妹からの最後の着信
妹からの最後の電話を、僕は七年間、取り続けている。
夢の中でだけ。
暗い部屋に着信音が響く。
机の上で震えているスマートフォンには、見慣れた名前が表示されていた。
『日和』
三歳下の妹だ。
電話に出なければならない。
今すぐ出て、駅まで迎えに行くと伝えなければならない。
そう分かっているのに、十九歳の僕はスマートフォンを裏返した。
「誰から?」
隣にいた友人が尋ねる。
「妹。迎えに来てほしいって」
「どうする?」
「放っておけば、一人で帰るだろ」
着信音が止まる。
少しの静寂を挟んで、もう一度スマートフォンが震え始めた。
頼む。出てくれ。
夢の中でもうひとりの俺が叫んでいる。
しかし、十九歳の僕には届かない。
二度目の着信も止まる。
それが、妹からの最後の電話になった。
◇
「日和!」
自分の叫び声で目が覚めた。
息が苦しい。寝汗でシャツが背中に張りついている。
薄暗い部屋には、脱ぎ捨てた服と空になった缶が散らばっていた。カーテンの隙間から差し込む夕日が、床に細い線を作っている。
枕元のスマートフォンを手に取る。
九月十七日、午後五時四十二分。
僕――朝倉遥斗の二十六歳の誕生日だった。
同時に、妹の七回目の命日でもある。
日和は僕の三歳下で、十六歳のときに亡くなった。
通知欄には、母からの不在着信が一件。
そして会社から届いたメールが一通。
『退職手続きに関するご案内』
画面を閉じた。
三日前、僕は会社を辞めた。
正確には、辞めるように仕向けられた。
任されていた仕事で大きな失敗をして、それを誰にも相談できず、問題が取り返しのつかないところまで膨らんだ。
七年前から何も変わっていない。
失敗するのが怖くて、大事な場面から逃げる。そして本当に大切なものを失ってから、どうして行動しなかったのかと後悔する。
玄関の郵便受けから、何かが落ちる音がした。
重い身体を起こし、玄関へ向かう。
床に一通の白い封筒が落ちていた。
切手も消印もない。
表には、僕の名前だけが書かれている。
『朝倉遥斗へ』
見覚えのある文字だった。
僕自身の字に、よく似ている。
封筒を開くと、中には古びた便箋が一枚入っていた。
『二十六歳の僕へ。
今夜、十時二十五分に東口駅前の時計へ行け。
時計が十時二十五分を指す前に、文字盤へ触れろ。
日和を救える機会は、それが最後だ』
何度も読み返した。
誰かの悪ふざけだと思った。
今日が日和の命日だと知っている人間は限られている。僕をこんな方法で傷つけるような知り合いにも心当たりはない。
便箋の下には、もう一行だけ続いていた。
『僕と同じ失敗をするな。三十六歳の朝倉遥斗より』
十年後の僕からの手紙。
信じられるはずがなかった。
それでも僕は、午後十時十五分、東口駅の前に立っていた。
雨が降っていた。
日和が亡くなった夜と同じ、冷たい雨だった。
駅前広場の中央に、古い時計塔がある。
子どもの頃、日和と待ち合わせに使っていた時計だ。再開発に伴い、明日には撤去されるらしい。
時刻は十時二十四分。
「文字盤に触れろって……どうやって登るんだよ」
「ほんっと、七年経っても頭が固いねえ」
突然、頭上から幼い声が聞こえた。
見上げる。
時計塔の針の上に、小さな子どもが座っていた。
年齢は八歳くらいだろうか。白く大きな服から細い手足を出し、首には壊れた懐中時計を下げている。
雨に打たれているはずなのに、髪も服も濡れていない。
「危ないぞ! 早く降りろ!」
「神様に向かって最初の言葉がそれ?」
子どもは頬を膨らませた。
「まあいいや。こんばんは、はる坊」
「……誰だ、お前」
「今言ったでしょ。神様だよ」
子どもは時計の針から飛び降りた。
反射的に両手を伸ばす。しかし、その身体は羽のようにゆっくりと落ち、僕の目の前に着地した。
駅前の時計が、十時二十五分を示す。
子どもは僕を見上げ、いたずらっぽく笑った。
「人生、盛大に失敗してるねえ」
「放っておけ」
「そんなはる坊に、神様から特別サービスです」
小さな手が差し出される。
「七年前に戻って、妹を助けたい?」
雨音が遠ざかる。
答えは、七年前から決まっていた。
「助けたい」
「即答か。うんうん、家族愛は美しいねえ」
子どもは笑ったまま、ほんの一瞬だけ寂しそうな目をした。
「でも覚えておいて。やり直しは、無料じゃないよ」
時計の針が十時二十五分を指した。
僕がその手を取った瞬間、時計の針が逆向きに回り始めた。




