第16話 魔法禁止なんて聞いてませんわ
翌朝、中庭に降りてきたのは三人だった。フィンと、ルーカスと、オスカー。
朝日を浴びたフィンは、昨日よりたくさんの光の粒をまとっている。ルーカスは照れくさそうに頭をかき、オスカーは相変わらず本を胸に抱えていたが、その表紙には、拓海が乗合馬車の中で見せた野球の守備位置の絵が炭で写し描きしてある。
「……馬車の中で、監督さんが描いてたやつです」
本で顔を隠したまま、オスカーがぼそぼそと言った。
「九人の、立つ場所。きれいな形だと思って。……それで、本物を、見てみたくなって」
三人の顔を順番に見ていくうちに、拓海の口もとが勝手にゆるんでいく。昨日の夕方、ボールを追いかけたのはフィン一人だった。それが今朝は、三人になっている。
「ほな、三人で、キャッチボールからや」
三人とも、ボールを投げるのは初めてだった。ルーカスの球は地面に叩きつけられ、オスカーの球は真上に上がって自分の頭に落ちてくる。フィンの球にいたっては、光の粒にまとわりつかれて、ふらふらと横へ流れていった。
それでも三人は拾いに走った。浮かずに、走った。
拓海は一人ずつ、握り方を教えていった。人差し指と中指を縫い目にかける。手首ではなく、肩から腕を振る。投げる手と反対の足を、相手のほうへ踏み出す。ルーカスは何度言っても同じ側の足を出し、オスカーは教わったことをいちいち本の余白に書きつけてから投げる。フィンだけは、教わる前からなぜかいちばんきれいな形で投げていた。
昼になるころには、三人とも手のひらを真っ赤にして、地熱で温かい土の上に寝転がる。浮いて塔へ帰ろうとする者は、一人もいない。
中庭を囲む塔の窓から、何人かの学生がそれを見下ろしていた。
* * *
三日目に学生が増えたのは、拓海の思ってもみなかった理由からだった。
「首席が、監督さんの球を、指一本で止めたって」
息を弾ませて、ルーカスが言った。
「その話が、学院じゅうに広まってるんです。辺境の遊戯は、魔法の腕比べらしいって。首席が、あんな見事な止め方をしてみせたんだから、きっとそうだって」
「……ちゃうけど」
「でも、その話を聞いて、何人か、来てみたいって」
その日の夕方、中庭に十二人の学生が降りてきた。浮いたまま降りてきて、浮いたまま土の上に立つ。どの足も地面から拳ひとつぶん離れていて、誰ひとり土を踏んでいない。その手には皆、杖を握っていた。
先頭にいたのは、肩幅が広く胸板の厚い、体の大きな男子学生だった。ハーケンのボルグを思わせる体格なのに、その大きな体がふわりと宙に浮いている。見ているだけで、重さの感覚がおかしくなりそうだ。
「グスタフだ。三年。……腕比べと聞いたが」
「魔法のやないけどな。野球や」
「やきゅう。それは、どうやって勝ち負けを決める」
ハーケンで初めて説明した晩のことを思い出しながら、拓海はゆっくりと言葉を並べた。投げる。打つ。走る。点を取る。三つアウトを取ったら、攻守交代。
腕を組んで聞いていたグスタフが、隣にいた背の高い女子学生と目を見交わす。
「ヘンリエッテよ。二年」
長い栗色の髪をかき上げた指先には、細い銀の指輪がいくつもはまっている。
「つまり、球を投げて、相手に打たせなければいいのね。……それなら、得意よ」
ヘンリエッテの指先で、小さなつむじ風がくるりと回った。嫌な予感しかしない。
* * *
十五人を二つに分けて、試しに試合をすることにした。ハーケンで最初に紅白戦をしたときより人数は少なく、外野は二人ずつしか置けない。それでも八人と七人で、どうにか形にする。
中庭の土を少し盛ってマウンドの代わりにし、本塁の場所には棒切れで印をつけた。審判は拓海で、本塁のうしろに立ってゴルドのグローブを左手にはめる。捕手のいない七人のほうが守るときは、投げられた球をその拓海が受けることにした。
