↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/29

三つの記憶、一つの未来

九分五十七秒。


九分五十六秒。


炎の中で、僕の懐中時計に新しい文字が浮かんだ。


『第三の選択肢――全員で帰る』


『実行条件が不足しています』


「まだ何かあるのかよ……」


煙を吸い込み、喉が焼ける。


小さな神様が僕のそばへ駆け寄った。


「はる坊、立てる?」


「何とか」


『分岐した三つの世界には、それぞれ一つずつ起点の記憶が欠落しています』


『統合開始には、三つの記憶を回収してください』


文字の下に、三本の針が現れた。


一本目は炎の世界。


二本目は、二十六歳の僕がいる現在。


三本目は、三十六歳の僕がいる未来を示している。


「記憶なんて、どうやって捜すんだ」


『各世界で、持ち主が忘れたものに触れてください』


『回収した記憶は、本人以外の時間軸へ持ち出すことができません』


「つまり、誰か一人が代わりに三つ集めることはできない」


『そのとおりです』


問い返しても、時計は沈黙した。


残り時間の表示が赤く点滅する。


三人全員が、それぞれの世界で記憶を見つけなければならない。


誰か一人でも間に合わなければ、統合は始まらない。


時計から二十六歳の僕の声が聞こえた。


『三人同時に動こう。十九歳の僕は、神様と出会った場所を捜せ』


続いて、三十六歳の僕が言う。


『僕は写真を調べる。現在の僕は、神様が残した物を捜してくれ』


「残り九分だ。見つけたら連絡する」


三人の声が、三つの世界へ分かれた。


     ◇


僕と神様は、炎の中を旧改札へ向かって走った。


二二五番のロッカー。


十六歳の僕が『十年後の僕へ』と書いたノートを残した場所だ。


だが、通路は崩れた鉄骨で塞がれていた。


「ボクがどかす」


「今の君に力を使わせられない」


「一人で決めないって言ったでしょ!」


神様が両手を伸ばす。


白い光が鉄骨を持ち上げ、僕はできた隙間をくぐった。


その瞬間、懐中時計の針が大きく揺れた。


神様の姿が、炎の向こうで一瞬だけ薄くなる。


「今のは……」


「気にしないで。ここは、ボクが生まれた場所だから」


「生まれた?」


「ううん。忘れて。今はノートを捜して!」


神様が力を込める。


背後で大きな音がした。


力が弱まり、鉄骨が床へ落ちる。


帰り道が塞がれた。


「先にノートを捜して!」


「君は?」


「今度は、ちゃんと待ってる。だから早く!」


以前の僕を待ち続けた彼女に、同じ言葉を言わせたくなかった。


それでも今は、信じて進むしかない。


ロッカーの扉は熱で変形している。


懐中時計の鎖を隙間へ差し込み、力任せに引いた。


扉が外れ、中から焼け焦げたノートが落ちる。


ほとんどの頁は黒くなっていた。


一頁だけ、文字が残っている。


『白い髪の女の子と会った。自分を神様だと言っている』


その文字へ触れた瞬間、知らない光景が頭の中へ流れ込んだ。


十六歳の僕が、ロッカーの前でプリンを食べている。


隣では、今より少し幼い神様が、空になった容器を抱えていた。


『勝手に食べるなよ』


『神様へのお供えだから問題ないよ』


『買ったの僕だけど』


『細かいことを気にすると、背が伸びないよ。はる坊』


『その呼び方、やめろ』


そう言いながら、僕は笑っていた。


忘れていた。


彼女に初めて「はる坊」と呼ばれた日のことを。


その日の帰り道、僕は彼女に傘を差し出していた。


『神様でも雨に濡れるのか?』


『はる坊が信じてくれないから、人間に近づいちゃったんだよ』


『僕のせいにするな』


けれど僕は、自分の肩を濡らして彼女を傘へ入れていた。


あの日から僕は、見えない誰かを一人にしない人間になろうとしていた。


『十九歳の世界――起点記憶、回収完了』


一本目の針が白く光る。


針の根元にあった炎の印は消えず、その横へ文字が浮かんだ。


