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父さんが逃げた夜

『整備責任者――朝倉誠司』


 画面に表示された父さんの名前を、何度も読み返した。


 見間違いではない。


 トラックに異常があることを示す警告は、事故の三時間以上前に出ていた。


 それを解除し、運行を許可した人物として、父さんの名前が記録されている。


「事故を起こしたトラックを送り出したのは、父さんだった……」


「お兄?」


 背後から聞こえた声に、慌てて画面を閉じた。


 日和が部屋の入口に立っている。


「何を見てたの?」


「なんでもない」


「今、父さんって言った?」


 日和の表情が固くなった。


「日和。父さんは今、どこにいる?」


「知らない」


「連絡先は?」


「知らないってば」


 声に怒りが混じる。


「あの人の話なんてしたくない」


「でも、聞かなきゃいけないことがある」


「お母さんを殺した人に?」


 その言葉が、胸に突き刺さった。


「警察は整備不良が原因だって言ってた。父さんが点検したトラックだったって」


「だから家を出たのか?」


「逃げたんだよ」


 日和が僕から目を逸らす。


「お母さんのお葬式が終わってすぐ、私たちを置いていなくなった」


 元の時間でも、父さんは家を出ていた。


 ただし、そのきっかけは母さんの死ではない。


 日和の死だった。


 失われた人が変わっても、父さんが家族からいなくなった結果は変わっていない。


「電話番号は変わってないと思う」


 日和が小さな声で言った。


「でも、私は絶対に会わないから」


「分かった」


「今さら謝られても、お母さんは帰ってこないよ」


 日和はそれだけ言い残し、部屋を出ていった。


     ◇


 父さんは、三回目の電話でようやく出た。


『……遥斗か?』


 七年ぶりに聞く父親の声だった。


「会って話がしたい」


『日和も一緒か?』


「僕ひとりだ」


『そうか』


 父さんは少し安心したように息を吐いた。


『あの子は、俺に会いたくないだろうからな』


 指定されたのは、町外れにある小さなファミリーレストランだった。


 窓際の席で待っていた父さんは、僕の記憶よりずっと老けていた。


 髪には白いものが混じり、頬も痩せている。


「久しぶりだな」


「ああ」


 向かいの席へ座る。


 父さんの前には、手をつけられていないコーヒーが置かれていた。


「日和は元気か?」


「自分で確かめればいい」


「俺に、そんな資格はない」


「そうやって、また逃げるのか?」


 父さんの肩がわずかに動いた。


 僕はスマートフォンに保存した点検記録を開き、テーブルの上へ置いた。


「この記録について教えてほしい」


 画面を見た瞬間、父さんの顔から血の気が引いた。


「どこで、これを……」


「答えてくれ。事故の日、トラックに異常があることを知っていたのか?」


 父さんは、すぐには答えなかった。


 窓の外へ目を向ける。


「知っていた」


 やがて、掠れた声で認めた。


「午後六時四十分、十七号車からブレーキ圧力の異常が出た」


「それなのに、どうして運行を許可した?」


「上司から、センサーの故障だと言われた」


「本当に信じたのか?」


「……信じたかった」


 父さんの手が震えている。


「あの日は配送が遅れていた。十七号車を止めれば、大口の契約を失う。会社の経営も厳しかった。今月も人を雇い続けたければ、車を出せと言われた」


「だから、異常を無視した?」


「確認し直すと言った。だが、上司は必要ないと」


「父さんは整備責任者だったんだろ!」


 店内の視線が僕たちへ集まる。


 それでも声を抑えられなかった。


「止められたのは父さんだけだった!」


「分かっている!」


 父さんが初めて声を荒らげた。


 すぐに俯き、両手で頭を抱える。


「分かっているんだ……七年間、一日も忘れたことはない」


 僕は何も言えなくなった。


「異常はセンサーのせいかもしれない。何事もなく帰ってくるかもしれない。そう自分に言い聞かせて、点検記録に署名した」


「そのあと、トラックを止めようとは思わなかったのか?」


「何度も思った」


「なら、どうして!」


「怖かったんだ!」


 父さんが顔を上げる。


 目には涙が浮かんでいた。


「仕事を失うのが怖かった。上司に逆らうのが怖かった。自分の判断が間違っているかもしれないと思うと、何もできなかった」


「仕事を失ったら、僕たちを養えなくなると思ったのか?」


 父さんは、しばらく黙っていた。


「……ああ」


 やがて、低い声で答える。


「家のローンも残っていた。お前は大学に通っていたし、日和もいずれ大学へ進むかもしれなかった。俺が仕事を失えば、生活が立ち行かなくなる。母さんにも苦労をかける。そう思った」