マウンドに立ったヘンリエッテは、拓海が教えたとおりに球を握って腕を振った。投げ方はめちゃくちゃで、肘が曲がり手首がねじれ、球は打者の頭のはるか上へ飛んでいく。
――と思った瞬間、球が曲がった。
ヘンリエッテの指先から、細い風の糸が伸びている。その糸に引っぱられるように、球は空中で鋭く向きを変えて、本塁の真上へ、打者のみぞおちのあたりの高さでまっすぐ落ちてきた。打席のルーカスが悲鳴を上げてしゃがみこみ、球はその頭の上を通り過ぎて、拓海のグローブに収まる。
「……ストライク、やけど」
拓海はグローブの中の球を見下ろした。
「今の、なに」
「風よ」
指先でもう一度、つむじ風を回してみせるヘンリエッテ。
「投げた球を、風で運んだの。……だめだった?」
「だめっていうか……」
拓海が言葉を探しているあいだに、次の打者が打席に入った。グスタフだ。
ヘンリエッテの二球目も風に乗って曲がり、グスタフはそれをじっと見ていた。球が本塁の手前に来た瞬間、短く何かを唱える。
球が、止まった。
空中で、ぴたりと。セシリアがやったのと同じ術だが、セシリアよりずっと荒っぽい。止まった球は、宙に縫いとめられたままぶるぶると震えている。
その球めがけて、グスタフがバットを思いきり振る。乾いた音がして、球は中庭の空へ高々と舞い上がった。
「よし!」
「よし、ちゃう!」
叫んだところで、誰も聞いていない。高々と上がった球を追って、外野の学生がふわりと宙に浮き、塔の三階の窓くらいの高さまでまっすぐ昇って、球を両手で受け止めた。
「捕った!」
中庭が沸き、浮いていた学生たちが手を叩く。その歓声の中を、グスタフは一塁へ走っていた。いや、走っていない。浮いたまま、すうっと滑っている。一塁を通り過ぎて二塁へ向かうその背中は、外野で捕られたことにまるで気づいていない。
「アウトや! グスタフ、アウト! 捕られたやろ!」
「何?」
「空中で捕ったら、アウトなんや!」
「空中で……? あいつは、空中で捕ったのか、それとも、空中にいる者が捕ったのか」
空中で捕ったのか、空中にいる者が捕ったのか。そんな問いを、拓海はハーケンで一度も受けたことがなかった。
* * *
そこから先は、もう試合ではなかった。打者は投げられた球を片っ端から空中に止めて打ち、投手は止められまいと風や光で球をねじ曲げる。止める術と曲げる術がぶつかって、球が空中で破裂しそうなほど震えた。守備の学生は打球を追って浮き上がり、ときには打球のほうを自分に引き寄せる。三塁手の男子学生が指を一本動かしただけで、三遊間を抜けていこうとした打球がくるりと向きを変えて、その手のひらに飛びこんできた。
走者は塁と塁のあいだを浮いて滑っていき、ある女子学生にいたっては、一塁から二塁へ走らずに、ふっと消えて二塁の上に現れた。
「今の、なんや!」
「短い跳躍よ。目に見える場所までなら、一歩で行けるの」
オスカーが打席に立つと、マウンドの投手が投げた球が、その目の前でまばゆい光を放った。オスカーは目を押さえて、その場にうずくまる。
「目くらましです」
得意げに胸を張る投手。
「相手に見えなければ、打てないでしょう」
駆け寄ると、オスカーは目を押さえたまま本で顔を隠すこともできずに肩を震わせていた。拓海は立ち上がり、朝のうちに立てておいたスレに、震える指で書きこむ。
『14:異世界イッチ:魔法学院で初の紅白戦やったら、こうなった』
『15:風吹けば名無し:どうなったんや』
『16:異世界イッチ:投げた球を風で曲げる 打者が球を空中で止めて打つ 野手が浮いて捕る 走者が瞬間移動する 投手が目くらまし』
『17:風吹けば名無し:草』
『18:風吹けば名無し:もう野球ちゃうやろそれ』
『19:風吹けば名無し:超次元ベースボールで草』
