第15話 魔法学院の運動不足
王都の門をくぐるころには、日がもう西へ傾きかけていた。灰色の石を分厚く積み上げた壁は、ハーケンの町の塀の何倍もある。首が痛くなるほど見上げると、そのまた上に見張りの塔がいくつも並んでいた。門の下では、荷車の軋みと蹄の音と人の呼び声がひとつに混ざって、石のアーチの内側でわんわんと響いている。乗合馬車の踏み台を降りたきり、拓海の足はそこから動かなくなった。
肩がぶつかる。よけた先で、今度は誰かの籠に肘が当たった。豊穣祭の日のハーケンの空き地よりもっと人がいるのに、ここではそれがただの夕方の通りなのだ。毛皮の帽子をかぶった商人。籠を抱えた女。人の股のあいだをすり抜けていく子ども。鎧を鳴らして歩く衛兵。長いローブの裾を引きずり、杖を手にした人たち。
通りの両側で、灯りがともりはじめている。ハーケンで灯りといえば獣の脂を入れた皿で、煤の匂いをさせながらちろちろと頼りなく揺れるものだった。王都のは違う。通りの上には手のひらほどの光の球がいくつも浮かんでいて、誰が火をつけたわけでもないのに、日が沈むにつれてひとつ、またひとつと、ひとりでに明るくなっていく。
「あれが灯り玉です。学院で作って、王都じゅうに売っているんです」
乗合馬車で向かいに座っていた学生が、鼻をふくらませた。ルーカスという名前を聞き出せたのは、峠を越えてからのことで、もう一人、道中ずっと本で顔を隠していたほうはオスカーという。
通りの角では、井戸の水が桶ごと宙に浮いて家の二階の窓へ運ばれていく。パン屋の店先の窯は、職人の指が動くたびに火を強めたり弱めたりして、そのたびに焼けた麦の甘い匂いが通りへこぼれた。荷車を引く馬の足もとでは、凍った石畳の氷だけがじゅっと音を立てて溶けていく。気づけば、ポケットの中のスマホを握っていた。
『1:異世界イッチ:王都着いた 街灯が浮いとる 水が空飛んどる』
『2:風吹けば名無し:ファンタジーやんけ』
『3:風吹けば名無し:今さら?』
『4:風吹けば名無し:ハーケンが田舎すぎて魔法見る機会なかったんやろな』
『5:風吹けば名無し:イッチ、田舎から出てきた大学生みたいになっとるで』
鼻から笑いが漏れた。言い返せないのが、ちょっと悔しい。
* * *
王立魔法学院は、王都でいちばん高い丘のてっぺんに建っていた。丘のふもとから空へまっすぐ伸びる石の階段は、上のほうが夕闇に溶けて、どこで終わるのかも見通せない。見上げながら数えはじめた拓海は、五十を過ぎたあたりで諦めた。ざっと三百段。もっとあるかもしれない。段の角はどれもとがったままで、すり減った跡がひとつもなかった。
階段の前で足を止めたルーカスとオスカーが、当たり前のような顔で短く何かを唱える。二人の靴の底が、石段から拳ひとつぶん宙に浮いた。そのまますうっと滑るように上っていく二人の背中を、背負っていた荷物までがふわふわと追いかけていく。
「……おい」
声をかけると、ルーカスが宙で振り返った。拳ひとつぶん浮いたまま、首をかしげている。
「監督さんは、浮かないんですか」
「浮けるか」
「あ」
ルーカスとオスカーが顔を見合わせると、二人の靴がそろそろと気まずそうに石段へ戻ってくる。
「……荷物、持ちます」
「ええよ。自分で持てる」
小麦粉の袋だけは、王都の門でルーカスが呼び止めた学院の荷車に預けてある。残りの麻の袋とバットと帳面と規則書を、背中と両腕に抱えこんで、拓海は一段目に足をかけた。
百段を過ぎたあたりで、太ももが熱を持ちはじめた。二百段で、吐く息の白さが目の前をふさぐ。三百段を上りきったときには、膝が完全に笑っていた。ルーカスとオスカーは途中で何度も浮きかけ、そのたびに拓海の顔をちらりと見ては、自分の足で踏みとどまった。てっぺんに着いたとき、二人は拓海よりもずっとひどく肩を上下させていた。
