第14話 とっておいた名前
翌朝、拓海はいつもより早く目を覚ました。小窓の外はまだ灰色に沈んでいて、眠ったという気はほとんどしない。はしごを下りると、竈にはもう火が入っていたが、ブルーノの姿はなかった。裏口の戸が、指一本ぶんだけ開いている。
裏庭の雪には、ゆうべ見たのと同じ大きさの新しい足跡が一筋、表の通りのほうへ延びていた。外套を引っかけて、拓海はそのあとを追う。
まだ誰も踏んでいない通りに、ひとりぶんの足跡だけが点々と続いている。パン屋の前を過ぎ、広場を横切って、足跡は通りのはずれへ向かっていた。行き先なら、考えなくてもわかる。
ゴルドの鍛冶屋の扉は、半分開いていた。炉の火を落としたままの店の中は、屋外同様、吐く息も白くなる。冷えきった奥のほうから、どす、と鈍い音が響いてきた。
藁の的の前に、リタが立っていた。
いつもの前掛けではなく、厚手の上着を着こんでいる。足もとには牛革のボールが五つ。その一つを拾い上げ、マウンドの印の上に立って、リタは腕を振った。
どす。球は炭の枠の真ん中に当たる。
「……おはよ、イッチ」
振り返りもしないリタ。
「足跡、追いかけてきたんでしょ」
「……ゆうべのも、リタか」
答えのかわりに、リタは次のボールを拾って投げた。どす。枠の、少し右。
「井戸のとこまで行ったんだけど」
三つ目のボールを拾いながら、リタが続ける。
「イッチ、雪に四角と丸描いてたでしょ。本塁と、マウンド。それ見たら、なんか、声かけられなくなっちゃって」
外套の前をかき合わせてみても、返す言葉はどこにも見つからなかった。
「行きなよ、王都」
三つ目が飛ぶ。どす。枠の、真ん中。
「イッチ、手紙読んでるとき、どんな顔してたか知ってる? あたし、厨房の入り口から見てたよ。すっごい、観たいって顔してた。魔法使う人たちの野球、観たいって」
「……そんな顔、しとったか」
「してた。カラス落とし見たときと、同じ顔」
四つ目を拾ったところで、リタの手が止まった。すぐには投げずに、指の形を何度も組みかえはじめる。
「あたしね、イッチがいなくても、投げられるよ。ゴルドさんがいるし、シスターがいるし、ディルクさんもいる。春になったら、辺境伯杯もある」
そこで、声が少しだけ細くなる。
「……でも、見ててくれる人がいないのは、ちょっと、やだな」
拓海は炉のそばの丸太に腰を下ろした。冷たい。いつもなら炉の熱が壁ごしに背中を温めてくれる場所なのに、今朝はどこにも火の気がない。
「見とるよ」
自分でも驚くほどすぐに声が出た。
「王都からでも、見とる。リタの球が、どないなったか。名前のない球に、名前がついたか。手紙で、教えてくれ」
ようやく振り返ったリタの鼻の頭が赤いのは、寒さのせいだけではなさそうだった。
「……手紙、書くの、下手だよ」
「シスターに手伝ってもらえ」
「それ、絶対からかわれるやつじゃん」
笑いながら、リタは四つ目のボールを手の中で転がす。
「……それにさ。春になったら、どうせ会えるでしょ」
「御前試合か」
「うん。王様の前で、イッチのチームと」
拓海のほうは見ないまま、リタは指の握りを確かめている。
「手紙で教えるのは、途中まで。続きは、王都で見せてあげる」
「……敵のチームの監督に、見せてええんか」
「試合でね」
拓海は思わず吹き出した。
「ほな、春に」
「うん。春に」
リタは四つ目のボールを、思いきり投げた。
どす。炭の枠の、ど真ん中だった。
* * *
