↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/29

明日の待ち合わせ

『残り時間、五日』


赤い文字が消えたあとも、僕は青い糸巻きのキーホルダーを握りしめていた。


「お兄、そんなに握ったら壊れるよ」


「分かってる」


「分かってる人の握り方じゃないけど」


慌てて手を緩める。


キーホルダーには、まだ紬の体温が残っているような気がした。


「次は、紬の前の住所だね」


小さな神様が、僕の肩に腰かけたまま言う。


「ああ」


「今日はもう帰るんじゃなかったの?」


「予定が変わった」


「掃除から逃げるために?」


「どうしてそうなる」


「だって、帰ったら部屋の片づけをするって言ってたじゃん」


「それとこれとは別だ」


「お兄、誰と話してるの?」


日和が不思議そうに尋ねる。


「自分の良心」


「へえ。お兄にも良心ってあったんだ」


「妹のくせに、兄への信頼がなさすぎないか?」


「信頼してるから言えるんだよ」


「それ、たぶん信頼とは違う」


日和は小さく笑ったあと、改めてホームを見回した。


「行こう。ここで待っていても、紬が戻ってくるわけじゃないし」


「ああ」


僕たちは、紬が以前住んでいたマンションへ向かった。


     ◇


駅から十五分ほど歩いた住宅街に、五階建ての古いマンションがあった。


「三〇二号室だよ」


日和が階段を見上げる。


「エレベーターは?」


「ないみたい」


「三階でよかったねえ、はる坊」


「お前は僕の肩に乗ってるだけだろ」


一段上がるたび、小さな神様の足が僕の胸に当たる。


「だから、蹴るなって」


「ボクは蹴ってないよ。はる坊が勝手に息切れしてるだけ」


「誰のせいで揺れてると思ってる」


「二人とも、そこで言い合ってないで早く来て」


すでに踊り場まで上がっていた日和が、呆れたように振り返った。


三〇二号室の表札には、『佐伯』と書かれている。


「やっぱり、もう別の人が住んでるね」


「それでも、話だけは聞いてみよう」


「怪しまれないかな」


「日和が話せば大丈夫だろ」


「どうして私が?」


「僕が話すと、すぐ不審者扱いされるから」


「自覚はあるんだ」


「そこは否定してくれよ」


日和が呼び鈴を押した。


しばらくして、扉がわずかに開く。


顔を出したのは、二十代くらいの女性だった。


「はい。どちらさまですか?」


「あの、突然すみません。以前ここに住んでいた水瀬紬さんのことで、少しお聞きしたいことがあって」


「水瀬さん?」


女性は首を傾げた。


「私、半年前に引っ越してきたので、前の住人のことはあまり……」


「そうですか。すみません、お時間を取らせてしまって」


日和が頭を下げる。


やはり空振りか。


僕たちが立ち去ろうとしたとき、女性が「あっ」と声を上げた。


「すみません、ちょっと待ってください。もしかして、朝倉さんですか?」


足が止まる。


「僕が朝倉ですけど……」


女性は僕と日和を交互に見た。


「朝倉遥斗さん、ですよね?」


「はい」


「少しだけ待っていてください」


女性はそう言うと、いったん扉を閉めた。


「どうして、お兄の名前を知ってるの?」


「僕に聞かれても分からない」


「もしかして、お兄って有名人だったの?」


小さな神様が口を挟む。


「どこで有名なんだよ」


「不審者情報のほうじゃない?」


「お前は本当に黙ってろ」


「お兄、今のも誰と話してるの?」


「だから、良心だって」


「その良心、ずいぶん口が悪いね」


再び扉が開いた。


女性の手には、白い封筒が握られている。


「これを、朝倉さんに渡してほしいと頼まれていたんです」


「誰に頼まれたんですか?」


「水瀬紬さんに」


「紬が、ここへ来たんですか?」


日和が身を乗り出す。


「はい。昨日の夕方に来ました」


「昨日……?」


紬は六日前から連絡が取れなくなっている。


「紬は、どんな様子でした?」


「帽子を深くかぶっていたので、顔はよく見えませんでした。でも、かなり疲れているようには見えました」


「今どこにいるのか、聞きませんでしたか?」


「すみません。そこまでは……」


女性は申し訳なさそうに首を振り、僕へ封筒を差し出した。


「朝倉遥斗さんが、妹さんと一緒に訪ねてきたら渡してください、と言われました」


僕の名前だけでなく、日和と一緒に来ることまで、紬は知っていた。


「ありがとうございます」


封筒を受け取る。


表には、整った文字でこう書かれていた。


『朝倉遥斗さんへ』


「紬の字だよ」


日和が、確かめるように呟いた。


封筒の中には、一枚の写真が入っていた。


写っているのは、古びた喫茶店だった。


看板には、『雨宿り』と書かれている。


写真の裏には、短い文章があった。


『明日、午後二時。


 この店で待っています』


「会えるってことか?」


「お兄、喜ぶのはまだ早いよ」


日和の声が硬くなる。


「罠かもしれない」


「ボクもそう思う」


小さな神様が言った。


日和には聞こえていないはずなのに、同じ不安を感じ取ったように表情を曇らせる。


「紬は、お兄を殺すって言ってたんだよ」


「分かってる」


「それでも行くの?」


「行く」


「……そんなにすぐ答えないでよ」


「会わなきゃ、何も分からない。僕が紬を殺したっていう話も、未来の僕が彼女を救えと言った理由も」


「危険かもしれないのに?」


「それでも、行くしかない」


日和はしばらく黙っていた。


やがて、意を決したように顔を上げる。


「じゃあ、私も行く」


「駄目だ」


「どうして? 私だって紬のことを知りたい」


「写真の裏を見てくれ」


僕は写真を日和へ差し出した。


待ち合わせの文章の下に、小さな文字が書かれていた。


『必ず一人で来てください。


日和を連れてきたら、彼女が死にます』


日和の顔から、さっきまでの強がりが消えた。


「……こんなの、脅しじゃん」


「ああ」


「本当に、私を連れていかないつもり?」


「連れていけない」


「お兄一人で行かせるなんて、できるわけないでしょ」


「日和を危険にさらすわけにはいかない」


「でも、お兄が死ぬかもしれない」


「だからこそ、僕一人で行く」


「それ、理由になってないよ」


日和の声が震える。


その瞬間、マンションの廊下を冷たい風が通り抜けた。


僕の手から写真が滑り落ち、足元に裏返しで落ちる。


そこには、さっきまでなかった文章が浮かんでいた。


『逃げたら、今度は日和を殺します』


日和が息を呑む。


僕は写真を拾い上げ、文字を見つめた。


紬は、僕が必ず会いに行くと知っていた。


そして僕にはもう、逃げるという選択肢は残されていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。