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【毎日更新】異世界J民〜やきうのおにいさんは、異世界でも野球観戦したいンゴ〜  作者: みどり葉
《第2章》【悲報】ワイ、魔法学院の監督になってしまう〜
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16/23

第14話 とっておいた名前

 翌朝、拓海はいつもより早く目を覚ました。小窓の外はまだ灰色に沈んでいて、眠ったという気はほとんどしない。はしごを下りると、竈にはもう火が入っていたが、ブルーノの姿はなかった。裏口の戸が、指一本ぶんだけ開いている。


 裏庭の雪には、ゆうべ見たのと同じ大きさの新しい足跡が一筋、表の通りのほうへ延びていた。外套を引っかけて、拓海はそのあとを追う。


 まだ誰も踏んでいない通りに、ひとりぶんの足跡だけが点々と続いている。パン屋の前を過ぎ、広場を横切って、足跡は通りのはずれへ向かっていた。行き先なら、考えなくてもわかる。


 ゴルドの鍛冶屋の扉は、半分開いていた。炉の火を落としたままの店の中は、屋外同様、吐く息も白くなる。冷えきった奥のほうから、どす、と鈍い音が響いてきた。


 藁の的の前に、リタが立っていた。


 いつもの前掛けではなく、厚手の上着を着こんでいる。足もとには牛革のボールが五つ。その一つを拾い上げ、マウンドの印の上に立って、リタは腕を振った。


 どす。球は炭の枠の真ん中に当たる。


「……おはよ、イッチ」


 振り返りもしないリタ。


「足跡、追いかけてきたんでしょ」

「……ゆうべのも、リタか」


 答えのかわりに、リタは次のボールを拾って投げた。どす。枠の、少し右。


「井戸のとこまで行ったんだけど」


 三つ目のボールを拾いながら、リタが続ける。


「イッチ、雪に四角と丸描いてたでしょ。本塁と、マウンド。それ見たら、なんか、声かけられなくなっちゃって」


 外套の前をかき合わせてみても、返す言葉はどこにも見つからなかった。


「行きなよ、王都」


 三つ目が飛ぶ。どす。枠の、真ん中。


「イッチ、手紙読んでるとき、どんな顔してたか知ってる? あたし、厨房の入り口から見てたよ。すっごい、観たいって顔してた。魔法使う人たちの野球、観たいって」

「……そんな顔、しとったか」

「してた。カラス落とし見たときと、同じ顔」


 四つ目を拾ったところで、リタの手が止まった。すぐには投げずに、指の形を何度も組みかえはじめる。


「あたしね、イッチがいなくても、投げられるよ。ゴルドさんがいるし、シスターがいるし、ディルクさんもいる。春になったら、辺境伯杯もある」


 そこで、声が少しだけ細くなる。


「……でも、見ててくれる人がいないのは、ちょっと、やだな」


 拓海は炉のそばの丸太に腰を下ろした。冷たい。いつもなら炉の熱が壁ごしに背中を温めてくれる場所なのに、今朝はどこにも火の気がない。


「見とるよ」


 自分でも驚くほどすぐに声が出た。


「王都からでも、見とる。リタの球が、どないなったか。名前のない球に、名前がついたか。手紙で、教えてくれ」


 ようやく振り返ったリタの鼻の頭が赤いのは、寒さのせいだけではなさそうだった。


「……手紙、書くの、下手だよ」

「シスターに手伝ってもらえ」

「それ、絶対からかわれるやつじゃん」


 笑いながら、リタは四つ目のボールを手の中で転がす。


「……それにさ。春になったら、どうせ会えるでしょ」

「御前試合か」

「うん。王様の前で、イッチのチームと」


 拓海のほうは見ないまま、リタは指の握りを確かめている。


「手紙で教えるのは、途中まで。続きは、王都で見せてあげる」

「……敵のチームの監督に、見せてええんか」

「試合でね」


 拓海は思わず吹き出した。


「ほな、春に」

「うん。春に」


 リタは四つ目のボールを、思いきり投げた。


 どす。炭の枠の、ど真ん中だった。



* * *



 その日の昼、拓海は教会の小部屋で返事を書いた。文字なら手が勝手に書いてくれる。厄介なのは、王都の偉い人に向けた言葉づかいのほうだ。なにしろ「打ちのめし続ける」の貼り紙の前科があるので、書いているあいだじゅう、ベアトリスに横から言い回しについて目を光らされていた。