『18:異世界イッチ:魔法学院の階段、三百段 学生は浮いて上る』
『19:風吹けば名無し:学院長の手紙の意味がわかったわ』
『20:風吹けば名無し:そら足腰弱なるわ』
『21:風吹けば名無し:エレベーター完備の大学みたいなもんやな』
『22:風吹けば名無し:>>21 エレベーターは自分の足関係ないからセーフやろ』
『23:風吹けば名無し:正直三百段あったらワイも浮く』
『24:風吹けば名無し:>>23 浮けたらな』
『25:風吹けば名無し:駅の階段でエスカレーター探すワイらに、学生を責める資格はない』
* * *
学院長室は、いちばん高い塔のいちばん上にある。塔の中の螺旋階段でも、学生たちは浮いていた。古い紙とインクの匂いがしみついた石の壁のどこからか、ぶうん、と低い唸りのような音が降ってくる。足音を立てて上っていくのは拓海一人で、すれ違う学生たちは、珍しい獣でも見るような目で振り返っていった。ようやく上りきった階段の先で樫の扉を叩くと、間を置かずに、よく通る声が返ってきた。
「開いておる!」
扉を開けたとたん、紙の埃が鼻をくすぐった。壁という壁が本棚で、入りきらない本が床に並び、その上にまた本が積み上がっている。窓の外には灯り玉がいくつも浮かび、部屋の真ん中の大きな机の向こうに、老婆が一人座っていた。
短く刈った白い髪。日に焼けたような浅黒い顔。深い皺の奥で、小さな目がぎらぎらと光っている。紺色のローブの袖を肘までまくり上げた腕は細いのに、干した木の枝みたいに硬そうだ。机の上には杖が一本、無造作に転がっていた。
「おぬしが、辺境の監督殿か」
「……イッチです」
「ヘルミーネである」
椅子を鳴らして、学院長が立ち上がった。頭のてっぺんが拓海の肩にも届かないのに、積み上がった本の塔までが背筋を伸ばしたように、部屋の空気がぴんと張りつめる。その目は拓海の顔を素通りして、泥のはねた靴と、まだ小刻みに震えている膝と、床に下ろした荷物の山へ、順に落ちていった。
「階段を、歩いて上ってきたな」
「浮けないんで」
「それでよい」
学院長がにやりと笑うと、前歯が一本欠けているのが見えた。
「わしも、この塔の階段は、毎朝歩いて上る。七十を過ぎてもな。……なのに、二十にもならん若造どもが、たった三百段を歩いて上らん。嘆かわしい」
机の上の杖をひょいとつかむと、学院長は床の本の山を軽々とまたいで窓のほうへ歩いていく。つられてあとに続いた拓海の目に、学院の中庭が飛びこんできた。四方を塔に囲まれた、広い四角い庭だ。王都の屋根という屋根が雪をかぶって白いのに、そこだけが黒い。むき出しの土の地面から、うっすらと湯気まで立っている。
「中庭の下に、地熱の術がかけてある。寒いことには変わりないが、冬でも凍らん。……昔は、学生どもが剣や弓の稽古をした場所だ。今は、誰も使わん」
「……あそこで、やってええんですか」
「そのために、おぬしを呼んだ」
枯れ枝の指が、窓の外の中庭を指す。
「学生は、二百人おる。全員にやらせろとは言わん。王の御前に出す一組ぶん、最低九人と、できれば控え。……そろえるのは、おぬしの仕事だ。わしは知らん」
「知らん、て」
「知らん。わしが命じて集めた組など、春には負ける。……違うか?」
喉まで出かかった言葉が、そこで引っこんだ。ハーケンの十八人は、誰かに命じられて野球を始めたわけではなく、貼り紙を見て、子どもの歓声を聞いて、自分の足で空き地に来たのだ。
「……違わないです」
