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空っぽのホーム

誰も動かなかった。


日和はスマートフォンを握りしめ、父さんと母さんは事情が分からないまま僕たちを見ている。


「はる坊、逃げて」


 テーブルの下で、小さな神様が繰り返した。


「どこから?」


「窓」


「ここ二階だぞ」


「若いんだから大丈夫」


「二十六歳を雑に信頼するな」


「お兄、誰と話してるの?」


 日和の声に、慌てて口を閉じる。


 もう一度、玄関のチャイムが鳴った。


「水瀬紬……なのか?」


 僕が呟くと、日和の顔がこわばった。


 紬から届いたばかりのメッセージ。


『今度は、私があなたを殺しに行く』


 その直後に鳴ったチャイムだ。偶然とは思えない。


 僕はテーブルに置かれていたケーキ用のナイフを手に取った。


「待って、お兄」


「日和はここにいろ」


「それで戦う気?」


「他にないんだよ」


「生クリームしか切れなさそうだけど」


「見た目より切れるかもしれないだろ」


「どんな期待?」


「二人とも、何を騒いでるんだ」


 父さんが立ち上がり、僕の手からナイフを取り上げた。


「ここは俺の家だ。俺が出る」


「父さん、危ない」


「宅配便かもしれないだろ」


 父さんは僕たちを居間へ残し、玄関へ向かった。


 扉が開く音。


 僕と日和は息を止める。


「あら、朝倉さん。遅い時間にごめんなさいね」


 聞こえてきたのは、年配の女性の声だった。


「回覧板、渡すのを忘れてて」


「……回覧板?」


 僕と日和は顔を見合わせた。


 少しして、父さんが一枚の板を持って戻ってくる。


「隣の田中さんだ」


 母さんが呆れたように息をついた。


「二人とも、何をそんなに怖がってたの?」


「べ、別に」


 日和がスマートフォンを背中へ隠す。


 テーブルの下から、小さな神様が顔を出した。


「紬じゃなかったね」


「お前が逃げろって言ったんだろ」


「念のためだよ。神様は慎重なの」


「僕だけ窓から落とそうとしたくせに」


「だから、誰と話してるの?」


「独り言」


 日和は僕から半歩離れた。


「紬に殺される前に、別の意味で病院へ行ったほうがいいかも」


 笑ってから、日和は急に真顔へ戻った。


「お兄。さっき言った紬の住所なんだけど」


「今から連れていってくれ」


「それが無理なの」


「どうして?」


「私が知ってるのは、紬が半年前まで住んでた部屋。今はもう、別の人が住んでる」


「今の住所は?」


「分からない。引っ越したことも、あとから聞いただけだから」


「じゃあ、他の手掛かりを探すしかないな」


「今日はもう遅いよ。明日、メッセージと写真を最初から調べ直そう」


「でも、残り六日しかない」


「だからこそ。焦って関係ない人の家に押しかけたら、私たちが警察に捜される側になるよ」


 その光景を想像し、僕は渋々うなずいた。


     ◇


「ほら、全員並んで」


 食事のあと、母さんがスマートフォンを構えた。


「こんな空気で写真を撮るの?」


 日和が苦笑する。


「せっかく家族全員がそろってるんだから。遥斗の誕生日でしょう」


 父さんが僕の隣へ立ち、日和も反対側へ並ぶ。


 画面の中に、四人の家族が映った。


 日和が生きている。


 母さんが笑っている。


 父さんが家にいる。


 僕にとっては、もう二度と撮れないはずだった写真だ。


「お兄、顔が怖い」


「ちゃんと笑ってる」


「紬さんに命を狙われています、みたいな顔」


「実際そうだろ」


「二人とも、こっち見て」


 母さんに注意された瞬間、日和が僕の脇腹をつついた。


「やめろ」


「笑わせてあげてるの」


「これは苦しんでる顔だ」


 シャッター音が鳴る。


 写真の中には、笑顔の両親と日和。


 そして日和から逃げようとしている僕が写っていた。


「いい写真ね」


「どこが?」


「いつもの二人って感じがするもの」


 母さんの言葉に、僕はもう一度写真を見た。


 僕の知らない七年間にも、きっとこんな時間があったのだ。


     ◇


 翌日の昼。


 紬の手掛かりを調べ直すため、僕たちは一度、僕の部屋へ戻った。


「この部屋、空き巣に入られたの?」


 部屋へ入った日和が尋ねる。


「入られてない」


「じゃあ、お兄が犯人か」


「何の?」


「自分の生活を破壊した犯人」


 日和は窓を開け、床に散らばった空き缶を拾い始めた。


「紬の手掛かりを探すんじゃなかったのか?」


「その前に足の踏み場を探してるの」


「あとで片づける」


「その『あとで』が積み重なった結果がこれでしょ」


 反論できない。


 日和は手を動かしながら、紬について教えてくれた。


 大学時代の友人で、口数は少ないが、困っている人を放っておけないこと。


 考え事をすると、周りが見えなくなること。


 そして、雨の日が嫌いだったこと。


「お兄とは正反対かも」


「最後の情報、必要か?」


「でも、部屋が汚いところは似てる」


「似てるんじゃないか」


「喜ぶところじゃないよ」


 日和が机の上に置かれたスマートフォンを見る。


 画面には紬の写真が表示されたままだった。


「昨夜は紬の姿ばかり見てて、気づかなかったけど……」


「何か分かったのか?」


「この場所、東口駅の四番ホームだと思う。大学の帰りに、紬とよく使ってた」


 写真を拡大すると、案内板の端に数字の四が見えた。


「行ってみよう」


「今から?」


「六日しかない」


 日和はゴミ袋と写真を見比べる。


「じゃあ、掃除は帰ってからね」


 僕たちは、さらに散らかった部屋を残して駅へ向かった。


     ◇


 四番ホームには、数人の乗客がいた。


 僕たちは写真と同じベンチを見つけ、その周辺を何度も捜した。


「あの人、紬じゃない?」


「髪型が違う」


「じゃあ、あっちの人」


「あれは駅員さんだ」


「遠くから見たら似てるかも」


「制服を無視するな」


 一時間捜しても、紬は見つからなかった。


 日和が送ったメッセージにも、既読はつかない。


「少し休もう」


 日和が飲み物を買いに行く。


 僕は写真と同じベンチへ腰を下ろした。


「空振りだねえ」


 隣に座った小さな神様が言う。


「分かってる」


「次は、前の住所の管理人に話を聞く?」


「ああ。今日はもう――」


 立ち上がろうとしたとき、ベンチの下で青いものが光った。


 拾い上げる。


 青い糸が巻かれた、小さな糸巻き型のキーホルダーだった。


 戻ってきた日和が、それを見て目を見開く。


「これ、紬のだよ」


「間違いないのか?」


「大学のとき、私があげたものだから」


 紬はここにいた。


 少なくとも、このキーホルダーが落ちたときまでは。


 僕が強く握った瞬間、耳元で声がした。


『お願い。私を見つけないで』


 振り返っても、そこには誰もいない。


 直後、スマートフォンが震えた。


 紬の写真が勝手に表示され、赤い文字がゆっくりと書き換わる。


『残り時間――五日』


 紬は見つからなかった。


 それなのに彼女の死だけが、一日ぶん僕たちへ近づいていた。

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