包みを、手に取った。


 ――左の手だった。


 セシリアがはっとしたように、その手を見る。すぐに包みを右の手に持ちかえて布を開き、中の串をじっと見つめる。


 そして、小さく、かじった。


 屋根裏の窓からでは、音は聞こえない。ただ、セシリアが石の腰掛けにすとんと座りこむのが見えた。灯り玉の光の下で串を両手で持って、背中を丸めて、少しずつ、少しずつ食べている。


 拓海は窓から離れた。藁の布団に寝転がって、スマホを開く。夕方に書きこんだあとも、スレではナンプラーとガイトードの話がしばらく続いていた。その下に書き足す。


『63:異世界イッチ:今日、中庭を自分の足で走ったやつが、十一人おった』

『64:風吹けば名無し:急にどうした?』

『65:風吹けば名無し:唐揚げで釣ったんか?』

『66:異世界イッチ:唐揚げ一本で中庭一周 二周で二本や』

『67:風吹けば名無し:草 ご褒美制度やんけ』

『68:風吹けば名無し:ワイも唐揚げ串一本で走れるわ』

『69:風吹けば名無し:>>68 お前は走れ』

『70:異世界イッチ:十一人と、それから、あとで、もう一人』

『71:風吹けば名無し:>>70 もう一人?』

『72:異世界イッチ:内緒や』

『73:風吹けば名無し:お嬢やな』

『74:風吹けば名無し:お嬢やろ』

『75:風吹けば名無し:お嬢しかおらんやろ』

『76:風吹けば名無し:誰かが、ひとりで走っている場所に、お料理をそっと置いていく。……とても、素敵なことだと思います』

『77:風吹けば名無し:>>76 ネキ、見とったんか』

『78:風吹けば名無し:ネキ、なんでも見とるな』


 画面の右上に、目をやる。


 四十三パーセント。


 昨日より、三つ増えていた。王都に来てから、初めてだ。中庭で学生たちが串をかじりながら笑っていた声が、まだ耳の奥に残っている。「二周したら二本や」と叫んだときに返ってきた、あの笑い声も。


 歓声というには、小さな声だった。でも、それで三つ増えた。


 窓の外で、灯り玉がゆらゆらと揺れている。その下の中庭には、もう誰もいなかった。石の腰掛けの上に、布だけがきちんとたたんで置いてある。


脚注

※¹唐揚げの衣:ビニール袋でタレに漬け込んだあと、そこに片栗粉大さじ2くらいを入れよく揉み、さらに米粉パウダーとコンスターチを1:1くらいで混ぜたものをまとわせて作るのが作者の好みです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。