「よろしい」
学院長は満足げに鼻を鳴らして、くるりと窓に背を向けた。
「おぬしの部屋は、この塔の屋根裏にある。物置だが、窓がある。……辺境では、酒場の屋根裏に住んでおったそうだな。ちょうどよかろう」
酒場の屋根裏のことまで、どうして知っているのか。思ったことがそのまま顔に出たらしく、学院長は前歯の欠けた口で、またにやりと笑ってみせた。
* * *
翌朝、拓海は学院の掲示板に貼り紙を一枚貼りだした。文句はハーケンのときと同じで、炭で下書きして、インクで大きくなぞってある。
――急募 わたしと共に、棒で球を打ちのめし続ける仲間を求む。報酬は、一生の思い出と、ときどき勝利のうまい酒
その「酒」のところだけは、貼る前に線で消して「揚げじゃがいも」と書き直した。学生の中には、まだ酒を飲めない年の者もいるはずだ。
あとは中庭の真ん中に立って、待つだけだった。ゴルドの徒弟が削ったバットを肩に担ぎ、ゴルドの作ったグローブを左手にはめて、右手で赤い糸のボールを軽く放り上げては、受ける。放り上げては、受ける。そのあいだに、塔の影が少しずつ中庭を横切っていった。
――誰も、来なかった。
中庭を囲む塔の廊下を、学生たちが浮きながら行き来している。窓から見下ろして何か囁き合う者。くすくすと笑う者。降りてくる者は、一人もいない。
昼どきになって、パンを抱えたルーカスとオスカーが降りてきた。二人とも、目が拓海の顔の少し横を泳いでいる。
「……すみません。誰も、来ないと思います」
「なんでや」
「中庭は、寒いし。汚れるし。走るし」
本で顔を半分隠したまま、ぼそぼそと答えるオスカー。
「それに、首席が、反対してるって」
「首席?」
「学院の、首席です。……この学院でいちばん魔法がうまい人が、辺境の棒振り遊びなんて、学院の品位に関わるって」
パンをかじりながら塔の窓を見上げると、さっきまで並んでいた顔がどの窓からも消えていた。
『36:異世界イッチ:昨日の続き 学院長のばあちゃんに会うた ちっこいのに圧がすごい 七十過ぎて毎朝自分の足で塔の階段上っとるらしい』
『37:風吹けば名無し:手紙で「この婆」て書いとった人か』
『38:風吹けば名無し:ばあちゃんすごいな』
『39:異世界イッチ:中庭使ってええって 地熱の術で冬でも凍らんらしい 御前試合に出すチーム集めるんはワイの仕事、わしは知らん、やって』
『40:風吹けば名無し:丸投げで草』
『41:異世界イッチ:ほんで朝から貼り紙作戦、誰も来ない』
『42:風吹けば名無し:ハーケンでも最初は子どもしか来んかったやろ』
『43:異世界イッチ:しかも首席が反対しとるらしい』
『44:風吹けば名無し:>>43 首席おるやんけ!!!』
『45:風吹けば名無し:前スレの26、予言者やったか』
『46:風吹けば名無し:お嬢様やろ? な? お嬢様やろ?』
『47:風吹けば名無し:まだ男か女かもわからんやろ落ち着け』
* * *
夕方、中庭に人が降りてきた。ざっと三十人。皆、浮いたまま降りてきて、中庭の端にひとかたまりになる。学生のなかに、自分の足で下りてきた者は一人もいない。鼻の頭を赤くしてローブの前をかき合わせる者や、あくびを噛み殺している者までいて、その先頭には、杖を片手にさげた学院長が立っていた。
「単位をやる、と言うたら、来おった」
つまらなそうに、学院長が鼻を鳴らす。
「わしは知らん、と言うたがな。おぬしが一日待っても誰も来ぬのを見ておったら、腹が立ってきた。……一度だけだ。あとは、おぬしが引き留めよ」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。春に勝て」
