まだ出会っていない少女
濡れた足跡は、僕の背後で途切れていた。
振り返っても、そこには誰もいない。
薄暗い部屋にいるのは、僕と小さな神様だけだった。
「……誰か、いたのか?」
返事はない。
しゃがみ込み、床へ指を触れる。
冷たい。
見間違いではない。床は確かに濡れていた。
「神様」
「なに?」
「紬って、誰なんだ」
「知らないよ」
「本当に?」
「その聞き方、信じてないでしょ」
「さっき写真を見たとき、顔色が変わった。何か知ってるんじゃないのか」
小さな神様は、空になったプリンの容器を机へ置いた。いつもの軽い笑みは消えている。
「知ってるのは、あの子が普通の人間じゃないってことだけ」
「幽霊なのか?」
「それも分からない」
「神様なのに?」
「神様だって、何でも知ってるわけじゃないよ」
神様は濡れた足跡へ目を落とした。
「あの足跡には、時間がないんだ」
「時間がないって、どういう意味だよ」
「いつ、ここについたのか分からない。たった今かもしれないし、七年前かもしれない。まだ来ていない未来のものかもしれない」
「……意味が分からない」
「ボクにも分からない。だから困ってるんだよ」
僕はスマートフォンを確認した。
紬からの着信履歴は残っている。
しかし、電話番号は表示されていない。
時刻の欄には『午後十時二十五分』とあるだけで、日付がなかった。
未来の僕から届いたメッセージも消えている。
残っているのは、あの少女が写った一枚の写真だけだった。
雨に濡れた駅のホーム。
端に立つ、顔の見えない少女。
そして、赤い文字。
『次の雨まで、あと六日』
「未来の僕は、どうして紬を知ってるんだ」
「十年後には出会ってるんじゃない?」
「でも、今の僕はまだ出会っていない」
「そうみたいだね」
「なら、探すしかない」
「手がかりは?」
「名前だけだ」
「それで探すの?」
「他に方法がない」
少女の顔も、居場所も分からない。
それでも、何もしないという選択肢はなかった。
僕はもう、大事な場面から逃げないと決めた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には『日和』と表示されている。
一瞬、電話に出るのをためらった。
日和は生きている。
頭では分かっているのに、着信音を聞くだけで、あの夜の記憶が蘇る。
十九歳の僕が無視した、最後の電話。
「出ないの?」
神様に促され、僕は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お兄、まだ?』
日和の声だった。
夢の中で何度も聞いた声とは違う。
明るくて、少し不機嫌で、ちゃんと生きている声。
『みんな待ってるんだけど』
「あ……ごめん。今から行く」
『お母さん、ケーキの写真を撮るまで絶対に食べさせないって張り切ってるよ』
電話の向こうから、母さんの笑い声が聞こえた。
胸の奥が締めつけられる。
「分かった。すぐ帰る」
『早くしてよね。お父さん、もうクリームを指につけて怒られてるから』
「父さんらしいな」
『あと、お兄』
「なに?」
『誕生日おめでとう』
「……ありがとう」
電話が切れたあとも、しばらくスマートフォンを耳から離せなかった。
「帰りなよ、はる坊」
小さな神様が、静かに言った。
「でも、紬が――」
「残りは六日だよ。今夜できることなんて、たかが知れてる」
「また未来が変わるかもしれない」
「だからこそ、今ある家族との時間を大切にしなよ」
その言葉に、何も返せなかった。
僕はスマートフォンをポケットへ入れた。
「お前も来るか?」
「プリンがあるなら」
「たぶんある」
「じゃあ行く」
神様は当然のように僕の肩へ乗った。
「重い」
「神様に向かって失礼だねえ」
◇