『20:風吹けば名無し:イッチ、どうするんや ハーケンでは魔法どうしとったんや 規則あるんやろ』
二十番の書き込みの上で、指が止まる。懐からベアトリスの規則書を取り出して、『野球規則 写し』の最後の頁を開いた。
――試合のあいだ、選手は、いかなる魔法も用いてはならない。これを破った者は、その場で退場とする。
その下の、何行ぶんもの空白。王都の規則は王都で遊ぶ人たちと、書いてください。ベアトリスはそう言っていた。
だが今、目の前にあるのは規則ではない。ただの、魔法の見せ合いだ。塁を自分の足で回っている者も、自分の手で球を捕っている者も、一人もいない。足もとでは、オスカーが目を押さえてうずくまったままだった。
拓海は規則書を閉じた。
「――全員、聞いてくれ」
中庭のざわめきが少しだけ引いて、浮いていた学生たちの顔がこちらを向く。
「今日から、試合中の魔法は、全部禁止や」
* * *
中庭が、しんとなった。ざわめきが戻ってきたのは、少し間をおいてからだ。最初は小さく、だんだん大きく。
「全部?」
「浮くのも?」
「止めるのも?」
「風も?」
「全部や」
拓海は規則書を高く掲げる。
「ワイが前におった町で、この遊戯をやるときに決めた規則や。試合のあいだは、魔法を使わへん。使ったら、退場。……投げるのも、打つのも、捕るのも、走るのも、全部、自分の体でやる。それが、野球や」
「それでは、なぜ、わたしたちがやるの」
ヘンリエッテの指先で、つむじ風が苛立ったように速く回っている。
「わたしたちは、魔法学院の学生よ。魔法を使わないわたしたちは、ただの、体の弱い子どもの集まりよ。……騎士団と試合をしたら、一回で負けるわ」
「負けへんように、練習するんや」
「何年かかるの」
答えが、出てこなかった。
浮いたまま腕を組んだのは、グスタフだ。
「つまり、こういうことか。俺たちが何年もかけて覚えた術を、全部捨てて、あんたの国の遊戯を、あんたの国のやり方で、一からやれと」
「……そういうことになる」
「それは、規則ではなく、命令だ」
言い捨てて、グスタフがふわりと背を向ける。何人かが、そのあとに続いた。
そのときだった。
「――お待ちなさい」
澄んだ声が、また中庭に響く。中庭の入り口、石のアーチの下にセシリアが立っていた。いつからそこにいたのか、誰も気づいていない。濃紺のローブに、銀の三つ編み。両手はローブの袖の中で組まれている。
セシリアは浮かずに、歩いて中庭に入ってきた。足音は今日も、ほとんどしない。
「塔の窓から、拝見しておりましたわ。……ずいぶんと、にぎやかでしたこと」
拓海の前で足を止めたセシリアの紫の瞳が、拓海の手の中の規則書に落ちる。
「魔法禁止。……そのようなお話は、聞いておりませんでしたわ」
「今、決めた」
「今、お決めになった」
一語ずつ確かめるように、セシリアが繰り返す。
「異国の監督さん。わたくしは、あなたがおっしゃることが、半分はわかりますの。今日のこれは、遊戯ではありませんでした。ただの、術の見せびらかしでしたわ。……でも、もう半分は、まったくわかりません」
セシリアが一歩、近づいてくる。小柄な彼女は拓海を見上げる形になるのに、その視線は少しも下から来ていなかった。
「あなたのいらした町の騎士たちは、剣を振る腕で、棒を振ったのでしょう? 剣の稽古で鍛えた足で、塁を走ったのでしょう? ……それは、禁じなかったのですわね」
「……それは、自分の体やから」
「わたくしたちの魔法も、わたくしたちの体ですわ」
静かな声だった。袖の中で組まれた手は、ぴくりとも動かない。
「何年も、何年も、机に向かって、書物を読んで、杖を振って、失敗して、また振って。それで、ようやく身につけたものですの。騎士の剣の腕と、何が違いますの?」
