明日の待ち合わせ
『残り時間、五日』
赤い文字が消えたあとも、僕は青い糸巻きのキーホルダーを握りしめていた。
「お兄、そんなに握ったら壊れるよ」
「分かってる」
「分かってる人の握り方じゃないけど」
慌てて手を緩める。
キーホルダーには、まだ紬の体温が残っているような気がした。
「次は、紬の前の住所だね」
小さな神様が、僕の肩に腰かけたまま言う。
「ああ」
「今日はもう帰るんじゃなかったの?」
「予定が変わった」
「掃除から逃げるために?」
「どうしてそうなる」
「だって、帰ったら部屋の片づけをするって言ってたじゃん」
「それとこれとは別だ」
「お兄、誰と話してるの?」
日和が不思議そうに尋ねる。
「自分の良心」
「へえ。お兄にも良心ってあったんだ」
「妹のくせに、兄への信頼がなさすぎないか?」
「信頼してるから言えるんだよ」
「それ、たぶん信頼とは違う」
日和は小さく笑ったあと、改めてホームを見回した。
「行こう。ここで待っていても、紬が戻ってくるわけじゃないし」
「ああ」
僕たちは、紬が以前住んでいたマンションへ向かった。
◇
駅から十五分ほど歩いた住宅街に、五階建ての古いマンションがあった。
「三〇二号室だよ」
日和が階段を見上げる。
「エレベーターは?」
「ないみたい」
「三階でよかったねえ、はる坊」
「お前は僕の肩に乗ってるだけだろ」
一段上がるたび、小さな神様の足が僕の胸に当たる。
「だから、蹴るなって」
「ボクは蹴ってないよ。はる坊が勝手に息切れしてるだけ」
「誰のせいで揺れてると思ってる」
「二人とも、そこで言い合ってないで早く来て」
すでに踊り場まで上がっていた日和が、呆れたように振り返った。
三〇二号室の表札には、『佐伯』と書かれている。
「やっぱり、もう別の人が住んでるね」
「それでも、話だけは聞いてみよう」
「怪しまれないかな」
「日和が話せば大丈夫だろ」
「どうして私が?」
「僕が話すと、すぐ不審者扱いされるから」
「自覚はあるんだ」
「そこは否定してくれよ」
日和が呼び鈴を押した。
しばらくして、扉がわずかに開く。
顔を出したのは、二十代くらいの女性だった。
「はい。どちらさまですか?」
「あの、突然すみません。以前ここに住んでいた水瀬紬さんのことで、少しお聞きしたいことがあって」
「水瀬さん?」
女性は首を傾げた。
「私、半年前に引っ越してきたので、前の住人のことはあまり……」
「そうですか。すみません、お時間を取らせてしまって」
日和が頭を下げる。
やはり空振りか。
僕たちが立ち去ろうとしたとき、女性が「あっ」と声を上げた。
「すみません、ちょっと待ってください。もしかして、朝倉さんですか?」
足が止まる。
「僕が朝倉ですけど……」
女性は僕と日和を交互に見た。
「朝倉遥斗さん、ですよね?」
「はい」
「少しだけ待っていてください」
女性はそう言うと、いったん扉を閉めた。
「どうして、お兄の名前を知ってるの?」
「僕に聞かれても分からない」
「もしかして、お兄って有名人だったの?」
小さな神様が口を挟む。
「どこで有名なんだよ」
「不審者情報のほうじゃない?」
「お前は本当に黙ってろ」
「お兄、今のも誰と話してるの?」
「だから、良心だって」
「その良心、ずいぶん口が悪いね」
再び扉が開いた。
女性の手には、白い封筒が握られている。
「これを、朝倉さんに渡してほしいと頼まれていたんです」
「誰に頼まれたんですか?」
「水瀬紬さんに」
「紬が、ここへ来たんですか?」
日和が身を乗り出す。
「はい。昨日の夕方に来ました」
「昨日……?」
紬は六日前から連絡が取れなくなっている。
「紬は、どんな様子でした?」
「帽子を深くかぶっていたので、顔はよく見えませんでした。でも、かなり疲れているようには見えました」
「今どこにいるのか、聞きませんでしたか?」
「すみません。そこまでは……」
女性は申し訳なさそうに首を振り、僕へ封筒を差し出した。
「朝倉遥斗さんが、妹さんと一緒に訪ねてきたら渡してください、と言われました」
僕の名前だけでなく、日和と一緒に来ることまで、紬は知っていた。
「ありがとうございます」
封筒を受け取る。
表には、整った文字でこう書かれていた。
『朝倉遥斗さんへ』
「紬の字だよ」
日和が、確かめるように呟いた。
封筒の中には、一枚の写真が入っていた。
写っているのは、古びた喫茶店だった。
看板には、『雨宿り』と書かれている。
写真の裏には、短い文章があった。
『明日、午後二時。
この店で待っています』
「会えるってことか?」
「お兄、喜ぶのはまだ早いよ」
日和の声が硬くなる。
「罠かもしれない」
「ボクもそう思う」
小さな神様が言った。
日和には聞こえていないはずなのに、同じ不安を感じ取ったように表情を曇らせる。
「紬は、お兄を殺すって言ってたんだよ」
「分かってる」
「それでも行くの?」
「行く」
「……そんなにすぐ答えないでよ」
「会わなきゃ、何も分からない。僕が紬を殺したっていう話も、未来の僕が彼女を救えと言った理由も」
「危険かもしれないのに?」
「それでも、行くしかない」
日和はしばらく黙っていた。
やがて、意を決したように顔を上げる。
「じゃあ、私も行く」
「駄目だ」
「どうして? 私だって紬のことを知りたい」
「写真の裏を見てくれ」
僕は写真を日和へ差し出した。
待ち合わせの文章の下に、小さな文字が書かれていた。
『必ず一人で来てください。
日和を連れてきたら、彼女が死にます』
日和の顔から、さっきまでの強がりが消えた。
「……こんなの、脅しじゃん」
「ああ」
「本当に、私を連れていかないつもり?」
「連れていけない」
「お兄一人で行かせるなんて、できるわけないでしょ」
「日和を危険にさらすわけにはいかない」
「でも、お兄が死ぬかもしれない」
「だからこそ、僕一人で行く」
「それ、理由になってないよ」
日和の声が震える。
その瞬間、マンションの廊下を冷たい風が通り抜けた。
僕の手から写真が滑り落ち、足元に裏返しで落ちる。
そこには、さっきまでなかった文章が浮かんでいた。
『逃げたら、今度は日和を殺します』
日和が息を呑む。
僕は写真を拾い上げ、文字を見つめた。
紬は、僕が必ず会いに行くと知っていた。
そして僕にはもう、逃げるという選択肢は残されていなかった。




