鈴の向こう側
銀色の鈴が、床の上を転がった。
澄んだ音が一度だけ響き、閉鎖された旧改札の奥へ消えていく。
けれど、ナギの姿は戻らない。
「ナギ!」
十九歳の僕が叫ぶ。
返事はなかった。
懐中時計には、二行の文字が浮かんでいる。
『識別情報――登録完了』
『未確定存在――処理完了』
「処理って何だよ。ナギを消したのか?」
『処理は完了しました』
「そんな答えを聞いてるんじゃない!」
時計を振っても表示は変わらない。
三十六歳の僕が、床の鈴へ手を伸ばした。
触れる直前、鈴が小さく震える。
「待て。今、動いた」
三つに重なっていた駅は、すでに一つへ戻っていた。
焼けた壁も未来の床もない。二二五番ロッカーは空で、木箱も名前の紙も消えている。
残されたのは、鈴だけだった。
十九歳の僕が膝をつく。
「僕が触る」
二十六歳の僕が腕をつかんだ。
「何が起きるか分からない」
「分からないから確かめるんだ」
制止を振り切り、十九歳の僕は鈴を拾った。
冷たい。
金属ではなく、指先から体温と記憶を吸い取るような冷たさだった。
懐中時計の三本の針が逆回転する。
「離せ!」
二十六歳の僕が腕をつかむ。
だが、十九歳の僕は鈴を握ったまま目を閉じた。
「聞こえる。雨の音だ」
鈴の表面に水滴が浮かび、床へ落ちた。
濡れた場所だけ景色が変わる。
古い駅のタイル。
壊れていない二二五番ロッカー。
午後十時二十五分を指す時計。
遠くで雨が屋根を叩いていた。
「十六歳の僕が、ナギと出会った夜か?」
三十六歳の僕は写真を取り出した。
未来の時計塔を写していたはずの写真は白くなり、中央に銀色の点だけが残っている。
「名前を取り戻したのに、どうして消えたんだよ」
「名前の登録と、存在の定着は別だったんだ」
「どういう意味だ?」
「ナギが誰なのかは確定した。でも、どの時間に存在するのかが決まっていない」
そのとき、鈴が鳴った。
今度は三人にも聞こえた。
地面から空へ昇る雨。
終わりから始まりへ逆流する発車ベル。
十三回鳴る時計塔の鐘。
「こんな時間、知らない」
二十六歳の僕が呟く。
三十六歳の僕は逆回転する針を見つめた。
「過去や未来なら、時計は時刻を示す。だが、今は時刻そのものがない」
「じゃあ、どこなんだ?」
「時間軸の外側だ」
鈴に白い文字が浮かぶ。
『識別情報――ナギ』
「残ってる!」
十九歳の僕の声が震えた。
「ナギの名前は、まだ残ってる!」
続いて懐中時計に表示が現れる。
『統合世界内に該当する存在は確認できません』
『転送先を検索しています』
「転送されたのか?」
『検索中』
「ナギは生きているのか?」
『判定不能』
「声は届く?」
『接続先が存在しません』
十九歳の僕が鈴を握りしめる。
「存在しない場所へ送ったのかよ!」
「壊すな」
三十六歳の僕が静かに言った。
「その鈴だけが、ナギにつながっている」
旧改札の奥から足音が響く。
「お兄!」
日和が駆けてきた。後ろには紬もいる。
日和は三人を見回した。
「ナギは?」
名前を覚えている。
それだけで、小さな希望が生まれた。
「時間軸の外側へ転送されたらしい」
「迎えに行ける?」
「転送先が分からない」
「じゃあ、見つければいい」
日和は迷わなかった。
「三人もお兄がいるんでしょ。一人くらい、分からない時間を見つけられるよ」
「簡単に言うなよ」
十九歳の僕が苦笑した。
紬が鈴の前へしゃがむ。
「この音、聞いたことがあります」
「どこで?」
「覚えていません。ただ、ナギが消れたあとではなく、出会う前です」
