第13話 初雪と二通目の手紙
目を覚ますと、屋根裏の小窓が白く曇っていた。毛布を二枚重ねていても足の先だけはどうにも冷たく、吐く息まで白い。拓海は藁の布団の中で、膝を抱えるように身を縮めた。
この世界に来たのは夏だ。こっちにも冬が来るという当たり前のことが、すっかり頭から抜けていた。布団から腕だけ伸ばして小窓の曇りをぬぐうと、手のひらが冷たく濡れた。
外が、白い。
黄金のじゃがいも亭の向かいの屋根も、通りの石畳も、塀の向こうの畑も薄い雪をかぶり、灰色の空からは細かい雪がまだ音もなく降りてきていた。
「……初雪や」
呟いて、枕もとのスマホを手に取る。電池は六十四パーセント。
豊穣祭が終わってひと月、あれから試合は一度もない。畑の取り入れが済むと、町の人たちは薪割りや塩漬けの冬支度に追われて、空き地に集まる余裕などなくなった。歓声のない日が続くたびに電池の数字は少しずつ痩せていったが、それでもゼロにはならなかった。毎日どこかに、小さな楽しいことが転がっていたからだ。
『1:異世界イッチ:【朗報】異世界、雪が降る』
送信すると、待っていたようにレスがつく。
『2:風吹けば名無し:そらそうやろ』
『3:風吹けば名無し:異世界にも四季はあるんやな』
『4:風吹けば名無し:オフシーズン突入か』
『5:風吹けば名無し:ストーブリーグ※¹の季節やな』
『6:風吹けば名無し:>>5 この世界ストーブあるんか』
拓海は小さく吹き出した。ストーブはないけど、竈ならあるで。気合で毛布をはねのけて、はしごに足と手をかける。
* * *
朝の厨房は、別の季節みたいに暖かい。大鍋の下で火が赤々と燃え、肉と根菜の匂いが湯気といっしょに天井へのぼっていく。ブルーノの冬のシチューは夏よりも肉が多く、塩漬けにしておいた豚の脂身が、親指ほどの厚さに切って放りこんである。
「……起きたか」
「おはようございます。外、雪です」
「……知ってる」
鍋をかき回す手は止めないまま、ブルーノが顎で裏口を示した。戸を開けたとたん、冷たい空気が頬を刺す。真っ白な裏庭の、井戸の小さな屋根にも、洗濯物を干す縄の上にも、雪が細い線になって積もっている。その真ん中で、リタが雪かきの木の板を剣みたいに振り回していた。
「イッチ、遅い! 手伝って!」
赤茶色の髪に雪のかけらがいくつも乗って、鼻の頭は真っ赤だ。豊穣祭ですりむけた指は、もうすっかり治っていた。
壁に立てかけてあったもう一枚の板をつかんで、二人で裏口から井戸までの道を作っていく。雪質は軽く、板を差しこむとさくさくと音を立てて崩れた。
「ねえ、イッチ」
「なんや」
「雪が積もったら、投げる練習、どこでしよっか」
板を動かす手は止めないまま、リタが続ける。
「裏庭は、雪で足が滑るし。空き地は、もっと積もるし」
「……冬のあいだくらい、休んでもええんちゃうか」
「やだ」
即答だった。
「まだ名前のない球、春までに投げられるようにするって決めたもん」
思わず拓海の板が止まった。リタは雪をすくった板を高く放り上げ、舞い上がった白い粉が薄日を受けてきらきらと光るのを、目を細めて眺めている。
「ゴルドさんに頼んでみるか。鍛冶屋の奥、冬でもあったかいやろ」
「それ、いい!」
言い終わるより早く、リタは板を放り出して店の表へ駆けだしていた。
「待て、まだ道半分やぞ!」
返事はなく、遠ざかる足音もすぐに聞こえなくなった。拓海は白い息をひとつ吐くと、残りの道をひとりでかいていく。厨房の窓の向こうでは、ブルーノの大きな影が鍋をかき回しながら、ときどきこちらを向いていた。
* * *
