今度こそ、電話に出る
時計の針が、凄まじい速さで逆向きに回っていく。
雨粒が空へ昇り、駅前を歩いていた人々が後ろ向きに遠ざかっていく。
身体が引き裂かれるような感覚に、僕は目を閉じた。
次に聞こえたのは、雨音ではなかった。
スマートフォンの着信音だった。
「……え?」
目を開ける。
見覚えのある暗い部屋。
机の上には、食べかけの菓子とゲームのコントローラーが置かれている。隣では、友人が画面を見ながら笑っていた。
机の上で、スマートフォンが震えている。
表示されていた日付は、九月十七日。
七年前。
そして、画面に浮かんでいた名前は――。
『日和』
息が止まった。
これは夢ではない。
何千回、何万回と願った瞬間が、目の前にある。
「誰から?」
友人が尋ねた。
七年前と同じ言葉だった。
「妹だ」
「迎えに来てほしいってやつ?」
指が震える。
あの日の僕は、このスマートフォンを裏返した。
たったそれだけの行動で、日和のいない七年間が始まった。
もう二度と間違えない。
僕は通話ボタンを押した。
「もしもし!」
『お兄、やっと出た!』
懐かしい声が耳に届く。
胸の奥に押し込めていたものが、一気に溢れ出した。
『雨すごいんだけど。傘忘れたから、駅まで迎えに来てくれない?』
「日和……」
『なに?』
「日和なんだよな?」
『はあ? 名前まで忘れたの?』
呆れた声。
間違いない。
ずっと聞きたかった、日和の声だ。
『お兄? どうしたの?』
「そこから動くな」
『え?』
「絶対に駅から出るな。すぐに行く」
『ちょ、声大きいって――』
通話を切り、僕は部屋を飛び出した。
「おい、遥斗! ゲームはどうすんだよ!」
「悪い! 妹のほうが大事なんだ!」
階段を駆け下りる。
身体が軽い。
二十六歳の僕とは違う、十九歳の身体だ。
玄関にあったビニール傘をつかみ、雨の中へ飛び出した。
◇
東口駅まで、走れば十分ほど。
日和が事故に遭ったのは、駅から家へ向かう途中にある大きな交差点だった。
時刻は十時二十二分。
あと三分。
雨で滑りそうになる足を無理やり前へ出す。
信号の光が滲んで見えた。
もうすぐ日和が、あの交差点へ来る。
間に合え。
今度こそ、間に合ってくれ。
「お兄!」
駅の屋根の下に、制服姿の日和が立っていた。
七年前の姿のまま。
少し不機嫌そうな顔で、僕に向かって手を振っている。
「遅い! びしょ濡れじゃん」
「日和!」
僕はその身体を抱き締めた。
「うわっ! なに!?」
「よかった……生きてる」
「なに言ってんの? 気持ち悪いんだけど」
日和が僕の胸を押し返す。
その手は温かかった。
生きている。
それだけで、涙が止まらなかった。
「ちょっと、本当にどうしたの?」
「なんでもない」
「なんでもない人は、妹を見て泣かないでしょ」
「帰ろう。ただし、僕から離れるなよ」
「今日のお兄、やっぱり変だよ」
日和と一本の傘に入り、家へ向かう。
腕時計は、十時二十四分を示していた。
問題の交差点が見えてくる。
歩行者用信号が青へ変わった。
日和が一歩、横断歩道へ踏み出す。
「待て!」
僕は日和の腕をつかみ、歩道へ引き戻した。
「痛っ! なにすんの――」
耳をつんざくようなクラクションが鳴った。
大型トラックが赤信号を無視し、猛スピードで横断歩道を通過していく。
僕たちの目の前を。
あの日、日和の命を奪ったトラックだった。
トラックは速度を落とさないまま、雨の向こうへ消えていった。
「今の……」
日和の顔から血の気が引いていた。
「渡ってたら、私……」
「大丈夫だ」
震える日和の手を握る。
「もう、大丈夫だから」
間に合った。
今度こそ、妹を救えた。
遠くで、大きな衝突音が聞こえた。
けれど僕は、日和を抱き締めることに必死で、その音の意味を考えなかった。
やがて周囲から、すべての音が消えた。
雨粒が空中で止まっている。
交差点の信号も、人も、車も動かない。
「おめでとー。妹ちゃん救出、大成功」
幼い声に振り返る。
ガードレールの上に、あの小さな神様が座っていた。
「日和を助けられた」
「うん。よかったねえ、はる坊」
神様は笑顔で小さく拍手した。
「これで未来は変わるんだな?」
「もちろん変わるよ」
神様は首から下げた壊れた懐中時計を指で揺らす。
「でも、はる坊が変えたのは結果だけ」
「結果?」
「妹ちゃんが死ぬっていう結果」
「それの何が悪い」
「悪くないよ。妹ちゃんを助けたかったんでしょ?」
神様は笑っている。
なのに、その瞳だけは少しも笑っていなかった。
「ただし、妹ちゃんを死なせた原因は、まだ残ってる」
「どういう意味だ?」
「それを見つけるのが、はる坊の人生攻略だよ」
神様が指を鳴らした。
止まっていた時計の針が、一気に動き始める。
「待て! まだ話は――」
「現在へ、おかえり」
世界が白い光に包まれた。
◇
「お兄、いつまで寝てるの?」
聞き覚えのある声で、目を覚ました。
薄暗い部屋。
枕元のスマートフォンには、九月十七日、午後五時四十二分と表示されている。
七年後へ戻ってきた。
「お兄ってば」
部屋の扉が開く。
そこに立っていたのは、二十三歳になった日和だった。
「……日和」
「なに、その顔」
日和は呆れたように笑った。
制服姿ではない。
髪は七年前より長くなり、手には買い物袋を提げている。
「本当に、日和なんだよな?」
「寝ぼけてるの?」
ベッドから転がるように起き、日和の肩をつかんだ。
「生きてる」
「勝手に殺さないでよ」
日和が僕の手を払いのける。
その仕草も、声も、表情も、僕の知らない七年間を生きてきた日和のものだった。
「よかった……」
目の奥が熱くなる。
七年前へ戻ったのは夢ではなかった。
僕は失敗を変えた。
妹を救うことができたのだ。
「急いで準備してよ」
「準備?」
「今日、行くって言ってたでしょ」
日和の表情から笑みが消えた。
嫌な予感がした。
「どこへ?」
「お墓参り」
「誰の……?」
日和は驚いた顔で僕を見た。
「誰って、お母さんに決まってるでしょ」
頭の中が真っ白になる。
「今日は、お母さんの七回目の命日なんだから」