実家の玄関前に立つと、足が動かなくなった。
何度も帰ろうとした場所。
けれど、母さんと日和を失ってから、一度も足を踏み入れられなかった家。
玄関の向こうから、家族の話し声が聞こえる。
「どうしたの?」
肩に座った神様が尋ねた。
「……怖いんだ」
「家に帰るだけなのに?」
「僕にとっては、七年ぶりなんだよ」
この世界の家族にとって、僕は数日前にも顔を見せたらしい。
だが、僕にはその記憶がない。
日和が生きていた七年間も。
母さんと笑った七年間も。
この家で過ごした時間も、僕の中には存在しない。
「記憶は戻らないのか?」
「世界が変わっても、やり直しをした人間の記憶は上書きされない」
「これからも?」
「たぶんね」
「救えたのに、その後の思い出は何も残らないのか」
「そういうことになるね」
救えたはずなのに、その後の思い出はひとつも持っていない。
それが、やり直しの代償なのかもしれない。
意を決して、玄関の扉を開けた。
「ただいま」
「遅い!」
廊下の奥から日和が現れた。
二十三歳になった妹。
夢の中では、いつも十六歳の姿だった。
髪は肩まで伸び、顔つきも少し大人びている。
それでも、僕を見る目は昔と変わらなかった。
「連絡したでしょう。何時だと思ってるの?」
「ごめん」
「珍しく素直だね」
日和が僕の顔を覗き込む。
「お兄、泣いてる?」
「泣いてない」
「いや、泣いてるじゃん」
「雨だよ」
「外、もう降ってないけど」
日和の姿が涙で滲む。
僕は衝動を抑えられず、妹を抱きしめた。
「ちょっ、お兄?」
「日和……」
「なに? どうしたの?」
「生きてる」
「そりゃ生きてるけど……急に何?」
腕の中に体温がある。
声が聞こえる。
心臓が動いている。
それだけで、涙が止まらなくなった。
「苦しいって。離してよ」
「もう少しだけ」
「今日のお兄、絶対に変」
そう言いながらも、日和は僕を突き放さなかった。
背中へ手を回し、子どもをあやすように軽く叩く。
「会社で何かあった?」
「いろいろあった」
「いろいろって何よ」
「うまく説明できない。でも、もう大丈夫だ」
「……そっか」
日和はそれ以上、追及しなかった。
「なら、今はいいけど」
居間から母さんの声が聞こえた。
「遥斗、日和に抱きついてないで早く入りなさい」
その声を聞いた瞬間、再び涙が溢れそうになった。
居間には、母さんと父さんがいた。
テーブルの中央には、少し形の崩れた誕生日ケーキ。
壁には、母さんが飾ったらしい紙の輪と『遥斗、お誕生日おめでとう』の文字。
「遅かったな」
父さんが言った。
作業着ではなく、私服を着ている。
僕が覚えている父さんより、表情が柔らかかった。
「父さん」
「なんだ?」
「仕事は?」
「今日は早退した」
「どうして?」
「家族の誕生日くらい、仕事より優先しろって、お前に怒られたからな」
「僕が?」
「覚えてないのか?」
父さんは冗談めかして笑った。
僕には、その記憶もなかった。
変わった世界では、僕自身も少しずつ変わっていたらしい。
「ほら、立ってないで座りなさい」
母さんが僕の前へ皿を置く。
「お母さん」
「なに?」
「元気?」
「見れば分かるでしょう?」
「うん……でも、聞きたかった」
「本当にどうしたの、今日は」
「声が聞きたかっただけ」
母さんは不思議そうに僕を見つめたあと、優しく笑った。
「変な子ね。ほら、冷める前に食べなさい」
七年間、ずっと聞きたかった声。
僕はその笑顔を忘れないように、何度も目へ焼きつけた。
◇
食事が終わり、父さんと母さんが台所へ向かった。
僕は日和と二人で、居間に残っていた。
小さな神様は、誰にも見えていないらしい。
冷蔵庫から見つけたプリンを抱え、テーブルの下で夢中になって食べている。