雪の町で、ゴルドの鍛冶屋だけは冬を知らない。炉の火を落とさない日は、扉を開け放していても額に汗がにじむ。
金床に槌を置いたまま最後までリタの話を聞き終えると、ゴルドは煤けた指で店の奥の戸を指した。戸の向こうは炉の壁に寄せて建てた細長い小屋で、冬のあいだの薪がぎっしりと積んであった。炉の熱が石の壁を伝ってくるのか、小屋の中までほんのりと暖かい。
「……片づける。明日、来い」
次の朝には薪の山が壁際に寄せられて、空いた奥に藁の束を重ねた的が据えてあった。真ん中には炭で描いた四角い枠。床には、マウンドからの距離を測った印が刻まれている。
「……ゴルドさん、これ、本塁から十八メートルと少しやないですか」
「……測った」
それきりゴルドは背を向けて、金床の前に戻っていった。その日から毎朝、店の仕込みが終わると、リタは鍛冶屋の奥で投げるようになり、拓海も仕込みの手伝いを早めに切り上げてあとを追った。藁の的に、ボールが当たる。どす、どす、と鈍い音が、表から聞こえるゴルドの槌の音と交互に響いた。
カラス落としとも、じゃがいもとも違う球にしたいというリタの「まだ名前のない球」は、まだ形になっていない。どんな球なのか拓海が聞いても、返ってくるのは「秘密」の一言だけだった。
「イッチが当てたら、教えてあげる」
「当てるも何も、見とるだけやんけ」
「だから、見て当てて」
リタがまた的に向かって腕を振る。球は炭の枠を少しだけ外れて藁にめりこみ、リタは首をかしげて、指の握りを何度も組み直していた。
炉のそばの丸太に腰かけてそれを眺めていると、炉の熱で背中がぬくい。ポケットの中では、スマホの電池が一パーセントだけ増えていた。
ある朝、ゴルドが槌を置いて小屋の戸口に立ち、珍しく自分から口を開いた。
「……あの娘、肩の使い方が変わった」
「変わりました?」
「秋より、腕じゃなく、体で投げてる。……お前が、いちばん近くで見てたからだ」
言うだけ言うと、ゴルドは表へ戻ってまた槌を取った。かん、と鉄が鳴る。返す言葉を探しているうちに、拓海の頬だけが炉の火に当たったように熱くなっていた。
* * *
話し合いの日の朝、拓海は教会に寄った。礼拝堂の奥の小部屋は、外と変わらないほど冷えきっている。机に背中を丸めて羽根ペンを走らせるベアトリスは、修道服の上に厚い毛織りの肩掛けを二重に巻いて、それでも肩を小さく縮こませていた。
机の上に三つ積まれた紙の束は、豊穣祭のとき隣町の若者たちと約束した規則書の写しだ。リーグの話が持ち上がってから、その配り先は隣町だけではなくなっていた。
「おはようございます、イッチさん。……あと少しで、三冊目が終わります」
ペンを置いて、ベアトリスは赤くなった指先に息を吹きかける。インク壺の縁には、薄い氷が張りかけている。
「寒すぎるやろ、ここ」
「乾燥していますから、火を焚くと、火の粉が紙に飛ぶのが怖いのです。……それに、写しているあいだ、寒さは忘れられます」
写しかけの束が拓海のほうへ向けられる。最後の頁に、あの一行があった。試合のあいだ、選手は、いかなる魔法も用いてはならない。
「今日の話し合いに、持っていっていただけますか。ケルンの町と、ブランの村と、城下の分です。……同じ規則で戦わなければ、それは、同じ遊戯ではありませんから」
受け取った三冊は、ベアトリスの指と同じくらい冷たく、腕にずしりと重かった。
「シスター。もしも、魔法を使う人ばっかりのところで野球やるとしたら、この最後の一行、どうなると思います?」
肩掛けの端を指でつまんで、ベアトリスは少し考えた。
「……わかりません。でも、規則は、その場所で遊ぶ人たちのためにあるものです。場所が変われば、きっと、書き直す人が要るのでしょうね」