それだけ言うと、学院長は浮いている三十人のあいだを自分の足ですたすたと抜けて、塔へ引き返していく。
残された拓海は、三十人の前に立った。六十の目が、こちらを見ている。辺境から来た、浮けない、変な訛りの男を。ハーケンで初めて野球を説明した晩の、黄金のじゃがいも亭の客たちの顔に少し似ていた。違うのは一つだけだ。あのときは誰も野球を知らなかった。今度は、誰も野球をやりたがっていない。
「えー……まず、走ります」
三十人のあいだを、どよめきが走った。
「中庭を、一周。軽くでええです」
誰も動かない。三つ数えるほどの間があって、端のほうで一本の手がおずおずと挙がった。
「浮いて、回るのは、だめですか」
「だめです」
「なぜですか」
なぜ。そんなことを聞かれたのは初めてだった。ハーケンには、浮く人間など一人もいなかったのだから。
「……野球は、自分の足で、塁を回るもんやから」
どよめきが、はっきりとした不満の声に変わっていく。そのときだった。
「騒がしいですわね」
冷えた空気を切って、澄んだ声が中庭に響いた。三十人の後ろから、一人の少女が歩いて出てくる。浮いてはいない。土を踏んでいるのに、足音がほとんどしない。
小柄だ。三十人の中に混ざれば、いちばん小さいかもしれない。濃紺のローブを襟もとまできっちりと着こみ、一本の太い三つ編みにした長い銀髪をぐるりと肩に回している。拓海の目の前で足を止めると、少女は紫色の瞳でまっすぐにこちらを見上げた。
「セシリア・ローゼンハイムですわ。二年ながら、学院の首席を務めております」
――お嬢様やった。
頭の中のスレに、危うくそう書きこむところだった。
「異国の監督さん、とお呼びすればよろしいのかしら。……学院長のお言いつけで、学生を代表して、ご挨拶に参りました」
ローブの裾を指先でつまみ、膝を折って優雅に一礼するセシリア。上げた顔の、紫の瞳が冷たく光っている。
「そのうえで、はっきり申し上げておきます。棒を振り回して、球を打って、土の上を走り回る。そのような遊びは、騎士か、農夫のなさることですわ。ここは、王立魔法学院です。わたくしたちは、魔法を学ぶために、ここにいるのです」
三十人のあいだから、そうだ、と小さな声が上がる。拓海は肩のバットを、土の上に下ろした。
「……ほな、セシリアさん。一球だけ、捕ってみてくれへんか」
「捕る?」
「投げるから、捕ってみて。それだけ」
セシリアの眉が、わずかに寄った。それもすぐにほどけて、指先が三つ編みの先を肩の後ろへ払う。
「よろしいですわ」
十歩ほど下がって、赤い糸のボールを握る。肘は上げない。下から、ふわりと山なりに放った。祭りの最後の夜、リタへ放ったのと同じ球だ。白い球が、冬の夕空にゆっくりと弧を描いていく。
セシリアは一歩も動かない。手も出さない。右手の人差し指を、すっと球のほうへ向けただけだった。
球が止まった。
セシリアの目の前、手を伸ばせば届くところで、白い球が宙に浮いたままぴたりと静止している。赤い縫い目だけが灯り玉の光を受けて、ゆっくりと回っていた。三十人がどっと沸き、拍手が中庭を囲む塔の壁に跳ね返る。
浮いた球を指先でつまんだセシリアが、拓海に向かって軽く放り返した。ぱすん、とグローブが鳴る。
「これで、よろしいかしら」
涼しい顔のまま、つんと顎を上げるセシリア。
「わたくしたちには、手も足も、要りませんの」
拓海はグローブの中の球を見下ろし、その目をゆっくりとセシリアの手へ移した。
球が手を離れた瞬間。セシリアが右手の指を向ける、ほんの一瞬前。彼女の左手が、ローブの袖の中でぴくりと動いた。球を迎えに行くように。捕まえようとするように。拓海の目は、それを見逃さなかった。左手はすぐに袖の奥へ引っこんだ。まるで、そこにあってはいけないものみたいに。