 ――王立魔法学院長、ヘルミーネ殿。お招き、お受けします。ハーケンの監督、イッチ。


 短すぎるかと思ったが、それでいい、とベアトリスは目を細めた。


「学院長様は、長いお手紙がお嫌いだと、昔、司祭様から聞いたことがあります」

「司祭様、学院長と知り合いなんですか」

「お若いころ、王都で、少し」


 それ以上を、ベアトリスは語らない。手紙を丁寧に折りたたんで封をすると、教会の印を押した蝋が赤く固まった。


「これを、宿場の早馬の便に預ければ、王都まで届けてくれます。少しお高いですけれど、急ぎの手紙はみんなそうします」


 その夜、黄金のじゃがいも亭に集まった皆の前で、拓海は王都へ行くことを告げた。


 店の中が、しんと静まり返った。やがて、ゆうべとは違う種類のざわめきが広がっていく。寂しいな、と誰かが言う。王都で負けるなよ、と誰かが言う。ポテトーズはどうなる、と誰かが言う。


 カウンターの端から、ゴルドの短い声。


「……続ける」


 その一言で、ざわめきが止んだ。


『1:異世界イッチ:王都行くことにした 五日後に出発や』

『2:風吹けば名無し:決めたか』

『3:風吹けば名無し:イッチ、ようやった』

『4:風吹けば名無し:ハーケン編、完!』

『5:風吹けば名無し:>>4 言い方』

『6:風吹けば名無し:リタちゃんには言うたんか』

『7:異世界イッチ:言うたというか、背中押された』

『8:風吹けば名無し:ええ子や……』

『9:風吹けば名無し:寂しくなるな』

『10:風吹けば名無し:>>9 お前がハーケン行ったことないやろ』

『11:風吹けば名無し:行ったことなくても寂しいもんは寂しいんや』

『12:風吹けば名無し:いってらっしゃい、イッチさん』


 電池は五十八パーセント。



* * *



 出発までの五日間は、あっという間に過ぎた。


 ゴルドは鍛冶屋にこもって何かを作っていて、覗きに行くと、「来るな」の一言で追い返された。エミールは毎晩遅くまで役場で帳面を写していたが、何を写しているのか聞いても「秘密です」と突っぱねられた。リタと同じ答えだった。町長は出発の朝に読み上げる挨拶を練っては、ベアトリスに「短く」と言われて書き直し、それを少なくとも三度、繰り返しているらしい。

 ブルーノだけは何もしていないように見えた。いつものようにシチューを煮て、じゃがいもを揚げる。ただ、ある夜ふと気づくと、厨房の隅に麻の袋が一つ増えていて、中身は乾かしたじゃがいもの薄切りだった。ピアはピアで、木の皮の器を一つだけやけに念入りに巻いていた。


 出発の前の晩、拓海は屋根裏で荷物をまとめた。とはいえ、まとめるほどの量はない。この世界に来たとき着ていた贔屓の球団のレプリカユニフォームと、ジーンズ、スニーカー。それから、この世界で増えた毛織りの外套と厚手の靴下に、ゴルドが縫い直した赤い糸のボール。

 財布を開けると、千円札が二枚と小銭が少しあって、その中で五百円玉が一枚、鈍く光っていた。


 この世界に来た最初の日、黄金のじゃがいも亭のテーブルに、拓海はこれを置いた。赤茶色の髪の少女がそれを窓の光にかざして、言ったのだ。わあ、きれい。何これ、お守り?