そのときは、ただの雑談のつもりだった。
* * *
初雪から五日後の昼、町役場の二階に人が集まった。古い帳簿が壁一面に並んだ町長室は、乾いた紙とインクの匂いが、鼻の奥にこもるようだった。
真ん中の長い机を囲むのは、知らない顔ばかりだった。隣町ケルンの町長。山の向こうのブラン村の村長。辺境伯の城下の、商人組合の世話役。そして辺境伯の城から遣わされた騎士が一人。ヴァルターではなく、豊穣祭の日に一塁側の柵の前で整列していた口ひげの騎士だった。辺境伯が作らせると言った「リーグ」の、これが最初の話し合いになる。
拓海はまず、ベアトリスから預かった三冊の写しを配った。ケルンの町長は分厚い紙の束をめくって目を丸くし、ブラン村の村長は字が読めないのだと小声で打ち明けて隣の若い衆に読んでもらうことにした。城下の分は、騎士と商人組合の世話役のあいだに置く。世話役は最後の頁まで一気にめくって、ふうん、と鼻を鳴らした。騎士はその頁に書かれた文字を指でなぞりながら読み進めていたが、件の魔法の一行の上で、その指を止めた。
「では、始めよう」
オットー町長が咳払いをして、指輪のない太い指で机の上の羊皮紙を広げる。その横でエミールが帳面を開き、拓海は町長のうしろの椅子に座らされていた。異邦の監督殿、として。
そして話し合いは、最初から揉めた。
「春に雪が解けたら、すぐ試合を始めたい」
身を乗り出したのは、ケルンの町長だ。
「畑の種まきが終わるまでは、無理だ」
ブラン村の村長が首を振る。
「一つの町に、組をいくつ作ってよいのか」
「試合はどこでやる。毎度ハーケンまで来いと言うのか」
「揚げじゃがいもの屋台は、ハーケンだけの特権なのか」
最後の一つは、商人組合の世話役。町長の眉が、ぴくりと上がった。
「騎士団も、組を一つ出す。閣下のお言いつけだ」
騎士の短い一言に、ケルンの町長が目をむいた。
「騎士様と、うちの若い衆が、同じ土の上で?」
「同じ規則で、だ」
騎士は写しの最後の頁を、指で軽く叩いた。拓海は自分の世界の野球の決まりを思い出しながら、ひとつずつ答えていった。ホームとアウェー。試合の数を揃えること。勝ち負けの数え方。総当たり。雨の日の延期。拓海が言葉を選んで説明し、エミールが帳面に書き取り、町長が読み上げては、また揉める。その繰り返しだ。ひと休みになったところで、拓海はこっそりスマホを開いた。
『54:異世界イッチ:リーグの会議なう 揉めすぎてワイの国の会議と変わらん』
『55:風吹けば名無し:オーナー会議で草』
『56:風吹けば名無し:異世界にも球界のドンおるんか』
『57:風吹けば名無し:ホームアンドアウェーは大事やで 移動がしんどいなら地区で分けえ』
『58:風吹けば名無し:>>57 有能』
『59:風吹けば名無し:リーグの名前はまだか? 安価でええぞ』
『60:風吹けば名無し:>>59 前のスレでも言うとったなお前』
五十七番の書き込みを、拓海はそのまま話し合いに持ちこんだ。北と南に分けて、近い町同士で多く戦う。遠い町とは、季節に一度だけ。
ケルンの町長がうなり、ブラン村の村長がひげをなでる。商人組合の世話役は、もうすばやく指を折って何かを数えはじめていた。
「……それなら、旅の費用が半分で済む」
「試合の日には、町に人が来る。宿屋が儲かる」
どさくさにまぎれて、世話役がもう一度口をはさむ。
「揚げじゃがいもは、ハーケンだけの特権ではないということでよろしいか」
「よろしくない」
町長の即答に、部屋じゅうが笑った。