「……ありがとう。ようわかったわ」
セシリアの眉が、一瞬だけひそめられた。何がおわかりになりましたの、とでも言いたげな顔。それでも口は開かず、三つ編みを揺らして背を向ける。浮きながらそのあとに続く学生たちが、塔のほうへ吸いこまれていった。
がらんとした中庭に残ったのは、拓海と、隅のほうで膝を抱えている小さな人影だけだった。
* * *
その人影は、子どもだった。歳は十二か、それより下か。三十人の学生の誰よりも小さい。ぶかぶかのローブの袖から細い指先だけが覗いていて、淡い色の髪が灯り玉の光の中でほんのりと光っている。
いや、光っているのは髪だけではない。子どもの周りの空気そのものがかすかにきらきらしていて、冬の夕方の冷たい空気の中を小さな光の粒がふわふわと漂っているのだ。
「……さっきの、ボール」
膝を抱えたまま、子どもが拓海を見上げる。
「すごく、ゆっくり、飛んだ。きれいだった」
言葉といっしょに、光の粒がひとつ、ふたつと増えた。
「フィン、です。一年の」
「イッチや。……フィンは、戻らんでええんか」
「戻っても、どうせ、怒られるから」
自分の周りに漂う光の粒を、フィンは手で払うようなしぐさをした。粒は指のあいだをすり抜けて、すぐにまた戻ってくる。
「ぼく、うれしいとか、びっくりしたとか、そういうとき、勝手に、出ちゃうんです。魔法。止められなくて。授業で、よく、怒られる」
話しているあいだも、光の粒はふくらんだりしぼんだりを繰り返している。
「さっき、ボールが飛んだとき、いっぱい出ちゃった。……だから、ここで、おさまるの待ってた」
グローブを外して、拓海はフィンの隣に腰を下ろした。尻の下の土が、ほんのりと温かい。地熱の術のおかげだ。
「もう一回、投げたろか」
フィンの目がまんまるになって、光の粒がぱっと弾けるように増えた。
「……いいの?」
「ええよ。そのかわり、魔法は使わんでな」
一球目はフィンの頭の上を越えていき、球が落ちてくるより先に、フィンは両手で顔を覆ってしまう。二球目は胸に当たって、ぽとりと足もとに転がった。三球目。今度は目を閉じない。両手をお椀の形にして前に突き出したその指先に当たって、球はぽろりとこぼれた。
「……惜しい!」
思わず上げた声に、フィンの周りで光の粒がふわっと舞い上がった。
四球目を放ったときだ。山なりに上がった球が、落ちてくる途中でふらりと横に揺れた。風はない。フィンの周りから漏れ出した光の粒が球にまとわりつくように渦を巻いていて、球はふらふらと揺れながら、フィンの手のひらとは別のところに落ちた。
「あ……ごめんなさい、ぼく、また……」
フィンの顔がくしゃりとゆがみ、光の粒もしゅんと小さくなる。
転がった球を拾い上げて、拓海は手のひらの上で転がした。揺れて、落ちる球。投げた本人ではなく、捕る側の魔法で軌道が変わる球。
――これ、相手の投げた球やったら、どうなるんや。
頭に浮かんだ考えを、首を振って追い払う。今はそんなことを考えている場合ではない。
「謝らんでええ。フィンがびっくりしたら、球も、ちょっとびっくりするんやな」
きょとんと拓海を見上げたフィンが、少し遅れて口もとをほころばせた。光の粒がまた、ふわりと増える。
十球投げて、フィンが手で捕ったのは二球。二球とも、捕った瞬間に光の粒が花火みたいに弾けて、フィンは自分の手の中の球を信じられないという顔でまじまじと見つめていた。