「お兄、さっきからどこ見てるの?」
「いや、なんでもない」
「なんでもない人は、テーブルの下をそんなに気にしないでしょ」
「……気のせいだよ」
「やっぱり変」
日和は呆れたように息をつき、スマートフォンを操作し始めた。
僕もポケットから端末を取り出す。
画面には、少女の写真が残ったままだった。
『次の雨まで、あと六日』
「日和」
「なに?」
「紬って名前に、心当たりないか?」
日和の指が止まった。
「……どうして?」
声の調子が変わる。
「知ってるのか?」
「それはこっちの台詞。どうしてお兄が紬の名前を知ってるの?」
「未来の僕から、彼女を救えって連絡が来た」
「……また変な冗談?」
「冗談じゃない」
「じゃあ、何なの?」
「僕にも分からない。ただ、この子を助けろって」
僕はスマートフォンの画面を日和へ見せた。
写真を見た瞬間、日和の顔から血の気が引いた。
「これ……どこで手に入れたの?」
「さっき届いた」
「誰から?」
「十年後の僕」
「……意味分かんない」
「僕だって分からない。でも、この子は六日後、次の雨の日に死ぬらしい」
日和は写真を凝視している。
唇が震えていた。
「日和?」
「この子が紬だよ」
「知り合いなのか?」
「大学のときの友達」
胸が大きく鳴った。
現在の僕は、まだ彼女に出会っていない。
だが、日和はすでに紬と出会っていた。
「今、どこにいる?」
「分からない」
「連絡先は?」
「持ってる。でも……」
日和は自分のスマートフォンを開き、メッセージ画面を表示した。
相手の名前は『水瀬紬』。
「六日前から、連絡が取れなくなってる」
「六日前?」
「最後に届いたのが、このメッセージ」
日和が画面を僕へ向ける。
『日和へ。
次に雨が降ったら、私はいなくなります。
探さないでください』
送信日時は、六日前の午後十時二十五分。
写真に表示された時刻と同じだった。
「警察には?」
「相談した。でも、家出の可能性が高いって」
「それだけ?」
「紬、一人暮らしだし、大学も卒業してるから。事件だって断定できないって言われた」
「住所は分かる?」
「前に住んでた場所なら」
「連れていってくれ」
「今から?」
「一日でも早いほうがいい」
立ち上がろうとすると、日和が僕の腕をつかんだ。
「待って」
「時間がないんだ」
「まだあるの」
日和の声が震えている。
「何が?」
「もう一通。紬から来てた」
「どうして今まで黙ってた?」
「怖かったの。誰にも見せられなかった」
日和は画面を何度か操作し、削除済みのメッセージを復元する。
そこには、短い文章が残されていた。
『もし、お兄さんが私を探し始めても、絶対に会わせないで』
背中に冷たいものが走る。
「どうして僕のことを知ってる?」
「分からない。私も紬にお兄を紹介したことはない」
まだ出会っていないはずの少女。
その少女は、僕の存在を知っていた。
日和は、さらに下の文章を表示した。
「……続きがある」
僕は息を止める。
『あなたのお兄さんは、私を一度殺しているから』
部屋の音が消えた。
家族の笑い声も。
食器を洗う水の音も。
テーブルの下でプリンを食べていた神様が、ゆっくりと顔を上げた。
「僕が……紬を?」
会ったこともない。
顔も知らない。
声を聞いたのも、さっきが初めてだった。
それなのに、紬は僕に殺されたと言っている。
日和のスマートフォンが震えた。
新しいメッセージが届く。
送信者は――水瀬紬。
二人で画面を見つめた。
『日和、どうして約束を破ったの?』
続けて、もう一通。
『お兄さんに伝えて』
文字が一つずつ、画面に浮かび上がる。
『今度は、私があなたを殺しに行く』
その瞬間、テーブルの下で小さな神様が呟いた。
「はる坊、逃げて」
玄関のチャイムが鳴った。