 拓海は五百円玉を、ズボンのポケットに移した。



* * *



 出発の朝は、雲ひとつなかった。


 ハーケンの門の前にできた人だかりは、ポテトーズの十八人に、町の人たち、子どもたち。

 見送りというより、試合の日の見物席だ。辺境伯の城下までは荷馬車で半日、そこから王都行きの乗合馬車が出る。荷馬車の御者台にはボルグが陣取っていた。城下まで送っていく、と言って聞かなかったのだ。


 最初に進み出たのは町長だった。何度も書き直した挨拶の紙を、両手で広げる。


「イッチ殿。わしは、十五年前、町長になったとき――」

「時間です、町長」


 ベアトリスの静かな声に、町長は紙をじっと見つめ、くしゃりと丸めて懐に押しこんだ。


「……王都で、ハーケンの名を、上げてきてくれ」


 それだけ言って鼻をすすった町長に、見物人たちから笑いと拍手が起こる。それを合図に、次々と人が前に出た。


 杖に両手を重ねて、ヨーゼフが白いひげを揺らす。


「わしが御前試合で的を射たのは、辺境伯閣下の前じゃった。それでも膝が震えた。王の前となりゃ、膝どころか、腹の底まで震えるぞ。……震えたら、笑え。笑うと、止まる」


 ハンスは腕を組んだまま、足もとの雪をにらんでいた。たっぷり間を置いて、ようやく口を開く。


「……公平に、寂しい」


 見物人の誰かが吹き出したが、ハンスは眉ひとつ動かさない。


 双子のペーターとパウルは、粉屋の粉袋を一つずつ担いできて拓海に押しつけた。王都の粉は混ぜものが多い、と父親が言っていたらしい。あまりに重くて拓海がよろけていると、見かねたボルグが二つまとめて荷馬車へ積みこんでくれた。


 ミーナは麦わら帽子の代わりに、母親が羊の毛で編んだという冬の毛糸の帽子をかぶっていた。同じ灰色の毛糸の手袋を一組、拓海に差し出す。


「……ボールの、中の毛糸と、同じ」


 それだけ言うと、ミーナは母親のうしろに隠れてしまった。入れかわりに、ディルクが胸をどんと叩く。


「守護神は、俺に任せろ。ハーケンの最後の回は、俺が締める」


 黙って頭を下げたゴルドの徒弟の手には、新しく削ったバットが一本握られていた。白トネリコの、王都でいちばん最初のバットになるはずのものだ。


 エミールが差し出したのは、厚い帳面だった。


「この五日間で、写しました。ポテトーズの全員の、打球の記録です。豊穣祭の騎士団の分もあります。誰がどっちに打って、どこまで飛んだか。……王都の人たちの記録をつけるとき、見比べてください」

「……ええんか。春には、ワイ、向こうのチームの監督やで」

「わかってます」


 インクで黒ずんだ袖口で、エミールは鼻の頭をこする。


「イッチさんは、僕たちのことをいちばんよく知っている人です。この帳面がなくても、たぶん、全部覚えているでしょう。だったら、同じものを持っていてもらったほうが、公平です」