「だから、家族を守るために仕事を失いたくなかった?」


「そうだ。少なくとも、あのときの俺はそう思っていた」


 父さんは自嘲するように笑った。


「仕事を守れば家族を守れると思った。でも、本当は違った。仕事を失うことより、家族を失うことのほうが、ずっと取り返しがつかなかった」


 その言葉を、僕は知っている。


 失敗するのが怖くて、大事な場面から逃げる。


 そして、本当に大切なものを失ってから、どうして行動しなかったのかと後悔する。


 父さんは、僕と同じだった。


「事故の知らせを聞いたとき、最初に考えたのは母さんのことじゃなかった」


 父さんの声が震える。


「自分の署名が見つかったらどうしよう、だった」


 拳を強く握り締めている。


「病院で美和が死んだと聞いて、ようやく自分が何をしたのか分かった」


 未来の僕が言っていた。


『父さんも、逃げただけなんだ』


 許されることではない。


 父さんが勇気を出していれば、事故は起きなかった。


 けれど、父さんだけを責めても母さんは救えない。


「父さん」


「なんだ」


「もし事故の日に戻れるなら、どうすればトラックを止められる?」


 父さんが驚いた顔で僕を見る。


「何を言ってる?」


「答えてくれ」


「過ぎたことだ」


「僕は過ぎたことを聞いてるんじゃない!」


 テーブルの上へ身を乗り出す。


「あの日の午後六時四十分に戻れたとして、何をすれば全員を救えるのか聞いてるんだ!」


 父さんは黙り込んだ。


 冗談を言っていると思ったのかもしれない。


 それでも、僕の目を見て何かを感じたのだろう。


「十七号車のエンジンをかけさせない」


「鍵を隠すのか?」


「それだけでは予備の鍵を使われる」


 父さんは点検記録を指差す。


「警告が出た時点で、車両の主電源を切る。運転席の下にある赤い遮断レバーを引けば、整備担当者が解除するまでエンジンは動かない」


「場所は?」


「東都運送の第三車庫。事故の日、十七号車が出発したのは午後八時三分だ」


 事故が起きる二時間以上前。


 日和から電話がかかってくるのを待っていては遅い。


「父さん。もし十九歳の僕が突然現れて、トラックを止めろと言ったら信じるか?」


「信じないだろうな」


「どうすれば信じる?」


 父さんは考え込んだあと、静かに答えた。


「警告番号は『B七一九』。その番号は、俺と異常を報告した整備員しか知らなかった」


「B七一九……」


「それを遥斗が知っていたら、少なくとも話は聞く」


 必要なことは聞けた。


 席を立とうとすると、父さんが僕を呼び止めた。


「遥斗」


「なに?」


「あの日に戻れるなら……」


 父さんの唇が震える。


「俺に、逃げるなと伝えてくれ」


     ◇


 家へ戻り、USBメモリの中にある最後のファイルを開いた。


『十九歳の僕へ』


 パスワード入力画面が表示される。


 その下には、未来の僕からのヒントがあった。


『僕たち三人が、人生を変えるためにやめること』


 父さんの言葉を思い出す。


 僕も父さんも、大切な場面から逃げた。


 キーボードに文字を入力する。


『逃げる』


 エラーが表示された。


 少し考え、もう一度入力する。


『逃げない』


 ロックが解除された。


 画面に、短い文章とひとつのボタンが現れる。


『午後六時四十分、東都運送第三車庫へ行け。


 十七号車の警告番号はB七一九。


 運転席の下にある赤い遮断レバーを引け。


 日和から電話が来るまで待つな。


 二十六歳の僕より』


 文章の下にあるボタンには、こう書かれていた。


『過去へ送信』


「未来の僕が証拠を用意して、現在の僕が答えを見つける」


「そして、過去のはる坊が原因を変える」


 机の上に、小さな神様が座っていた。


 勝手に冷蔵庫から持ち出したプリンを食べている。


「それ、僕のプリンだぞ」


「神様への報酬です」


「いつからいた?」


「『逃げない』って入力したところから」


「一番恥ずかしいところじゃないか」


「いい言葉だったよ。ちょっとだけ見直した」


 神様は空になった容器を置き、画面を指差した。


「あとは、今のはる坊が決めるだけ」


「このボタンを押せば、七年前の僕に届くのか?」


「届くよ。ただし、今度は君が過去の身体を動かすんじゃない」


「十九歳の僕自身が動く……」


「信じるか、逃げるか。決めるのは過去のはる坊だよ」


 もし十九歳の僕が、未来からのメッセージを悪ふざけだと思えば終わりだ。


 けれど僕は、未来の自分から届いた手紙を信じた。


 なら、過去の僕も信じてくれる。


 信じて動いてくれなければ、何も変わらない。


「頼むぞ、十九歳の僕」


 僕は『過去へ送信』を押した。


     ◇


 七年前。


 九月十七日、午後六時三十分。


 十九歳の朝倉遥斗は、自宅のベッドに寝転びながらスマートフォンを眺めていた。


 友人から、今夜ゲームをしようとメッセージが届いている。


 返事を打とうとした瞬間、見覚えのない通知が画面に現れた。


『二十六歳の朝倉遥斗から、メッセージが届きました』


「……は?」


 通知を開く。


『今夜、日和から最後の電話がかかってくる。


 その前に、父さんを止めろ』


 遥斗は悪ふざけだと思い、画面を閉じようとした。


 しかし、最後に書かれていた一文を見て、指が止まる。


『これを無視すれば、家族の誰かが死ぬ』

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― 新着の感想 ―
家族の生活を考えると、仕事を失うのが怖くて上司に逆らえなかったお父さんの事情もリアルですね。「俺に、逃げるなと伝えてくれ」という言葉に、後悔の深さを感じました。
>>「家のローンも残っていた。日和はまだ小さかったし、お前も大学へ進むかもしれなかった。俺が仕事を失えば、生活が立ち行かなくなる。母さんにも苦労をかける。そう思った」 お前も進学していたし、日和も大…
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