欠けた名前
残り三十八秒。
十九歳の僕が走る。
旧改札へ続く通路。
その後ろを、二十六歳と三十六歳の僕が追う。
「二二五番は、この先だ!」
三十六歳の僕が叫ぶ。
駅は、三つの時間に裂けていた。
焼けた壁。
透ける案内板。
閉鎖された通路を横切る、未来の床。
一歩ごとに景色が変わる。
小さな神様も走っている。
白い短髪。
小さな身体。
輪郭が、光へ溶けかけていた。
「はる坊」
神様が僕を見る。
「ボク、走れてる?」
「ああ」
「置いていかれてない?」
「三人とも、君を追ってる」
十九歳の僕が答える。
触れられない。
それでも神様は笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に古い声がよみがえった。
――おいで、迷子。おかえり、ナギ。
雨の音に混じって、誰かがそう呼んでいた。
けれど、声の主も、その名前を誰が呼んだのかも思い出せない。
「ナギ……?」
口にしかけた音は、喉の奥で途切れた。
神様が振り返る。
「今、何か言った?」
「いや……何でもない」
残り三十一秒。
旧改札。
錆びたシャッター。
並ぶコインロッカー。
二二五番だけが、三つの時間で形を変えていた。
焼け焦げた扉。
黄ばんだ扉。
塗り直された扉。
あのとき炎の中で開けたのは、十九歳の時間にある二二五番だけだった。
今、目の前のロッカーには、三つの時間が重なっている。
「どれを開ける?」
「全部だ」
三十六歳の僕が答える。
「このロッカーも、三つに分かれている」
二十六歳の僕が触れる。
指がすり抜けた。
『登録された時間と一致しません』
懐中時計に文字が浮かぶ。
『二二五番ロッカーの開錠には、三つの時間から同時に接触してください』
「また三人か」
十九歳の僕が笑う。
「今度は分かりやすい」
「失敗できない」
三十六歳の僕が時計を見る。
残り二十六秒。
三人で並ぶ。
焼けた取っ手。
黄ばんだ取っ手。
新しい取っ手。
それぞれへ手を伸ばす。
「せーのでいくぞ」
「十九歳らしくないな」
「じゃあ、勝手に開ける」
「待て。合わせろ」
「結局どっちだよ!」
「二人とも、急いで!」
神様の声。
その声に重なるように、別の記憶が一瞬だけ浮かんだ。
夕暮れの駅前で、誰かが僕の袖を引いている。
「ねえ、ちゃんと名前で呼んで」
幼い声だった。
僕は確かに答えたはずなのに、肝心の名前だけが抜け落ちている。
ただ、呼びかけの最初に、短い音があった。
ナ――。
その先が、黒い霧に覆われる。
三人の手が動く。
三つの扉が重なる。
鍵の外れる音。
一つ。
残り二十二秒。
扉が開いた。
中には木箱。
古くも新しくもない。
時間から切り離されたように、傷一つない。
蓋に、十六歳の僕の字。
『この子の名前を忘れた僕へ』
神様が止まる。
「これ……ボクの?」
「そうだ」
時計の影から、最初の僕の声。
姿はない。
『僕が預けた。君が時間に消されないように』
「どうして教えてくれなかったの?」
『名前を戻せば、止めた時間も動き出す』
神様の輪郭が揺れる。
『守るには、君自身から名前を隠すしかなかった』
「守るために、忘れさせたの?」
返事はない。
神様が木箱へ手を伸ばす。
指が蓋を抜ける。
「開けられない……」
「僕たちが開ける」
三人で手を重ねる。
今度は重さがあった。
蓋を上げる。
紙。
銀色の鈴。
紙を開く。
中央に名前。
だが、大半が黒く欠けている。
最初の二文字と、最後の一文字が読めない。
それでも、中央に残った線は、見覚えのある形をしていた。
「ナ……」
十九歳の僕が呟く。
紙の中央に残った一画が、鈴の音のように細く震える。
その線を見た瞬間、また別の記憶がよみがえった。
夏の縁側。
風鈴の音。
膝を抱えた小さな少女。
僕は何度も、その子を呼んでいた。
「大丈夫。ここにいるよ」
呼びかけの前に、確かに名前を置いていた。
「ナギ。大丈夫。ここにいるよ」
けれど、最後の音だけが霧の向こうに隠れている。
「読めない……」
二十六歳の僕が呟く。
『識別情報は復元できません』
懐中時計が告げる。
『残り時間――十五秒』
「ここまで来て、それはないだろ!」
十九歳の僕が紙を握る。
「破れる!」
「やめろ!」
三十六歳の僕が止める。
神様は欠けた名前を見つめていた。
「ボク、この字を知ってる」
「思い出せるのか?」
「分からない。でも……呼ばれたことがある」
銀色の鈴を見る。
「ずっと前に、誰かが呼んでくれた」
その言葉に、三人の記憶が重なりかけた。
雨の旧改札で、濡れた手を握った記憶。
「ナギ、こっちだ」
台所で、半分のプリンを差し出した記憶。
「ナギの分、残してあるよ」
時計塔の下で、同じ少女が振り返った記憶。
「その名前、忘れないで」
どの場面でも、僕は彼女を同じ名前で呼んでいた。
なのに、名前だけがない。
十九歳の僕が鈴を持つ。
振る。
鳴らない。
代わりに、記憶が流れ込む。
雨の旧改札。
プリンを分けた台所。
未来の時計塔の写真。
どの記憶でも、僕は同じ少女を呼んでいた。
声だけがない。
名前だけが切り取られている。
残り十秒。
「三人で思い出すんだ」
二十六歳の僕が言う。
「消された音を重ねる」
目を閉じる。
雨音を消す。
鐘の音を消す。
冷蔵庫の音を消す。
さらに、遠い記憶の中に残っていた風鈴の音も消す。
記憶に、声だけが残る。
最初の音。
ナ。
続く音。
ギ。
最後の、小さな響き。
それは、かつて僕たちが何度も口にした呼びかけだった。
「おかえり」と言う前に。
「大丈夫」と伝える前に。
「ここにいる」と約束する前に。
必ず、その名前を呼んでいた。
ナギ。
三つの記憶が重なる。
欠けた紙に、白い文字が浮かぶ。
神様が息を呑む。
「それが……ボクの名前?」
「ああ」
三十六歳の僕が答える。
「ずっと、そう呼んでいた」
残り五秒。
『識別情報を登録してください』
神様の身体が透ける。
足元が光になる。
「早く!」
遠くで日和が叫ぶ。
三人の僕が神様を見る。
同じ顔。
違う時間。
名前だけは、同じだった。
「君を一人にしない」
十九歳の僕。
「忘れても、見つける」
二十六歳の僕。
「未来から、君を消させない」
三十六歳の僕が手を伸ばす。
残り三秒。
三人で名前を呼ぶ。
「ナギ!」
その名前は、昔から何度も呼んできたはずなのに、今初めて世界へ届いた。
声が鐘に消える。
銀色の鈴が鳴る。
初めて。
神様の瞳から涙。
「思い出した」
残り二秒。
「それが、ボクの名前だ」
残り一秒。
神様が笑う。
次の瞬間。
消えた。
床に、銀色の鈴だけが落ちる。
懐中時計がゼロを示す。
『識別情報――登録完了』
『未確定存在――処理完了』
「神様……?」
返事はない。
少女だけが、すべての時間から消えていた。