「……公平、か」

「それに、イッチさんに勝たないと、意味がありませんから」


 帳面を開くと、頁いっぱいに細かい点と線が並んでいた。最後の頁には、エミールの字で短く書いてある。


 ――みんな、右で打つ。


「イッチさんの国には、左で打つ人もいるって、前に言ってましたよね。王都にいたら、記録してください。見てみたいです」


 ベアトリスからは、規則書の写しがもう一冊。表紙には、丁寧な字で『野球規則 写し』とあった。


「最後の頁の一行のあとを、空けてあります」


 最後の頁を開く。試合のあいだ、選手は、いかなる魔法も用いてはならない。その下が何行ぶんも、白いままだった。


「王都の規則は、王都で遊ぶ人たちと、書いてください。……書けたら、写しを一冊、送ってくださいね。審判は、規則を知らなければ、立てませんから」


 ブルーノは麻の袋を黙って荷馬車に積みこみ、前掛けで手を拭いた。


「……王都の芋は、まずい」


 それだけだった。


 ピアは念入りに巻いた木の皮の器を、両手で差し出した。中で、揚げたてのじゃがいもが湯気を立てている。


「道中のぶんっす。……あと、監督。あたし、いつか王都で売り子やるっす。でっかい球場で、樽背負って。絶対っす」

「……待っとる」


 ピアはにっと笑って、樽を背負うまねをしてみせる。


 最後に前へ出たのは、ゴルドだった。分厚い手に、何かを握っている。差し出されたのは革の手袋で、ゴルドが使っている捕手の手袋よりひと回り小さく、親指と人差し指のあいだに革の網が張ってあった。拓海がいつか地面に描いて説明した、グローブの形だ。


「……五日、かかった」


 手を入れると、吸いつくようにぴったりだった。最初の手袋を作ったときの寸法を、ゴルドは覚えていたらしい。


「受けろ。……教えるなら、自分で受けろ」


 それだけ言って、ゴルドはのそりとうしろへ下がった。



* * *



 リタは、人だかりのいちばん外側にいた。前掛けをつけたまま腕を組んで、門の柱にもたれている。拓海が近づくと、その背中が柱から離れた。


「みんな、いろいろくれたね」

「……くれすぎや。荷馬車、ボルグさんが重いって言うとる」

「あたしは、何もないよ」


 肩をすくめるリタ。


「投げる球しか、持ってないもん」


 ポケットに手を入れると、指先に硬くて丸いものが触れた。


「リタ。手、出して」


 首をかしげながら差し出された右の手のひらに、拓海は五百円玉を置いた。朝日を受けて、金色の硬貨がきらりと光る。


「……これ」

「最初の日、リタが言うたやろ。お守り? って」


 手のひらの五百円玉を見下ろして、リタはゆっくりと指を閉じていく。


「お金なんは、ほんまやで。ワイの国の。……でも、この世界やと、何も買えへん。せやから、お守りや」


 握った拳を、リタはじっと見つめている。門の前のざわめきが、ふいに遠くなった気がした。


「……とっておく」


 小さな声だった。いつかの帰り道と、同じ言葉だ。


 リタが顔を上げる。赤茶色の髪が朝日に透けて、まっすぐな目が拓海をとらえた。


「たくみ」


 拓海は息を止めた。


 この世界でリタがその名前を口にしたのは、二度目だった。一度目は、名前を教えた夕暮れの帰り道。確かめるように、一音ずつ。そのあと、リタは言った。たくみって呼ぶのは、なんか、もったいない気がする。……でも、とっておく。


 とっておいた名前を、リタは今、呼んだのだ。


「いってらっしゃい、たくみ」


 リタは笑っていた。目の端が少しだけ光っている。それでも、笑っていた。


「……いってきます」


 自分の声が、ひどくかすれて聞こえた。


「向こうに着いたら、手紙ちょうだいね。あたしも書くから。下手だけど」

「シスターに手伝ってもらえ」

「だから、それ絶対からかわれるって」


 リタは拓海の背中を、両手でどんと押した。荷馬車のほうへ。


「ほら、行きな! ボルグさん、待ってるよ!」



* * *



 荷馬車が門を出た。


 荷台のうしろに座って遠ざかる門を見ていると、手を振る人だかりから子どもたちが飛び出して、雪の道を荷馬車のあとから駆けてくるのが見えた。いちばん前はミーナだ。速い。荷馬車に追いつきそうなくらい、速い。


