救われた妹と、死んだ母
「今日は、お母さんの七回目の命日なんだから」
日和が何を言っているのか、分からなかった。
「母さんが……死んだ?」
「ちょっと、やめてよ」
日和の顔が曇る。
「いくら行きたくないからって、そんな言い方しないで」
「違う。本当に知らないんだ」
「何を?」
「母さんが死んだことを」
日和は、しばらく僕を見つめていた。
「……まだ寝ぼけてるの?」
枕元のスマートフォンをつかみ、連絡先を開く。
母さんの名前を探した。
『母』
登録は残っていた。
震える指で電話をかける。
機械的な音声が流れた。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
「そんな……」
何度かけ直しても、同じだった。
「お兄、どうしたの?」
「母さんは、いつ死んだ?」
「本当に覚えてないの?」
「頼む。教えてくれ」
日和は戸惑いながら、買い物袋を床へ置いた。
「七年前の今日。私たちが駅から帰った夜だよ」
胸の奥が冷たくなる。
「あのトラックが、私たちの前を通り過ぎたでしょ」
「ああ」
「その先の交差点で、お母さんの車とぶつかったの」
あのとき聞こえた、大きな衝突音。
僕は思い出した。
赤信号を無視したトラックは、速度を落とさないまま雨の向こうへ消えていった。
その直後、遠くで何かがぶつかる音がした。
けれど僕は、生きている日和を抱き締めることに必死で、振り返らなかった。
「嘘だ……」
「運転手は助かった。でも、お母さんは病院に着く前に亡くなった」
日和の声が震えていた。
「私、ずっと考えてた」
「何を?」
「あのとき、私が横断歩道を渡ってたらって」
日和が俯く。
「あのトラックは、私にぶつかって止まってた。そしたら、その先にいたお母さんは死ななかったんじゃないかって」
「日和、それは違う」
「じゃあ、なんで私じゃなくてお母さんが死んだの?」
答えられなかった。
七年前までの僕と、同じだった。
日和は母さんの死を、自分のせいだと思って生きてきた。
僕が背負っていた後悔を、今度は日和に背負わせてしまったのだ。
「ごめん……」
「なんでお兄が謝るの?」
僕は妹を救った。
その代わりに、母さんを殺した。
◇
墓地には、朝から降り続けている雨の音だけが響いていた。
墓石には『朝倉家之墓』と刻まれている。
日和が供えた花の隣に、母さんが好きだった甘い缶コーヒーを置いた。
「お母さん、今年も来たよ」
日和は無理に笑っていた。
僕は何も言えなかった。
この下に、本当に母さんが眠っている。
七年前まで存在していたはずの記憶が、頭の中にはひとつもない。
「私、飲み物を買ってくる」
「ああ」
「勝手に帰らないでよ」
日和が墓地の入口へ向かう。
その背中が見えなくなったところで、僕は墓石に手をついた。
「母さん……」
冷たい石の感触が、これが現実なのだと突きつけてくる。
「ずいぶん暗い顔してるねえ」
墓石の上から、幼い声がした。
顔を上げる。
小さな神様が、母さんへの缶コーヒーを勝手に飲もうとしていた。
「それに触るな」
「神様へのお供えじゃないの?」
「母さんのだ」
「相変わらず細かいなあ、はる坊は」
神様は缶から手を離すと、墓石の上で足をぶらつかせた。
「お前、知ってたのか?」
「何を?」
「日和を助けたら、母さんが死ぬことを」
「知ってたよ」
悪びれもせず、神様は答えた。
僕はその小さな胸ぐらをつかんだ。
「どうして言わなかった!」
「言ったでしょ。やり直しは無料じゃないって」
「これが代償なのか?」
神様の身体をつかむ手に力が入る。
「一人を救えば、誰かが代わりに死ぬ。それがお前の決めたルールなのか!」
「半分正解」
「半分?」
「確かに君が一人を救ったことで、別の誰かが死んだ」
神様は僕の手を振り払い、墓石から飛び降りた。
「でも、神様が命をひとつずつ数えて、交換したわけじゃないよ」
「じゃあ、どうして母さんが死んだ」
「はる坊が止めたのは、妹ちゃんが横断歩道へ出ることだけだったから」
神様が墓地の向こうを指差す。
そこには何もない。
ただ、七年前と同じ雨が降っている。
「君は妹ちゃんを見ていた。横断歩道も見ていた。でも、走り去ったトラックが、その先でどうなったのかは見なかった」
あの衝突音が、耳の奥で蘇る。
「結果だけを変えて、原因を残した」
「原因……」
「原因が残っている限り、行き先を失った悲劇は、別の場所へ流れていく」
神様は人差し指を立てた。
「だから、過去で変えなきゃいけないのは結果じゃない。原因だよ」
「もう一度、七年前に戻せ」
「無理」
「母さんを助けるんだ!」
「今のはる坊が過去へ戻っても、また誰かを目の前で助けるだけ。そうすれば、見えない場所で別の誰かが死ぬ」
「じゃあ、どうすればいい」
神様は首から下げた壊れた懐中時計を持ち上げた。
「三つの時間を使う」
「三つ?」
「過去は、原因を変える場所」
止まった長針が、逆向きに小さく動く。
「未来は、必要なものを用意する場所」
今度は短針が、前へ進む。
「そして現在は、どの結果を残すのか決める場所」
二本の針が重なった。
「ひとつの時間だけじゃ、誰も救えない」
「未来って……十年後の僕のことか?」
「さあねえ」
神様は、いたずらっぽく笑った。
「本人に聞いてみたら?」
ポケットの中で、スマートフォンが震え始めた。
画面を見る。
表示されているのは、電話番号ではなかった。
『朝倉遥斗 三十六歳』
「なんだ、これ……」
「出ないの?」
神様が僕を見上げる。
「電話を無視して後悔するのは、もうやめたんでしょ?」
僕は通話ボタンを押した。
「もしもし」
一瞬の雑音。
その向こうから、低く掠れた男の声が聞こえた。
『ようやく繋がったな』
自分の声だった。
しかし、今の僕よりずっと疲れている。
『初めまして、二十六歳の僕』
電話の向こうで、十年後の僕が言った。
『母さんを救う方法を、未来で用意した』