『記憶の持ち主――朝倉遥斗・十九歳』


神様が泣きそうな顔で僕を見た。


「思い出した?」


「ああ。プリンを盗まれた」


「そこなの?」


「それから、君と一緒に笑った」


神様は安心したように笑った。


その輪郭が、また一瞬だけ揺らぐ。


「君は、本当にここにいるんだよな?」


「いるよ。はる坊が覚えている間は」


その言葉が、妙に引っかかった。


残り七分四十二秒。


     ◇


二十六歳の僕は、時計塔の床を探していた。


「神様が残した物って、懐中時計以外にあるの?」


日和が配電盤の下を覗き込む。


紬は黙って、僕の上着を指さした。


内ポケットに手を入れる。


指先へ、小さな金属が触れた。


銀色のスプーンだった。


「どうして、これが……」


神様が消えたあと、部屋の机に残されていた物。


持ってきた記憶はない。それでも、手放してはいけない気がしていた。


スプーンの柄には、細い傷が三本刻まれている。


懐中時計の針と同じように、炎、空白の円、消えかけた線を示していた。


日和がスプーンを受け取ろうとする。


触れる寸前、表面に白い光が走った。


『記憶の所有者以外は触れないでください』


「私には思い出せないってこと?」


日和の声に寂しさが混じる。


「今は僕が思い出す。あとで全部話すよ」


「絶対だよ」


日和の横で、紬が小さく頷いた。


スプーンを握ると、時計塔の景色が揺れた。


自宅の台所。


二十六歳の僕が、一人でプリンを食べている。


『一口ちょうだい』


肩の上から、幼い声がした。


『自分の分を食べただろ』


『神様は成長期なんだよ』


『七年前から身長変わってないけどな』


『失礼な!』


笑いながら振り上げた小さなスプーン。


そのあと、神様は僕の耳元で言った。


『はる坊が笑える未来なら、ボクは何度でも捜すよ』


『何度でも、って簡単に言うな』


『簡単じゃないよ』


神様は笑うのをやめ、僕の横顔を見ていた。


『でも、はる坊が一人で泣く未来よりはいい』


僕はその言葉を忘れていた。


神様の存在だけでなく、救われていた時間まで、なかったことにしていた。


『二十六歳の世界――起点記憶、回収完了』


二本目の針が白く光る。


スプーンの傷のうち、空白の円だけが消えた。


時計に文字が浮かぶ。


『記憶の持ち主――朝倉遥斗・二十六歳』


「いたんだな」


僕が呟くと、日和が首を傾げた。


「誰が?」


「僕たちを、ずっと助けてくれていた子が」


紬がスプーンの柄を見つめる。


「その子は、記憶の中にしか存在できないのですか?」


「分からない」


答えた瞬間、時計の針が一度だけ逆回転した。


『存在の確定――保留』


文字はすぐに消えた。


残り五分十一秒。


     ◇


三十六歳の僕は、白くなった写真を炎の消えた床へ並べていた。


どれも人の姿だけが抜け落ちている。


写真の裏には、同じ三本の印があった。


炎。


空白の円。


消えかけた線。


その中で、三本目の線だけが写真の端から伸び、人物の輪郭を削っている。


「この写真は、記憶を失ったんじゃない」


僕は呟いた。


「最初から、存在を記録できなかったんだ」


一枚だけ、端に黒い髪が残った写真があった。


時計塔の前。


日付は十年後。


写真を光へかざすと、裏側に薄い文字が浮かぶ。


『今度は、三人で撮りましょう』


紬の字だった。


指で文字をなぞる。


失われた光景が戻ってきた。


未来の時計塔。


僕と紬と日和が並び、その前を小さな白い影が走り回っている。


『じっとしてくれ。写真が撮れない』


『ボク、写らないから関係ないもん』


『なら、どうして真ん中に立つんですか』


紬が笑う。


日和も笑い、僕はシャッターを押した。


写らないはずの神様の輪郭が、写真の中央に薄く残った。


写真を撮ったあと、紬は僕に言った。


『この子を忘れる日が来ても、今日がなくなるわけではありません』


『忘れるわけないだろ』