 門の前で、誰かが歌い始めた。羊を呼ぶ節に乗せて、ハーケン、ハーケン、黄金の芋よ。かっ飛ばせ、走れ、帰ってこい。帰ってこい、のところで、声がいちばん大きくなる。


 ポケットの中で、スマホが震えた。取り出すと、電池が歓声に合わせて増えていく。五十八、六十五、七十、七十六。


 門の柱のそばに、前掛けの赤茶色の髪がまだ立っていた。手は振っていない。右手を胸の前で、ぎゅっと握りしめている。


 やがて道が曲がり、ハーケンの門は雪の丘の向こうに隠れた。御者台のボルグが、振り返らずにぼそりと言った。


「……泣いてもいいぞ。俺は前しか見とらん」


 返事のかわりに、ミーナがくれた灰色の手袋に顔をうずめる。羊の毛の匂いがした。



* * *



 辺境伯の城下では、乗合馬車が拓海を待っていた。四頭立ての、幌(ほろ)のかかった大きな馬車だ。客は拓海のほかに六人。王都へ商いに行く毛皮商人の夫婦と、里帰りする若い兵士、巡礼の老婆、それに厚い本を抱えた学生らしい若い男が二人。

 そして馬車の脇には、紺色の外套の騎士が立っていた。


「……ヴァルターさん」

「城下を通ると、聞いた」


 それだけ言って、ヴァルターは拓海の荷物に目をやった。粉袋。麻の袋。新しいバット。規則書の束。それから、拓海の左手の新しいグローブ。


「王都の組を作るそうだな」

「はい。魔法学院の学生と」

「魔法か」


 ヴァルターの眉が、わずかに動く。


「……あの一行は、どうなる」


 あの一行。規則書の最後に付け足した、魔法の使用を禁じる一文だ。ヴァルターが自分から審判に願い出て、ベアトリスが書き加えた一行。この騎士にとって、あれはただの決まりではないのだろう。少しだけ迷ってから、拓海は答えた。


「わかりません。書き直すことになるかもしれません」


 ヴァルターは自分の右の拳を、一度だけ握って開いた。


「規則が変わっても、腕は嘘をつかん。……それを忘れるな、イッチ」

「はい」

「春に、王都で会う。閣下のお供でな。閣下は、ハーケンの組が王の御前に立つのを見届けたいと仰せだ。……腕が嘘をつかんかどうか、そこで確かめさせてもらう」


 それ以上は何も言わずに、ヴァルターは背を向けた。


 馬車が動き出す。幌の隙間から遠ざかる城下の町並みを眺めていると、城の裏の練兵場から、かん、かん、と球を打つ乾いた音が冬の空に響いてきた。



* * *



 王都までの十日間は、峠越えだった。一日目と二日目はまだ平らな道だったが、三日目に山へ入ると、道は細く、雪は深くなる。馬車は何度も立ち往生し、そのたびに御者と若い兵士が車輪の下の雪をかいて、拓海も素手で手伝った。ずっとつけていた毛糸の手袋は、汚さないよう大事にしまって。


 夜は峠の宿場に泊まる。どの宿も狭く、客は暖炉の前で肩を寄せ合って眠った。拓海の外套の下から覗くレプリカユニフォームを見て、どこの騎士団の紋章かと聞いてきたのは、巡礼の老婆だ。少し考えてから、拓海は答えた。


「遠い国の、いちばん好きな騎士団です。……よう負けるけど」


「それはいい騎士団だね」と、老婆は笑った。


「よう負けるのに?」と拓海が聞くと、老婆は笑顔を崩さないまま、言葉では何も答えなかった。


 その夜、拓海は暖炉の明かりでエミールの帳面を開いた。ポテトーズの十八人の名前が、一人一頁ずつ並んでいる。打球の向きを示す細い線は、どの頁でも左へ、左へと伸びていた。ボルグの線は太く長く、ヨーゼフの線は短く、ミーナの線は三塁線の近くに固まっている。右へ伸びる線は少なく、ゴルドの二本と、四回と七回に騎士団が流した四本くらいのものだ。


 ――みんな、右で打つ。


 最後の頁の一行を、指でなぞる。


 考えてみれば、当たり前だった。最初に教えたとき、拓海は右で打つ自分の打ち方を見せたのだから、全員が右で打つに決まっている。左で打つ者もいる、と話したことはあっても、誰にも勧めなかったし、左利きの者がいたかどうかさえ確かめていない。守備を左へ寄せたあのシフトがうまくいったのも、全員が右で打つ世界の、最初のうちだけの話だったのだ。