拓海の喉の奥で、言葉がつかえた。
「騎士から剣の腕を取り上げて、剣の試合をしろとおっしゃる方は、いらっしゃらないでしょう。……あなたがなさっているのは、それと同じことですわ」
中庭が、静まり返った。帰りかけていたグスタフも足を止めて振り返り、ヘンリエッテの指先のつむじ風もいつのまにか止まっている。
「……でも、今日みたいなのは、違うやろ。オスカーは、目をやられた。誰も、自分の足で走ってへんかった」
「ええ。違いますわ」
あっさりと、セシリアが認めた。
「ですから、半分は、わかると申し上げましたの。……目くらましは、卑怯ですわ。わたくしも、そう思います。でも、それと、魔法をすべて取り上げることは、別のお話ではなくて?」
言い返そうとして、口を開いたまま止まる。頭の中で、言葉を探した。
ハーケンでは、こんなことは聞かれなかった。ハーケンのチームに魔法を使える者はいなかったし、ヴァルターが一度だけ身体強化の魔法のことを問いに来たときも、ベアトリスが規則書のいちばん最初の一文を根拠に魔法禁止の一行を書き足して終わりだった。誰も、反対しなかった。
――この遊戯は、二つの組が、互いに同じ条件のもとで、技と力を競うものである。
「……同じ条件で、戦うためや」
ようやく、それだけが出てきた。
「魔法が使えるやつと、使えへんやつが戦ったら、同じ条件やない。せやから、ハーケンでは、全部禁止にした」
「では、ここでは、全員が魔法を使えますわ」
間を置かずに、セシリアが返す。
「この学院の学生は、全員、魔法が使えます。王都の騎士の方々も、身体強化くらいは使えますでしょう。……全員が使えるなら、それが、ここでの、同じ条件ではありませんの?」
今度こそ、言葉が出てこなかった。その沈黙を見届けるように間を置いてから、セシリアはふっと目を伏せる。
「……異国の監督さんが、ご自分の国の遊戯を大切になさるお気持ちは、わかりますわ。ですから、わたくしは、反対はいたしません。ただ」
セシリアが、くるりと背を向ける。
「魔法を取り上げられたわたくしには、ここにいる理由がありませんの。……ごきげんよう」
歩いて中庭を出ていくセシリアの足音は、やはりほとんどしない。石のアーチをくぐる、ほんの一瞬。セシリアの左手がローブの袖から少しだけのぞいて、袖口をぎゅっと握りしめたのが見えた。
学生たちが一人、また一人と浮いて塔へ戻っていき、グスタフもヘンリエッテも何も言わずにそのあとを追った。
中庭に残ったのは四人。拓海と、フィンと、ルーカスと、目を赤くしたオスカーだけだった。
中庭の隅の井戸から水を汲んで、オスカーの目を洗ってやった。何度もまばたきを繰り返して、ようやく拓海の顔がぼんやり見えるようになった、とオスカーがほっと息をつく。
「……すみません。打てなくて」
「謝るとこちゃう。あれは、打たれへんで」
濡れた顔を袖でぬぐったオスカーが、少し考えてから小さな声で続ける。
「あの目くらましは、ずるいと思いました。でも」
「でも?」
「最初の、ヘンリエッテさんの、風で曲げた球。あれは……きれいでした。打てなかったけど、きれいだった。あんなふうに曲がる球、本にも書いてなかった」
オスカーの顔を見ると、また本で半分隠れていた。
「ぼく、浮かずに走るの、ちょっと楽しかったです」
地べたに座りこんだままのルーカス。
「息が切れて、足が重くて、全然楽しくないはずなのに。一塁に着いたとき、なんか、自分で着いたって感じがして」
「ぼくも」
膝を抱えたフィンの周りで、光の粒がふわりと揺れた。
「自分の手で捕ったの、うれしかった。……でも、ぼく、魔法が勝手に出ちゃうから、禁止だと、ぼく、退場になっちゃう」
拓海は、はっとした。フィンの周りの光の粒は、今もふわふわと漂っている。止めようとして止められるものではないことは、最初の日に見ていたはずだった。全部禁止、と言ったとき、拓海はフィンのことを少しも考えていなかった。