その日の昼、拓海は教会の小部屋で返事を書いた。文字なら手が勝手に書いてくれる。厄介なのは、王都の偉い人に向けた言葉づかいのほうだ。なにしろ「打ちのめし続ける」の貼り紙の前科があるので、書いているあいだじゅう、ベアトリスに横から言い回しについて目を光らされていた。
――王立魔法学院長、ヘルミーネ殿。お招き、お受けします。ハーケンの監督、イッチ。
短すぎるかと思ったが、それでいい、とベアトリスは目を細めた。
「学院長様は、長いお手紙がお嫌いだと、昔、司祭様から聞いたことがあります」
「司祭様、学院長と知り合いなんですか」
「お若いころ、王都で、少し」
それ以上を、ベアトリスは語らない。手紙を丁寧に折りたたんで封をすると、教会の印を押した蝋が赤く固まった。
「これを、宿場の早馬の便に預ければ、王都まで届けてくれます。少しお高いですけれど、急ぎの手紙はみんなそうします」
その夜、黄金のじゃがいも亭に集まった皆の前で、拓海は王都へ行くことを告げた。
店の中が、しんと静まり返った。やがて、ゆうべとは違う種類のざわめきが広がっていく。寂しいな、と誰かが言う。王都で負けるなよ、と誰かが言う。ポテトーズはどうなる、と誰かが言う。
カウンターの端から、ゴルドの短い声。
「……続ける」
その一言で、ざわめきが止んだ。
『1:異世界イッチ:王都行くことにした 五日後に出発や』
『2:風吹けば名無し:決めたか』
『3:風吹けば名無し:イッチ、ようやった』
『4:風吹けば名無し:ハーケン編、完!』
『5:風吹けば名無し:>>4 言い方』
『6:風吹けば名無し:リタちゃんには言うたんか』
『7:異世界イッチ:言うたというか、背中押された』
『8:風吹けば名無し:ええ子や……』
『9:風吹けば名無し:寂しくなるな』
『10:風吹けば名無し:>>9 お前がハーケン行ったことないやろ』
『11:風吹けば名無し:行ったことなくても寂しいもんは寂しいんや』
『12:風吹けば名無し:いってらっしゃい、イッチさん』
電池は五十八パーセント。
* * *
出発までの五日間は、あっという間に過ぎた。
ゴルドは鍛冶屋にこもって何かを作っていて、覗きに行くと、「来るな」の一言で追い返された。エミールは毎晩遅くまで役場で帳面を写していたが、何を写しているのか聞いても「秘密です」と突っぱねられた。リタと同じ答えだった。町長は出発の朝に読み上げる挨拶を練っては、ベアトリスに「短く」と言われて書き直し、それを少なくとも三度、繰り返しているらしい。
ブルーノだけは何もしていないように見えた。いつものようにシチューを煮て、じゃがいもを揚げる。ただ、ある夜ふと気づくと、厨房の隅に麻の袋が一つ増えていて、中身は乾かしたじゃがいもの薄切りだった。ピアはピアで、木の皮の器を一つだけやけに念入りに巻いていた。
出発の前の晩、拓海は屋根裏で荷物をまとめた。とはいえ、まとめるほどの量はない。この世界に来たとき着ていた贔屓の球団のレプリカユニフォームと、ジーンズ、スニーカー。それから、この世界で増えた毛織りの外套と厚手の靴下に、ゴルドが縫い直した赤い糸のボール。
財布を開けると、千円札が二枚と小銭が少しあって、その中で五百円玉が一枚、鈍く光っていた。
この世界に来た最初の日、黄金のじゃがいも亭のテーブルに、拓海はこれを置いた。赤茶色の髪の少女がそれを窓の光にかざして、言ったのだ。わあ、きれい。何これ、お守り?