 帳面を閉じて、暖炉の火を見つめる。誰がどちらの手で、どちらで打つのがいちばん自然なのか。王都では最初からちゃんと見ようと、拓海は決めた。

 電池を節約するため、スレは夜に一度だけ開くことにしている。


『1:異世界イッチ:【実況】ワイ、乗合馬車で王都に向かう 三日目』

『2:風吹けば名無し:きたか』

『3:風吹けば名無し:ゲームの馬車移動みたいやな』

『4:風吹けば名無し:同乗者の情報はよ』

『5:異世界イッチ:毛皮商人の夫婦と、兵士と、巡礼のばあちゃんと、学生二人 学生は魔法学院の子らしい』

『6:風吹けば名無し:ファッ!? そいつら教え子やないか?』

『7:風吹けば名無し:どんな子らや』

『8:異世界イッチ:ずっと本読んどる 馬車が揺れても読んどる 一回も外見てへん』

『9:風吹けば名無し:運動不足の片鱗見えてて草』

『10:風吹けば名無し:学院長の言うとった通りやんけ』


 五日目の宿で、拓海は同じ馬車の兵士に、荷物から突き出た長い棒は何かと聞かれた。


「野球の道具です。ハーケンっちゅう町のほうの遊びで」


 隅で本を読んでいた学生の二人が、そろって顔を上げる。態度ががらりと変わったのはそこからで、一人が恐る恐る聞いてきた。


「……あの、学院長が呼んだ、辺境の遊戯の先生というのは、あなたですか」

「先生ちゃうけど。まあ、そうです」

「僕たち、その遊戯に出ないといけないんですか」


 心底おびえた顔の学生の隣で、もう一人は本で顔を隠している。


「足を、使うんですよね。走ったり、するんですよね」

「……走ります」


 質問した学生まで、本で顔を隠してしまった。


『24:異世界イッチ:【悲報】教え子、走ると聞いておびえる』

『25:風吹けば名無し:先が思いやられて草』

『26:風吹けば名無し:イッチ、首席のお嬢様とかおらんのか 魔法学院にはおるやろ普通』

『27:風吹けば名無し:>>26 ラノベの読みすぎや』



* * *



 十日目の昼、峠を越えた。最後の坂を上りきったところで馬車が止まり、御者が幌の中へ声をかけた。


「王都が見えるぞ。初めての客は、降りて見ときな」


 馬車を降りた拓海は、まだ誰も踏んでいない雪に足を取られながら、崖の縁まで歩いた。


 眼下に、広い盆地が開けていた。雪をかぶった畑と森のあいだを、大きな川がゆったりと蛇行している。そのほとりに町があった。いや、町という言葉では足りない。ハーケンがいくつ入るのか見当もつかないほどの灰色の石の家並みが、波のように重なって盆地の半分を埋めつくしていた。


 真ん中に、白い城。いくつもの尖塔が、冬の青空を突き刺している。


 その城から少し離れた丘の上に、もう一つ奇妙な形の建物があった。黒っぽい石の塔が何本も、ねじれるように空へ伸びている。塔と塔のあいだに、何かが浮かんでいた。昼間なのに、ぼんやりと光る球のようなものが、いくつも。


「……魔法学院です」


 いつのまにか学生の一人が隣に立って、本を胸に抱えていた。


「あの光は、灯(あか)り玉。夜になると、王都じゅうから見えるんです。学院は、王都でいちばん高い場所にあるから」


 ねじれた塔のあいだでゆらゆらと揺れる光の球から、拓海は目を離せなかった。


 ポケットの中のスマホを握る。左手にはめたままの、ゴルドのグローブを握る。最後に、空っぽになったズボンのポケットに指を入れた。五百円玉はもう、そこにはない。


『82:異世界イッチ:王都、見えた』


 送信した。画面の向こうで、名前も知らない連中が一斉に騒ぎ始める。


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