消えないための証明
残り二分五十九秒。
懐中時計から、三十六歳の僕の声が遠ざかっていく。
『僕の世界は、もう消える』
「待て! まだ時間はある!」
十九歳の僕が叫んだ。
二十六歳の僕は、白く崩れ始めた時計の向こうへ手を伸ばす。
けれど、指先は何もない空間に触れただけだった。
『統合対象外の時間軸を廃棄します』
『対象――朝倉遥斗・三十六歳』
『未確定存在も同時に廃棄します』
隣に立つ小さな神様の輪郭が薄くなる。
「どうして君まで……」
十九歳の僕が伸ばした手は、神様の肩をすり抜けた。
「ボクのことを覚えているのは、みんなの記憶だけだから」
神様は笑おうとした。
けれど、その声は震えていた。
「三十六歳のはる坊の世界が消えたら、ボクがいた証拠も消えちゃう」
「そんなこと、させない」
二十六歳の僕は、銀色のスプーンを握りしめた。
「僕も思い出した。十九歳の僕だって覚えてる。足りないなら、何度でも君のことを話す」
『記憶は存在記録として認められません』
「勝手なこと言うなよ」
日和が時計を睨んだ。
「私は、その子に会ったばかりだけど。お兄たちがあんな顔で呼んでるんだよ。いなかったことになんか、できない」
日和は神様の前にしゃがむ。
「あなた、プリンが好きなんでしょ?」
神様が目を丸くした。
「……好き」
「じゃあ、帰ったら一緒に食べよう」
「ボクのこと、見えるの?」
「見えるよ。ちゃんと、ここにいる」
神様の瞳が揺れた。
けれど、身体は薄くなり続けている。
見えるだけでは足りない。
覚えているだけでも、存在した証明にはならない。
「写真です」
紬が言った。
「三十六歳のあなたが持っている写真には、神様の輪郭が残っていました」
『当該記録は廃棄予定の時間軸に属します』
「なら、その写真ごと三十六歳の僕を連れてこい!」
十九歳の僕が叫ぶ。
『統合後の未来と重複するため、移動できません』
また同じ答えだった。
時計の向こうで、三十六歳の僕の指先が透け始める。
「三十六歳の僕。写真を見せてくれ」
二十六歳の僕が呼びかけた。
『今さら何を――』
「いいから!」
途切れかけた接続に、写真が映る。
未来の時計塔。
紬と日和が笑っている。
二人の間には、小さな神様の白い輪郭が残っていた。
「お前が撮ったんだな」
『ああ』
「僕たちは、その日を知らない」
十九歳の僕が写真を見る。
「僕もだ」
二十六歳の僕も頷いた。
「それは、お前だけが生きた日だ」
時計の文字が揺れた。
『朝倉遥斗・三十六歳は、統合後の未来と重複――』
「重複してない」
十九歳の僕が遮る。
「僕は、その写真を撮ってない」
「僕も撮っていない」
二十六歳の僕が続ける。
「その場所に立ち、二人を笑わせ、この瞬間を残したのは三十六歳の僕だけだ」
『記憶は存在記録として認められません』
「私も覚えています」
紬が時計の前に立った。
「写真を撮る前、私は髪を結び直しました。彼が『そのままでいい』と言ったんです」
日和も写真を見つめる。
「私が撮り直そうって言ったら、お兄は『これでいい』って答えた」
『本当に、覚えているのか?』
三十六歳の僕の声が震えた。
「うん。お兄が、私たちの笑った瞬間を残してくれた」
時計の三本の針が止まる。
『統合後の世界に、同一の記憶を確認』
『記録の作成者――朝倉遥斗・三十六歳』
『重複判定を再審査します』
写真から白い光が伸び、三十六歳の僕の手を包んだ。
「つかめ!」
二十六歳の僕が、光の向こうへ手を伸ばす。
今度は、確かな重さがあった。
「離すな!」
十九歳の僕も、二十六歳の僕の腕をつかむ。
三人の遥斗の手が、一本の線のようにつながった。
「帰るぞ!」
二十六歳の僕が叫ぶ。
「僕たちのところへ!」
力を込めて引き寄せる。
白く崩れていた駅が閉じ、三十六歳の僕が時計塔の床へ倒れ込んだ。
同じ顔。
違う時間。
それでも、その身体には確かな温もりがあった。
『朝倉遥斗・三十六歳』
『独立した意識として統合世界に保持します』
「やった……」
日和が床へ座り込む。
三十六歳の僕は、小さな神様へ手を伸ばした。
ほんの一瞬だけ、指先が触れる。
神様は驚いた顔で、その手を両手で包んだ。
「はる坊が、三人いる」
『今度は、君も一緒に帰ろう』
「……うん」
けれど、神様の輪郭はまだ透けていた。
『未確定存在の判定を継続します』
残り一分十二秒。
「写真にも残ってるだろ!」
十九歳の僕が時計へ詰め寄る。
『記録された輪郭と、本人の識別情報が一致しません』
「識別情報?」
時計の蓋の内側に、文字が浮かぶ。
『名を持たない存在は、統合後の世界に定着できません』
「名前ならある。神様だ」
『それは呼称です』
神様が俯いた。
「ボク、本当の名前が思い出せない」
「時間を戻すうちに忘れたのか?」
「分からない。気づいたときには、なくなってた」
「なくしたんじゃない」
背後から声がした。
焦げた制服の最初の僕が、焼けたノートを持って立っている。
「僕が預けたんだ」
「どこに?」
「二二五番ロッカーだ」
最初の僕は、ノートの最後の頁を開いた。
そこには、十六歳の僕の字で一行だけ残っている。
『名前を忘れたら、最初にその子を呼んだ場所へ戻れ』
「十六歳の僕が、最初に神様と会った場所……」
「旧改札の二二五番ロッカーだ」
最初の僕は頷いた。
「あの子が消えかけた夜、僕は時間を戻した。そのとき、存在まで消えないように本当の名前をロッカーへ預けた」
神様が顔を上げる。
「だから、ボクは名前を思い出せないの?」
「ああ。代わりに、僕は君を神様と呼んだ」
残り三十九秒。
三十六歳の僕が立ち上がる。
「道は覚えている」
「三人で行こう」
二十六歳の僕が言った。
十九歳の僕は、神様へ手を差し出す。
触れることはできない。
それでも神様は、小さな手を重ねた。
「今度こそ、君の本当の名前を見つける」
「絶対に置いていかない」
「一緒に帰ろう」
三人の声が重なる。
神様は、泣きながら頷いた。
三人で旧改札へ走り出す。
背後で、時計塔の鐘が一度だけ鳴った。
懐中時計には、新たな警告が浮かんでいた。
『残り時間内に識別できない場合、未確定存在を消去します』
神様は、まだその文字を見ていなかった。