拓海は五百円玉を、ズボンのポケットに移した。
* * *
出発の朝は、雲ひとつなかった。
ハーケンの門の前にできた人だかりは、ポテトーズの十八人に、町の人たち、子どもたち。
見送りというより、試合の日の見物席だ。辺境伯の城下までは荷馬車で半日、そこから王都行きの乗合馬車が出る。荷馬車の御者台にはボルグが陣取っていた。城下まで送っていく、と言って聞かなかったのだ。
最初に進み出たのは町長だった。何度も書き直した挨拶の紙を、両手で広げる。
「イッチ殿。わしは、十五年前、町長になったとき――」
「時間です、町長」
ベアトリスの静かな声に、町長は紙をじっと見つめ、くしゃりと丸めて懐に押しこんだ。
「……王都で、ハーケンの名を、上げてきてくれ」
それだけ言って鼻をすすった町長に、見物人たちから笑いと拍手が起こる。それを合図に、次々と人が前に出た。
杖に両手を重ねて、ヨーゼフが白いひげを揺らす。
「わしが御前試合で的を射たのは、辺境伯閣下の前じゃった。それでも膝が震えた。王の前となりゃ、膝どころか、腹の底まで震えるぞ。……震えたら、笑え。笑うと、止まる」
ハンスは腕を組んだまま、足もとの雪をにらんでいた。たっぷり間を置いて、ようやく口を開く。
「……公平に、寂しい」
見物人の誰かが吹き出したが、ハンスは眉ひとつ動かさない。
双子のペーターとパウルは、粉屋の粉袋を一つずつ担いできて拓海に押しつけた。王都の粉は混ぜものが多い、と父親が言っていたらしい。あまりに重くて拓海がよろけていると、見かねたボルグが二つまとめて荷馬車へ積みこんでくれた。
ミーナは麦わら帽子の代わりに、母親が羊の毛で編んだという冬の毛糸の帽子をかぶっていた。同じ灰色の毛糸の手袋を一組、拓海に差し出す。
「……ボールの、中の毛糸と、同じ」
それだけ言うと、ミーナは母親のうしろに隠れてしまった。入れかわりに、ディルクが胸をどんと叩く。
「守護神は、俺に任せろ。ハーケンの最後の回は、俺が締める」
黙って頭を下げたゴルドの徒弟の手には、新しく削ったバットが一本握られていた。白トネリコの、王都でいちばん最初のバットになるはずのものだ。
エミールが差し出したのは、厚い帳面だった。
「この五日間で、写しました。ポテトーズの全員の、打球の記録です。豊穣祭の騎士団の分もあります。誰がどっちに打って、どこまで飛んだか。……王都の人たちの記録をつけるとき、見比べてください」
「……ええんか。春には、ワイ、向こうのチームの監督やで」
「わかってます」
インクで黒ずんだ袖口で、エミールは鼻の頭をこする。
「イッチさんは、僕たちのことをいちばんよく知っている人です。この帳面がなくても、たぶん、全部覚えているでしょう。だったら、同じものを持っていてもらったほうが、公平です」
「……公平、か」
「それに、イッチさんに勝たないと、意味がありませんから」
帳面を開くと、頁いっぱいに細かい点と線が並んでいた。最後の頁には、エミールの字で短く書いてある。
――みんな、右で打つ。
「イッチさんの国には、左で打つ人もいるって、前に言ってましたよね。王都にいたら、記録してください。見てみたいです」
ベアトリスからは、規則書の写しがもう一冊。表紙には、丁寧な字で『野球規則 写し』とあった。
「最後の頁の一行のあとを、空けてあります」
最後の頁を開く。試合のあいだ、選手は、いかなる魔法も用いてはならない。その下が何行ぶんも、白いままだった。
「王都の規則は、王都で遊ぶ人たちと、書いてください。……書けたら、写しを一冊、送ってくださいね。審判は、規則を知らなければ、立てませんから」