「……フィンは、退場にはせえへん」
「どうして?」
「どうしてって……」
また、答えが出てこない。今日だけで、もう何度目だろう。
「……それを、考えなあかんのやな」
地熱で温かい土の上に、四人で並んで座っていた。塔の向こうに日が沈み、灯り玉がひとつ、またひとつと灯りはじめる。誰も、浮いて帰ろうとはしなかった。
* * *
その夜、屋根裏の物置で、拓海はいつまでもスマホの画面を眺めていた。
『41:異世界イッチ:魔法全面禁止にしたら、首席に論破された』
『42:風吹けば名無し:草 監督さん???』
『43:風吹けば名無し:何言われたんや』
『44:異世界イッチ:「わたくしたちの魔法も、わたくしたちの体ですわ」「騎士から剣の腕を取り上げて剣の試合をしろと言う人はいない」「全員が魔法を使えるなら、それがここでの同じ条件ではありませんの」』
『45:風吹けば名無し:うーん、正論』
『46:風吹けば名無し:お嬢、強すぎる』
『47:風吹けば名無し:いや、でもイッチの言うこともわかるで 野球は野球やろ』
『48:風吹けば名無し:>>47 でもそれ言うたら、ワイらの国の野球かて、バットの材質とかボールの反発とか、時代ごとに規則変わってきたやん』
『49:風吹けば名無し:>>48 スピットボール※¹とかもな 何がアリで何がナシかは、その時代の人間が決めてきたんや』
『50:風吹けば名無し:魔法アリの野球って、それはそれで観てみたいけどな』
『51:風吹けば名無し:>>50 わかる 魔球とか投げてほしい』
『52:風吹けば名無し:でも目くらましはアカンやろ』
『53:風吹けば名無し:どこで線引くかやな』
五十三番の書き込みを、何度も読み返す。
どこで、線を引くか。
ハーケンでは、線を引く必要がなかった。ハーケンのチームに魔法を使える者はいなかったし、騎士団のほうはヴァルターが自分から魔法を捨てたから、全部禁止の一言で済んだのだ。
王都では、それでは済まない。魔法はここにいる全員の腕であり、足だった。セシリアの言うとおりだ。でも、今日の中庭で起きたことも、野球ではなかった。
規則書を開いて最後の頁の白い空白を見つめ、羽根ペンを手に取って、インク壺にペン先を浸す。
何も、書けなかった。
ペン先から落ちたインクが一滴、空白の上に小さな黒い染みを作って、ゆっくり紙に広がっていく。拓海はペンを置いた。
『54:異世界イッチ:ワイ、わからんようになった』
『55:風吹けば名無し:ええんやで』
『56:風吹けば名無し:わからんのが普通や ワイらの国も何十年もかけて決めてきたんや』
『57:風吹けば名無し:それでも残ったやつはおるんやろ? それでええやん まずそいつらや』
『58:風吹けば名無し:線を引くのは、きっと、イッチさんひとりの仕事ではありませんよ』
『59:風吹けば名無し:>>58 ネキ、たまにはええこと言うやん』
『60:風吹けば名無し:たまにはってなんや』
五十八番の書き込みで、目が止まった。ひとりの仕事では、ない。
耳の奥で、ベアトリスの声がよみがえる。王都の規則は王都で遊ぶ人たちと、書いてください。
王都で遊ぶ人たちと。口の中で、その言葉を繰り返した。
窓の外では、灯り玉の光の向こうに学院の塔がいくつも並び、そのうちの一つの窓に、昨日の夜と同じように、まだ明かりがともっている。規則書を閉じて、胸に抱えた。閉じた頁の内側で、インクの染みがゆっくりと乾いていく。
電池は四十一パーセント。王都に来てから、少しずつ減り続けていた。
脚注
※¹スピットボール:ピッチャーがボールに唾液や松ヤニなどを付けて投げる球。今は反則だが、昔は合法だった。