日が傾くころ、羊皮紙の上にようやく決まりごとが並んだ。北の組と南の組。雪解けのあと、二つの月がそろって満ちる最初の夜の、その翌日に始める。賭けはどこの町でも一切しない。
最後の賭けの一件については、辺境伯様のお達しであると一言添えただけで、騎士以外の全員が神妙な顔で頷きあっていた。ここだけは、毛ほども揉めなかった。
最後に名前の話になると、部屋じゅうの目がいっせいにこちらへ集まってきて、拓海は頭をかいた。
「ワイの国の決まりやと、こういうのは、みんなで札を引いて決めます」
安価、とは言えなかった。
エミールが紙を小さく切って全員に配り、それぞれが名前を書いて木の箱に落とす。町長が目をつぶって、一枚を引く。
「……『辺境伯杯』」
書いたのはケルンの町長で、いちばん無難な名前だ。自分の書いた『じゃがいも杯』が引かれなかった町長は、目に見えて肩を落としていた。
『71:異世界イッチ:辺境伯杯に決まった 町長は「じゃがいも杯」て書いとったけど、引かれんかった』
『72:風吹けば名無し:無難でええやん』
『73:風吹けば名無し:安価やったら絶対じゃがいも杯やったのに』
『74:風吹けば名無し:>>73 町長と同じ発想で草』
* * *
二通目の手紙が届いたのは、その日の夜だった。
黄金のじゃがいも亭は、いつものように混んでいた。畑仕事のない冬の男たちは夕方から店に集まって、シチューと麦の酒で長い夜をやり過ごすのだ。湯気で白く曇った窓のあいだを、ピアが空いた器を両手いっぱいに抱えて跳ねるように行き来していた。
あれからすっかり物販の喜びに染まってしまった少女は、もはやこの店第二の看板娘だ。拓海の、現代日本人の感覚では幼いとさえ言える娘が大人さながらに働いている光景は、なんとも言葉では言い表せない微笑ましさすらある。
「監督、三番の卓、黒パン追加っす!」
「はいよ」
拓海が厨房から黒パンを運んできたとき、店の窓がこつこつと鳴った。それに気づいた何人かの客が、窓のほうを見て眉をひそめた。
「……鳥か?」
窓の外に、白い鳥が一羽浮かんでいる。羽ばたきもせず、雪の舞う夜の中にただ、ふわりと。近づいてよく見ると、それは鳥の形に折られた一枚の紙だった。
窓を開けると、冷たい風といっしょに紙の鳥がするりと店の中へ入ってきた。客たちがざわめいて身を引くなか、鳥はテーブルの上を一度だけ大きく旋回して、拓海の目の前でぴたりと止まる。そしてひとりでにぱらりと開き、一枚の手紙になって、拓海の手のひらにふわりと落ちた。
しんとなった店の中で、シチューの湯気だけが何ごともなかったように天井へのぼっていく。
「……魔法だ」
誰かのかすれた声。ヨーゼフはジョッキを口もとまで運んだところで、固まっている。
「王都の、魔導師の文だ。わしも、若いころに一度だけ見たことがある」
手のひらの紙は少し厚い上質なもので、なめらかな手触りをしていた。濃い青色のインクで綴られた文字のいちばん上に、大きく勢いのある字で、差出人の名前が記されていた。
――王立魔法学院長、ヘルミーネ。
拓海は声に出して読み上げた。読み上げるしかない。店じゅうの客が、息をひそめてこちらを見ている。
「辺境の監督殿へ。先日、王より、春の御前試合の旨、お聞き及びのことと思う。ついては、王のお考えを伝える。王はその遊戯を、辺境のものだけにしておくおつもりはない。王都の者にもやらせよ、とのことだ」
そこで一度、息を継いだ。
「そこでその役を、わが学院が仰せつかった。理由は簡単である。王都でいちばん暇で、いちばん足腰の弱い若者どもが、わが学院におるからだ」
店の中に、くすくすと笑い声が漏れる。