『あなたは、そう言って何度も忘れました』


責める声ではなかった。


紬は、消えていく記憶の代わりに写真を残した。


未来を予測することしかできない僕へ、忘れても信じられる証拠を渡すために。


あれは失敗した未来ではない。


まだ、誰も失っていなかった一日だ。


けれど、写真の中で神様の輪郭だけは、他の三人と違っていた。


光を反射しているのではない。


写真そのものが、彼女の形を一時的に覚えている。


僕が指で触れると、輪郭が崩れ、黒い髪の一部だけが残った。


『三十六歳の世界――起点記憶、回収完了』


三本目の針が白く光った。


同時に、時計の文字が赤く変わる。


『記憶の持ち主――朝倉遥斗・三十六歳』


『存在記録――不完全』


「三つ、そろった」


『統合を開始します』


残り三分二十秒。


時計塔が激しく揺れる。


十九歳の炎が白い光へ変わり、二十六歳の時計塔へ流れ込んでいく。


二つの駅が重なる。


焼け落ちた案内板の上へ、現在の時刻表が透けて現れる。


炎の向こうにいた人影が、時計塔の床へ影を落とした。


空間の亀裂から伸びた十九歳の手を、二十六歳の僕がつかむ。


触れた瞬間、二人分の痛みと記憶が胸へ流れ込んだ。


火災の熱。


日和を失った朝。


紬の手を離した未来。


そして、小さな神様と笑った時間。


二十六歳の僕の前に、焼けた制服の少年が現れた。


十九歳の僕だ。


その隣には、白い短髪の小さな神様が立っている。


「お兄が二人……」


日和が呆然と呟く。


紬は神様を見て、目を見開いた。


「思い出しました。この子が……」


神様が僕たちの間へ歩み寄る。


けれど、十九歳の僕が伸ばした手は、彼女の肩をすり抜けた。


「触れないのか?」


「ボクは、記憶だから」


神様は笑った。


「三つの世界が覚えてくれたから、ここまで来られた。でも、世界が一つになったら……」


言葉の続きを、時計が奪った。


『第一統合、完了』


『統合世界――十九歳/二十六歳』


『存在記録の重複なし』


『未確定存在――統合判定保留』


「待て」


十九歳の僕が時計を見る。


「三十六歳の僕は?」


返事の代わりに、時計から激しい雑音が流れた。


     ◇


三十六歳の世界で、空が白く崩れ始めていた。


駅も、時計塔も、足元から粒子になって消えていく。


懐中時計に赤い文字が浮かぶ。


『統合対象外の時間軸を廃棄します』


『対象――朝倉遥斗・三十六歳』


『理由――統合後の未来と重複するため』


「三人で帰るはずだろ」


『三人の意識を保存するとは指定されていません』


機械的な返答だった。


さらに、その下へ文字が浮かぶ。


『未確定存在――朝倉遥斗・三十六歳の記憶にのみ依存』


『統合後の世界における存在基盤なし』


『同時に廃棄します』


「神様も?」


『存在を確認できません』


「違う。あの子は、ここにいる!」


僕が叫ぶと、写真の中の神様の輪郭が揺れた。


けれど時計は、それを記憶の残像として処理した。


第三の選択肢は、僕たちの願いを理解したわけではない。


三つの世界を一つへまとめるため、重複する未来を切り捨てる。


記憶の中にしか存在できない神様も、統合後の世界に残せない異物として扱われる。


時計の向こうで、十九歳と二十六歳の僕が名前を呼んでいる。


けれど、声は急速に遠ざかっていく。


三十六歳の僕が持つ写真から、最後に残っていた神様の輪郭が消えた。


続いて、紬と日和が消える。


最後に、僕自身の指先が透け始めた。


残り二分五十九秒。


世界の統合は、三人全員を救うためのものではなかった。


三つの記憶を回収しても、三つの存在が同じ条件で統合されるわけではない。


二つの世界を残すために、一つの未来を切り捨てる。


そして、誰かの記憶にしか存在できない神様まで、統合対象外にする処理だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。