「出会う前に、ナギの鈴を?」
「はい。姿も名前も知らなかったころに」
三十六歳の僕が目を細める。
「記憶の順序が逆転している。鈴は時間を順番どおりに伝える道具じゃない。時間軸の外側と、こちらをつなぐ接続点なんだ」
彼が懐中時計を操作すると、三本の針の中央に細い白線が現れた。
どの針とも重ならず、やがて四本目の針になる。
『転送先の反応を検出』
『時刻情報――該当なし』
『過去・現在・未来との接続――なし』
「時刻を指してるんじゃない」
三十六歳の僕が言う。
「接続が強くなる方向だ。針の示す先へ鈴を合わせれば、通信できるかもしれない」
突然、表示が消えた。
暗い文字盤の奥で、小さな白い手がガラスへ触れる。
鈴が鳴った。
『……はる坊』
十九歳の僕の顔が歪む。
「ナギ?」
『そこにいるの?』
「いる! 僕たちはここにいる!」
向こう側から、震える呼吸が届く。
三十六歳の僕が時計へ手を伸ばす。
「ナギ、周りに何が見える?」
『分からない。暗くて、何も……』
「ナギ!」
『……怖い』
その一言が、胸を貫いた。
二十六歳の僕が低く、強く告げる。
「怖くない。僕たちが必ず見つける。声を切らさないで」
『三人……いるの?』
「いるよ!」
日和も鈴へ身を寄せる。
「私もいる!」
紬が声を重ねた。
「聞こえています。あなたは一人ではありません」
一瞬、向こうの呼吸が止まった。
『……よかった』
泣き笑いの声を最後に、通信が途切れる。
「ナギ?」
十九歳の僕が鈴を耳へ押し当てる。
返事はなく、雨音だけが残った。
懐中時計の四本目の針が動き、過去でも現在でも未来でもない方向で止まる。
『接続先――特定』
『帰還経路――未確定』
「場所は分かったんだな?」
三十六歳の僕が頷く。
「だが、帰り道がない」
文字盤に、さらに一文が現れた。
『接続を維持するには、誰か一人が向こう側へ移動してください』
日和が息を呑む。
「移動した人は、戻れるの?」
『帰還経路――未確定』
答えは同じだった。
「僕が行く」
十九歳の僕が即答する。
二十六歳の僕が肩をつかんだ。
「待て。戻れないかもしれない」
「ナギも、同じ場所で一人だ」
「だからって、おまえまで消えたら意味がない」
「消えないために名前を見つけた。でも、呼ぶだけじゃ届かなかった」
十九歳の僕は鈴を胸元へ当てた。
「今度は、僕が迎えに行く」
三十六歳の僕が前へ出る。
「向こう側を知る僕が行くべきだ」
「さっき消えかけたばかりだろ」
「だから構造を理解できる」
「二人ともやめて!」
日和の声が旧改札に響いた。
「誰かが消える方法を、すぐ選ばないでよ。ここまで何のために来たの?」
紬が懐中時計を見つめる。
「まだ『一人を選べ』とは書かれていません」
「でも、誰か一人が移動する必要がある」
「移動する人と、残る人が同じ道を持てばいいんです」
二十六歳の僕が顔を上げる。
「三本の針で三つの時間をつないだように、四本目の針をこちら側へ残す?」
「鈴を向こうへ持っていき、懐中時計をこちらへ残す。接続点を両側に作るんです」
三十六歳の僕が頷いた。
「帰還経路は存在しないんじゃない。まだ作られていないだけか」
十九歳の僕は鈴を強く握る。
「なら、僕が道を作る」
四本目の針が十九歳の僕を指した。
足元に、雨に濡れた古いタイルが広がっていく。
向こう側から、鈴の音が返ってきた。
『はる坊……』
今にも消えそうな声。
十九歳の僕は一歩踏み出す。
「待ってろ、ナギ」
四本目の針が、時間軸の外側へ続く扉を指した。
「今度は僕が、君を迎えに行く」