「わが学院の学生どもは、杖ばかり振って、階段ひとつ自分の足で上らぬ。嘆かわしいことである。ついては、監督殿に、この冬のうちに王都へお越しいただき、学生どもに遊戯を教え、春の御前試合に出る王都の組を作っていただきたい」
読む声が、少しだけかすれた。
「峠の雪が深くなる前に、辺境伯の城下を発つ乗合馬車がある。十日のうちに、お返事を。――追伸。断っても構わぬ。だが、この婆は、断られるのが大嫌いである」
読み終えても誰も口を開かず、厨房の竈で薪がぱちりと爆ぜる音だけが響いた。
一拍おいて、ざわめきがどっと戻ってきた。王都だと。魔法学院だと。イッチが王都のチームを。誰かが拓海の背中を叩き、誰かが乾杯の声を上げる。町長がまだ店にいないのが不思議なくらいの騒ぎだった。
空の器を抱えたまま、ピアが拓海の袖を引っぱる。
「監督、王都行くんすか!? 王都って、売り子いるんすか!?」
「……わからん。まだ、決めてへん」
握りしめたままの手紙の端が、手のひらの汗でしわになっていく。
店の奥、厨房の入り口に、リタが立っていた。前掛けをつけたまま、木の皿を胸の前に抱えて、こちらを見ている。目が合うと、リタはくるりと背を向けて、厨房の奥へ引っこんでいった。
* * *
店が閉まると、拓海はいつものように厨房で皿を洗った。ぬるま湯の桶と、井戸水の桶。灰の水を含ませた藁束で、木の皿をこする。この世界に来た最初の日から、毎晩やってきた仕事だ。井戸水が冷たすぎて指先はとうに感覚をなくし、何度か皿を取り落としそうになった。
ブルーノは大鍋の火の始末をしていて、リタの姿はもうどこにもない。水の音と薪の爆ぜる音だけが、長いこと続いていく。
「……王都の芋は、まずいらしい」
ぼそりと、ブルーノ。
「……え」
「行商人が言ってた。水っぽくて、揚げると崩れる」
それだけ言うと、ブルーノはまた火かき棒で灰をならしはじめた。行け、とも、行くな、とも言わない大きな背中を、拓海は濡れた皿を持ったまま見ていた。
「……リタは」
ブルーノの手が、止まった。
「お前が来てから、よく笑う。……前とは、違う笑い方だ」
火かき棒が灰の中で、かつん、と鳴った。ブルーノはそれ以上何も言わずに裏口の戸締まりを確かめ、奥の部屋へ引き上げていった。
拓海は最後の一枚の皿を、ゆっくりと拭いた。
* * *
その夜、拓海は屋根裏でスレを立てた。
『1:異世界イッチ:王都の魔法学院から、冬のうちに来て王都のチーム作ってくれって頼まれた』
『2:風吹けば名無し:ファッ!?』
『3:風吹けば名無し:イッチ出世街道まっしぐらやんけ』
『4:風吹けば名無し:やっぱ魔法学院とかあるんやな』
『5:異世界イッチ:手紙くれたんは学院長のばあちゃんや 自分で「この婆」て書いとる 学生が杖ばっか振って、階段も自分の足で上らんらしい 返事は十日以内やって』
『6:風吹けば名無し:運動不足の集まりで草』
『7:風吹けば名無し:>>6 魔法で空飛ぶんかな?』
『8:風吹けば名無し:行けや チャンスやろ』
『9:風吹けば名無し:待て 王都のチームって、春の御前試合の相手ってことやろ?』
『10:風吹けば名無し:>>9 ほな相手ポテトーズやんけ』
十番の書き込みに、指が止まる。
『11:異世界イッチ:せや 御前試合に出るチームを作ってほしいっていう感じ ポテトーズは置いていくことになるし、春に会うときは敵や』
『12:風吹けば名無し:あー……』
『13:風吹けば名無し:自分のチーム倒すチーム作りに行くんか』
『14:風吹けば名無し:リタちゃんどうするんや』
『15:風吹けば名無し:>>14 それな』