ブルーノは麻の袋を黙って荷馬車に積みこみ、前掛けで手を拭いた。
「……王都の芋は、まずい」
それだけだった。
ピアは念入りに巻いた木の皮の器を、両手で差し出した。中で、揚げたてのじゃがいもが湯気を立てている。
「道中のぶんっす。……あと、監督。あたし、いつか王都で売り子やるっす。でっかい球場で、樽背負って。絶対っす」
「……待っとる」
ピアはにっと笑って、樽を背負うまねをしてみせる。
最後に前へ出たのは、ゴルドだった。分厚い手に、何かを握っている。差し出されたのは革の手袋で、ゴルドが使っている捕手の手袋よりひと回り小さく、親指と人差し指のあいだに革の網が張ってあった。拓海がいつか地面に描いて説明した、グローブの形だ。
「……五日、かかった」
手を入れると、吸いつくようにぴったりだった。最初の手袋を作ったときの寸法を、ゴルドは覚えていたらしい。
「受けろ。……教えるなら、自分で受けろ」
それだけ言って、ゴルドはのそりとうしろへ下がった。
* * *
リタは、人だかりのいちばん外側にいた。前掛けをつけたまま腕を組んで、門の柱にもたれている。拓海が近づくと、その背中が柱から離れた。
「みんな、いろいろくれたね」
「……くれすぎや。荷馬車、ボルグさんが重いって言うとる」
「あたしは、何もないよ」
肩をすくめるリタ。
「投げる球しか、持ってないもん」
ポケットに手を入れると、指先に硬くて丸いものが触れた。
「リタ。手、出して」
首をかしげながら差し出された右の手のひらに、拓海は五百円玉を置いた。朝日を受けて、金色の硬貨がきらりと光る。
「……これ」
「最初の日、リタが言うたやろ。お守り? って」
手のひらの五百円玉を見下ろして、リタはゆっくりと指を閉じていく。
「お金なんは、ほんまやで。ワイの国の。……でも、この世界やと、何も買えへん。せやから、お守りや」
握った拳を、リタはじっと見つめている。門の前のざわめきが、ふいに遠くなった気がした。
「……とっておく」
小さな声だった。いつかの帰り道と、同じ言葉だ。
リタが顔を上げる。赤茶色の髪が朝日に透けて、まっすぐな目が拓海をとらえた。
「たくみ」
拓海は息を止めた。
この世界でリタがその名前を口にしたのは、二度目だった。一度目は、名前を教えた夕暮れの帰り道。確かめるように、一音ずつ。そのあと、リタは言った。たくみって呼ぶのは、なんか、もったいない気がする。……でも、とっておく。
とっておいた名前を、リタは今、呼んだのだ。
「いってらっしゃい、たくみ」
リタは笑っていた。目の端が少しだけ光っている。それでも、笑っていた。
「……いってきます」
自分の声が、ひどくかすれて聞こえた。
「向こうに着いたら、手紙ちょうだいね。あたしも書くから。下手だけど」
「シスターに手伝ってもらえ」
「だから、それ絶対からかわれるって」
リタは拓海の背中を、両手でどんと押した。荷馬車のほうへ。
「ほら、行きな! ボルグさん、待ってるよ!」
* * *
荷馬車が門を出た。
荷台のうしろに座って遠ざかる門を見ていると、手を振る人だかりから子どもたちが飛び出して、雪の道を荷馬車のあとから駆けてくるのが見えた。いちばん前はミーナだ。速い。荷馬車に追いつきそうなくらい、速い。
門の前で、誰かが歌い始めた。羊を呼ぶ節に乗せて、ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ。かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい。帰ってこい、のところで、声がいちばん大きくなる。