捕れなかった球を拾いに、フィンは中庭を何度も走った。ぶかぶかのローブの裾を踏んづけそうになりながら、自分の足で。そのことに、フィン自身はたぶん気づいていない。
* * *
その夜。塔の屋根裏の物置で、拓海はスマホを開いた。物置にあるのは、背もたれの割れた椅子と、黴の匂いのする古い羊皮紙の束と、藁の布団が一組。窓の外では灯り玉が手を伸ばせば届きそうなほど近くに浮かんでいて、ハーケンの屋根裏の小窓から見えた二つの月は、ここでは塔の陰に隠れて見えなかった。
『60:異世界イッチ:夕方、学院長が単位で釣って三十人連れてきた』
『61:異世界イッチ:首席、お嬢様やった』
『62:風吹けば名無し:キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!』
『63:風吹けば名無し:>>46 予言者パート2』
『64:風吹けば名無し:で、どんな子や』
『65:異世界イッチ:銀髪三つ編み紫の目 ですわ口調 ワイが投げた球を指一本で空中に止めた』
『66:風吹けば名無し:強キャラやんけ』
『67:風吹けば名無し:「わたくしたちには、手も足も要りませんの」とか言うてそう』
『68:異世界イッチ:>>67 言うてた』
『69:風吹けば名無し:草』
『70:風吹けば名無し:で、その三十人はどうなったんや』
親指が、画面の上で少しさまよった。
『71:異世界イッチ:一人だけ残った 十二くらいの、魔法が勝手に漏れる子 十球投げて、二球、手で捕った』
『72:風吹けば名無し:ええやん』
『73:風吹けば名無し:一人目の部員や』
『74:風吹けば名無し:ハーケンもリタちゃん一人から始まったしな』
七十四番の書き込みの上で、親指が止まった。リタちゃん。その名前が胸の奥のどこかをちくりと刺して、刺されたところからじんわりと温かくなっていく。窓の外の灯り玉が、ゆらりと揺れた。
扉が、こつこつと鳴った。開けると、学院長が立っている。螺旋階段を、自分の足でここまで上ってきたらしい。そのくせ肩ひとつ上下していない。手にした杖は床を突くでもなく、指揮棒のように軽く揺れていた。いったい何のための杖なのか、拓海にはさっぱりわからない。
「首席に、会ったそうだな」
「……会いました。一球、止められました」
「で、あろうな」
背もたれの割れた椅子に、学院長はどっかりと腰を下ろした。椅子がぎしりと鳴る。杖を膝に横たえて窓の外を見やり、灯り玉がひとつ揺れてもとの場所へ戻るまで、学院長は口を開かなかった。
「あれは、この学院で、いちばん魔法がうまい。……そして、この学院で、いちばん、走ったことのない子だ」
灯り玉の光が、学院長の深い皺に影を落としている。
「幼いころ、体が弱かった。外に出してもらえなかった。窓の内側で、本と杖だけを相手に育った。……あの子にとって、魔法は、手と足の代わりだったのだ」
杖の先が床をこつんと叩いた。
「だから、手も足も要らぬ、と言う。要らぬと言わねば、立っておれんのだ」
拓海の頭に浮かんだのは、夕方の中庭だった。ローブの袖の中で、ぴくりと動いた左手。
「……監督殿」
膝の杖をつかんで、学院長がひょいと立ち上がる。
「わしは知らん、と言うた。だが、一つだけ、婆の頼みを聞け。……あの子を、走らせてやってくれ」
言うだけ言って、学院長は屋根裏を出ていった。螺旋階段を下りていく足音が、こつ、こつ、と遠ざかっていく。拍子でもとるような、迷いのない足音だった。
窓辺に寄ると、灯り玉の光の向こうに、学院の塔の黒い影がいくつも並んでいる。そのうちのどれかの窓に、まだ明かりがひとつともっていた。
あの窓の内側で、銀の三つ編みの少女がまだ本を読んでいるのかもしれない。