レスが、少しのあいだ止まる。やがて、また流れはじめた。
『16:風吹けば名無し:でもイッチ、ハーケンで終わるつもりちゃうやろ リーグ作るんやろ』
『17:風吹けば名無し:監督って、呼ばれたとこに行くもんやで』
『18:風吹けば名無し:>>17 球団渡り歩く監督みたいで草』
『19:風吹けば名無し:王都がド素人のままやったら御前試合にならんしな 教えられるのイッチしかおらんのやろ』
『20:風吹けば名無し:イッチがおらんでも、ポテトーズは野球続けられるんか? そこが大事やろ』
二十番の書き込みの上で、親指が動かなくなった。
ゴルドがいる。捕手で、二番で、道具を作れる。ベアトリスがいる。規則書を持っていて、誰よりもルールを知っている。エミールがいる。数えて、記録して、守備の位置まで考えられる。町長がいる。リーグの話し合いも、今日どうにか形になった。
そして、リタがいる。
イッチがいなくても、ポテトーズは、野球を続けられる。
そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。続けられることがうれしいのか、寂しいのか。自分でも、よくわからない。
『21:風吹けば名無し:どちらを選んでも、楽しみにしています』
『22:風吹けば名無し:>>21 丁寧ニキ、たまにはどっちか言えや』
『23:風吹けば名無し:ネキやろ』
『24:風吹けば名無し:イッチ、急がんでええ 十日あるんやろ』
画面を消す前に見た電池は、六十一パーセントまで減っていた。
* * *
眠れなかった。
はしごを下りて、火の落ちた暗い厨房を抜け、裏口から外に出る。雪はもう止んで、雲の切れ間からのぞいた二つの月が白い裏庭を青く照らしている。初雪の朝にかいた井戸までの道にも薄く雪が積もり直して、物音というものがどこにもない。積もった雪が、みんな吸いこんでしまうのだ。井戸の縁に腰を下ろすと、石の冷たさが服越しにしみてくる。
――行きたい。
それは、本当だった。王都。魔法学院。魔法を使う学生たちに、野球を教える。自分の知らない野球がそこで生まれるかもしれないと想像するだけで、胸の奥が熱くなる。
――でも。
厨房の窓に、いつのまにか明かりがついていた。ブルーノはもう奥へ引き上げたはずだから、誰かが起きてきたのだろう。
この店で、皿を洗った。屋根裏で、なんJと笑った。裏庭で、リタの球を受けた。空き地で、町じゅうの人と同じ球の行方を追いかけた。ここは、拓海がこの世界で初めて手に入れた帰る場所だ。
雪の上に、指で小さく五角形を描く。本塁だ。少し離れたところに、小さな丸。マウンド。その二つのあいだの距離が、急に、とても遠く見えた。
指先がかじかんで、拓海は立ち上がった。戻ろうとして振り返ると、裏口から井戸までの道の、さっき歩いてきた足跡の横に、もう一筋、別の足跡が続いている。拓海のものより、ひと回り小さい。新しい雪の上に、くっきりと残っていた。
足跡は裏口から井戸の手前まで来て、そこで止まっていた。拓海の座っていた場所から、ほんの数歩のところだ。向きを変えた跡を残して、足跡はまた裏口へ戻っている。拓海が雪に線を描いているあいだに、誰かがすぐうしろまで来て、声もかけずに帰っていったのだ。
その場に立ったまま、拓海は小さな足跡を見下ろしていた。吐いた息が白く流れて、消えていく。
二つの月の下で、厨房の窓の明かりが、ふっと消えた。
脚注
※¹ストーブリーグ:プロ野球のオフシーズンのこと。寒い時期にファンが暖かいストーブの周りに集まって好きな野球チームや選手について語りあうイメージが元。