ポケットの中で、スマホが震えた。取り出すと、電池が歓声に合わせて増えていく。五十八、六十五、七十、七十六。
門の柱のそばに、前掛けの赤茶色の髪がまだ立っていた。手は振っていない。右手を胸の前で、ぎゅっと握りしめている。
やがて道が曲がり、ハーケンの門は雪の丘の向こうに隠れた。御者台のボルグが、振り返らずにぼそりと言った。
「……泣いてもいいぞ。俺は前しか見とらん」
返事のかわりに、ミーナがくれた灰色の手袋に顔をうずめる。羊の毛の匂いがした。
* * *
辺境伯の城下では、乗合馬車が拓海を待っていた。四頭立ての、幌のかかった大きな馬車だ。客は拓海のほかに六人。王都へ商いに行く毛皮商人の夫婦と、里帰りする若い兵士、巡礼の老婆、それに厚い本を抱えた学生らしい若い男が二人。
そして馬車の脇には、紺色の外套の騎士が立っていた。
「……ヴァルターさん」
「城下を通ると、聞いた」
それだけ言って、ヴァルターは拓海の荷物に目をやった。粉袋。麻の袋。新しいバット。規則書の束。それから、拓海の左手の新しいグローブ。
「王都の組を作るそうだな」
「はい。魔法学院の学生と」
「魔法か」
ヴァルターの眉が、わずかに動く。
「……あの一行は、どうなる」
あの一行。規則書の最後に付け足した、魔法の使用を禁じる一文だ。ヴァルターが自分から審判に願い出て、ベアトリスが書き加えた一行。この騎士にとって、あれはただの決まりではないのだろう。少しだけ迷ってから、拓海は答えた。
「わかりません。書き直すことになるかもしれません」
ヴァルターは自分の右の拳を、一度だけ握って開いた。
「規則が変わっても、腕は嘘をつかん。……それを忘れるな、イッチ」
「はい」
「春に、王都で会う。閣下のお供でな。閣下は、ハーケンの組が王の御前に立つのを見届けたいと仰せだ。……腕が嘘をつかんかどうか、そこで確かめさせてもらう」
それ以上は何も言わずに、ヴァルターは背を向けた。
馬車が動き出す。幌の隙間から遠ざかる城下の町並みを眺めていると、城の裏の練兵場から、かん、かん、と球を打つ乾いた音が冬の空に響いてきた。
* * *
王都までの十日間は、峠越えだった。一日目と二日目はまだ平らな道だったが、三日目に山へ入ると、道は細く、雪は深くなる。馬車は何度も立ち往生し、そのたびに御者と若い兵士が車輪の下の雪をかいて、拓海も素手で手伝った。ずっとつけていた毛糸の手袋は、汚さないよう大事にしまって。
夜は峠の宿場に泊まる。どの宿も狭く、客は暖炉の前で肩を寄せ合って眠った。拓海の外套の下から覗くレプリカユニフォームを見て、どこの騎士団の紋章かと聞いてきたのは、巡礼の老婆だ。少し考えてから、拓海は答えた。
「遠い国の、いちばん好きな騎士団です。……よう負けるけど」
「それはいい騎士団だね」と、老婆は笑った。
「よう負けるのに?」と拓海が聞くと、老婆は笑顔を崩さないまま、言葉では何も答えなかった。
その夜、拓海は暖炉の明かりでエミールの帳面を開いた。ポテトーズの十八人の名前が、一人一頁ずつ並んでいる。打球の向きを示す細い線は、どの頁でも左へ、左へと伸びていた。ボルグの線は太く長く、ヨーゼフの線は短く、ミーナの線は三塁線の近くに固まっている。右へ伸びる線は少なく、ゴルドの二本と、四回と七回に騎士団が流した四本くらいのものだ。
――みんな、右で打つ。
最後の頁の一行を、指でなぞる。
考えてみれば、当たり前だった。最初に教えたとき、拓海は右で打つ自分の打ち方を見せたのだから、全員が右で打つに決まっている。左で打つ者もいる、と話したことはあっても、誰にも勧めなかったし、左利きの者がいたかどうかさえ確かめていない。守備を左へ寄せたあのシフトがうまくいったのも、全員が右で打つ世界の、最初のうちだけの話だったのだ。
