初めましてを知っている君
『残り時間、四日』
喫茶店『雨宿り』の前で、僕はスマートフォンの画面を閉じた。
待ち合わせは午後二時。
現在時刻は、一時五十二分。
「ずいぶん早く来たねえ」
小さな神様が僕の肩であくびをする。
「八分前は普通だろ」
「一時間前から店の周りを三周してた人が言ってもねえ」
「下見だ」
「怖くて入れなかっただけでしょ」
「帰るぞ」
「紬に会わなくていいの?」
「……入る」
古びた木製の扉へ手をかける。
日和は連れてきていない。
今朝から何度も、一人で行くのは危険だと止められた。
それでも、写真に浮かんだ警告を無視することはできなかった。
『日和を連れてきたら、彼女が死にます』
ただし、小さな神様は勝手についてきた。
「本当に大丈夫なのか?」
「何が?」
「一人で来いって書いてあった」
「ボクは神様だから、一人として数えなくて大丈夫」
「その理屈、紬にも通じるんだろうな」
「駄目だったら全力で謝ろう」
「僕が殺される前に頼むぞ」
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
店内には古い柱時計の音と、静かな音楽が流れている。
客は一人だけだった。
窓際の一番奥。
黒い髪の女性が、冷めたコーヒーの前に座っている。
写真では見えなかった顔。
白い肌。
伏せられた目元には、眠れていないことが分かるほど濃い影があった。
彼女が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞬間、紬の手がテーブルの端を強くつかんだ。
けれど僕と目が合うと、指先の力を抜き、何事もなかったように膝の上へ戻す。
「朝倉遥斗さんですね」
初めて聞くはずの声だった。
なのに、胸の奥が痛んだ。
「水瀬紬?」
「はい」
紬は向かいの椅子へ目を向けた。
座るよう促す仕草は穏やかだったが、椅子の脚が自分から少し離れていることに気づいた。
すぐに手を伸ばせば逃げられる距離を、意識して選んだのだろう。
「座ってください」
言われたとおり腰を下ろす。
小さな神様が僕の肩からテーブルへ飛び移ったが、紬の視線は動かなかった。
やはり見えていないらしい。
「本当に一人で来たんですね」
安堵したように息を吐いたあと、紬はすぐに店の入口へ目を向けた。誰かが後から入ってこないか確かめるような視線だった。
「約束だったから」
「妹さんは?」
「家にいる」
「嘘はついていませんか?」
問いかける声は冷静だったが、僕の顔を見つめる目には、疑いと同じくらい切実な願いが滲んでいた。
信じたいのに、信じればまた傷つく。そんな迷いが、ほんの一瞬だけ表情を揺らす。
「ついてない」
日和には、何かあればすぐ連絡すると約束している。
スマートフォンの位置情報も共有させられた。
それを一人と言っていいのかは、黙っておく。
「何か飲みますか?」
紬が尋ねた。
そう言いながら、彼女は僕の前に置かれたメニューをこちらへ押し出した。
指先が僕の手に触れそうになった瞬間、反射的に引っ込める。
触れたいのか、触れられるのが怖いのか、自分でも分からないような動きだった。
「人を殺す前に飲み物を勧めるのか?」
「まだ殺すとは決めていません」
紬は淡々と答えたが、テーブルの下では片手がもう一方の手首を強く握っていた。
「決めてないのかよ」
「あなたの答え次第です」
紬は真っすぐ僕を見つめる。
その目には警戒があった。
けれど、僕が少しでも苦しそうな顔をすると、彼女の視線はすぐに揺れ、心配そうに僕の喉元や手元を確認する。まるで、傷つける相手の無事を確かめているようだった。
怒っているようには見えない。
むしろ、怯えているようだった。
「質問します」
「ああ」
「今のあなたは、何歳ですか?」
「二十六歳」
「十九歳のあなたと、連絡は取れますか?」
予想していなかった質問に、言葉が詰まる。
「どうして、それを知ってる?」
「質問に答えてください」
突き放すような言い方だった。
しかし、僕が黙り込むと、紬はわずかに眉を下げた。
責めたいわけではない。
ただ、答えを聞かなければならないのだと、自分に言い聞かせているようだった。
「今は取れない。前は取れた」
「三十六歳のあなたから、メッセージは?」
「届いた」
紬の指がわずかに震えた。
それを隠すように、彼女は冷めたコーヒーのカップへ手を伸ばす。
けれど口をつけることはなく、ただ両手で包み込んだ。
「何と書いてありましたか?」
「紬を救え」
その瞬間、紬が小さく笑った。
うれしそうな笑顔ではない。
諦めたような、悲しい笑みだった。
それでも、その言葉を聞けたことだけは嬉しいのか、彼女の目元がほんの少しだけ緩む。
「今回も、同じなんですね」
「今回も?」
「次の質問です」
紬は答えないまま続ける。
逃げるような言葉だったが、僕の前から逃げるつもりはないらしい。
膝の上の手は震えているのに、席を立とうとはしなかった。
「日和は生きていますか?」
「生きてる」
「お母さまも?」
「ああ」
「お父さまは、家族と一緒にいますか?」
「いる」
紬は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「よかった」
その声には、僕の家族を本気で案じていた人間の安堵があった。
けれど次の瞬間、紬は唇を噛み、僕から視線を逸らした。
安心してはいけないと、自分を戒めるように。
「日和たちのことまで知ってるのか?」
「知っています」
「どうして?」
「あなたから聞いたからです」
「僕は君と今日初めて会った」
「あなたにとっては」
柱時計の音が、やけに大きく聞こえた。
「私にとって、今日が初めてではありません」
紬はそう言ってから、僕の顔を見つめた。
懐かしさに手を伸ばしかけるような目だった。
けれど、僕が身じろぎすると、すぐにその表情を閉ざす。
「いつ会った?」
「これからです」
「意味が分からない」
「分からなくて当然です。
あなたは、まだ何も経験していないから」
紬の声は優しかった。
その優しさが、かえって怖かった。
「だったら教えてくれ。僕が君に何をしたのか」
紬の表情から、わずかに残っていた笑みが消える。
僕の名前を呼びかけようとして、彼女は一度口を閉じた。
親しげに呼ぶことを、自分に許してはいけないと思ったのかもしれない。
「あなたは、私を助けようとしました」
「それなら、どうして僕が君を殺したことになる?」
「助けようとしたから、私は死んだんです」
紬は僕を見つめたまま、膝の上で拳を握った。
責めるような目ではなかった。
むしろ、責めたくないのに、忘れることもできない人の目だった。
反論できなかった。
小さな神様も、黙ったまま紬を見ている。
「何度も、同じことを繰り返しました」
紬は自分の手を見つめた。
その手で僕に触れたことがあるのだろう。
その手で、僕を拒んだことも。
「あなたは毎回、私を救おうとする。そして最後には、必ず自分の手で私を殺す」
「何度もって、何回だ」
「覚えていません」
「そんなはず――」
「十五回までは数えていました」
紬の声は淡々としていた。
けれど、最後の音だけがわずかに震えた。
「そのあとは、数えることをやめました」
僕は息を止めた。
十五回以上。
この少女は、僕の知らない時間を何度も生きている。
それなのに、僕を見つめる目には憎しみだけではなく、今も消えない愛情が残っていた。
「だから、今回は僕を先に殺すつもりなのか?」
「そのほうが、誰も傷つかずに済むなら」
紬はテーブルの下へ手を伸ばした。
身体がこわばる。
彼女の手が何かを探す間、紬は僕から目を逸らさなかった。
怖がらせたくないのに、警戒を解くこともできない。
そんな矛盾が、張りつめた肩に表れていた。
しかし、取り出したのは刃物ではなかった。
一枚の古い写真だった。
写真を差し出す手は震えていたが、僕の指が触れる直前で、紬は一瞬だけためらった。
それでも手を引かず、僕に渡す。
「これを見ても、同じことが言えますか?」
差し出された写真を受け取る。
駅前の時計塔を背景に、男女が並んでいた。
一人は紬。
もう一人は――僕だった。
今より少し年を取り、穏やかな顔で笑っている。
僕の左手と紬の右手には、同じ形の指輪があった。
「これ……僕なのか?」
「十年後のあなたです」
紬は写真ではなく、僕の表情を見ていた。
そこに嫌悪が浮かんでいないか、怯えがないか、確かめるように。
「三十六歳の僕……」
写真の中の僕は、紬の肩を抱いていた。
紬も、今とはまるで違う笑顔を浮かべている。
その笑顔を見た瞬間、彼女は目を伏せた。
懐かしさに耐えられないのか、それとも、あの時間を僕に知られたくないのか。
「僕たちは、どういう関係だった?」
紬はしばらく答えなかった。
やがて、震える声で言った。
「あなたは、私を愛していました」
胸が大きく鳴る。
「そして私も、あなたを愛していました」
紬はそこで一度言葉を切った。
愛していた、と過去形にしたことが、彼女自身を傷つけたようだった。
「……だから、あなたを信じるのが怖いんです」
小さな声だった。
初めて会った少女から、失ったはずの未来を告げられる。
紬は写真を裏返した。
そこには、三十六歳の僕によく似た文字で、一行だけ書かれていた。
『紬を殺した日の朝、最後に撮った写真』
顔を上げる。
紬の目から、一筋だけ涙がこぼれていた。
彼女はすぐに拭おうとしたが、途中で手を止めた。
僕に見られることを拒むように顔を背け、それでも席を立たず、僕の前に残った。
「朝倉さん」
彼女は泣きながら、僕へ問いかけた。
その呼び方には距離があった。
けれど、声の奥には、何度も僕の名前を呼んできた人だけが持つ親しさがあった。
「今度こそ、私を殺さずにいてくれますか?」