帳面を閉じて、暖炉の火を見つめる。誰がどちらの手で、どちらで打つのがいちばん自然なのか。王都では最初からちゃんと見ようと、拓海は決めた。
電池を節約するため、スレは夜に一度だけ開くことにしている。
『1:異世界イッチ:【実況】ワイ、乗合馬車で王都に向かう 三日目』
『2:風吹けば名無し:きたか』
『3:風吹けば名無し:ゲームの馬車移動みたいやな』
『4:風吹けば名無し:同乗者の情報はよ』
『5:異世界イッチ:毛皮商人の夫婦と、兵士と、巡礼のばあちゃんと、学生二人 学生は魔法学院の子らしい』
『6:風吹けば名無し:ファッ!? そいつら教え子やないか?』
『7:風吹けば名無し:どんな子らや』
『8:異世界イッチ:ずっと本読んどる 馬車が揺れても読んどる 一回も外見てへん』
『9:風吹けば名無し:運動不足の片鱗見えてて草』
『10:風吹けば名無し:学院長の言うとった通りやんけ』
五日目の宿で、拓海は同じ馬車の兵士に、荷物から突き出た長い棒は何かと聞かれた。
「野球の道具です。ハーケンっちゅう町のほうの遊びで」
隅で本を読んでいた学生の二人が、そろって顔を上げる。態度ががらりと変わったのはそこからで、一人が恐る恐る聞いてきた。
「……あの、学院長が呼んだ、辺境の遊戯の先生というのは、あなたですか」
「先生ちゃうけど。まあ、そうです」
「僕たち、その遊戯に出ないといけないんですか」
心底おびえた顔の学生の隣で、もう一人は本で顔を隠している。
「足を、使うんですよね。走ったり、するんですよね」
「……走ります」
質問した学生まで、本で顔を隠してしまった。
『24:異世界イッチ:【悲報】教え子、走ると聞いておびえる』
『25:風吹けば名無し:先が思いやられて草』
『26:風吹けば名無し:イッチ、首席のお嬢様とかおらんのか 魔法学院にはおるやろ普通』
『27:風吹けば名無し:>>26 ラノベの読みすぎや』
* * *
十日目の昼、峠を越えた。最後の坂を上りきったところで馬車が止まり、御者が幌の中へ声をかけた。
「王都が見えるぞ。初めての客は、降りて見ときな」
馬車を降りた拓海は、まだ誰も踏んでいない雪に足を取られながら、崖の縁まで歩いた。
眼下に、広い盆地が開けていた。雪をかぶった畑と森のあいだを、大きな川がゆったりと蛇行している。そのほとりに町があった。いや、町という言葉では足りない。ハーケンがいくつ入るのか見当もつかないほどの灰色の石の家並みが、波のように重なって盆地の半分を埋めつくしていた。
真ん中に、白い城。いくつもの尖塔が、冬の青空を突き刺している。
その城から少し離れた丘の上に、もう一つ奇妙な形の建物があった。黒っぽい石の塔が何本も、ねじれるように空へ伸びている。塔と塔のあいだに、何かが浮かんでいた。昼間なのに、ぼんやりと光る球のようなものが、いくつも。
「……魔法学院です」
いつのまにか学生の一人が隣に立って、本を胸に抱えていた。
「あの光は、灯り玉。夜になると、王都じゅうから見えるんです。学院は、王都でいちばん高い場所にあるから」
ねじれた塔のあいだでゆらゆらと揺れる光の球から、拓海は目を離せなかった。
ポケットの中のスマホを握る。左手にはめたままの、ゴルドのグローブを握る。最後に、空っぽになったズボンのポケットに指を入れた。五百円玉はもう、そこにはない。
『82:異世界イッチ:王都、見えた』
送信した。画面の向こうで、名前も知らない連中が一斉に騒ぎ始める。




