三人の答え
止まっていた最後の一秒が進み始めた。
午後十時二十五分。
時計塔の鐘が鳴り、ホームの奥で炎が息を吹き返す。
熱風が雨を蒸発させ、白い蒸気が視界を覆った。
「はる坊!」
小さな神様が僕の腕にしがみつく。
「行っちゃ駄目!」
「離してくれ」
「死ぬんだよ!」
「死ぬ直前まで行くだけだ」
「そんな都合よく止まれるわけないでしょ!」
必死に引き戻そうとする顔を見て、迷いが生まれた。
炎へ入れば、本当に死ぬかもしれない。
十九歳の僕が消えれば、二十六歳にも三十六歳にもなれない。日和にも紬にも会えない。
それだけではない。
この先にあったはずの笑顔も、喧嘩も、選べた未来も、全部なくなる。
怖くないはずがなかった。
けれど、僕が怖さに負ければ、神様はまた自分を犠牲にしようとする。
最初の僕が十六年間止め続けた時間も、誰も失いたくないという願いから始まっていた。
けれど、ここで止まれば何も変わらない。
三人の遥斗が消えるか、小さな神様が消えるか。
残された未来は二つだけだ。
「僕は、どっちも選ばない」
「だったら逃げようよ」
「逃げたら、また誰かが選ばされる」
神様の手をゆっくり外す。
「今度は、選択肢そのものを変える」
一歩、炎へ近づく。熱が頬を刺し、煙が肺へ入った。
最初の僕が立ち塞がる。
「やめろ」
「お前が教えた方法だ」
「可能性があると言っただけだ。失敗すれば君は死ぬ」
「成功しても?」
最初の僕は答えなかった。
「成功しても、死ぬ可能性があるんだな」
「選択肢は、死ぬ人間が最後に残す未来だ。未来を書き換えても、代償が消える保証はない」
「それでも、やる」
「どうしてそこまで――」
「お前と同じだよ。僕も、この子が消えるところを見たくない」
彼の表情が歪んだ。
「お前は神様を守るために時間を止めた。僕は神様と帰るために、時間を動かす」
それは、最初の僕と同じ願いから生まれた、正反対の答えだった。
守るために止めた彼と、共に進むために動かそうとする僕。
どちらが正しいかは分からない。それでも、止まった時間の中で誰かを待たせ続ける未来だけは選べなかった。
「君が死ねば、この子はまた時間を戻す」
「戻させない。だから三つ目を作る」
炎の中で鉄骨が崩れた。
最初の僕が胸ぐらをつかむ。
「君は何も分かっていない!」
「分かってる! 誰か一人が犠牲になる未来を選び続けたから、ここまで壊れたんだ!」
僕は懐中時計を握りしめる。
「今度は一人で決めない。三人で決める」
「三人……?」
「この時計には三本の針があった。第三の選択肢を作るには、三人全員の意思が必要なんだ」
確証はない。
けれど、分かれたあとも時計は三人をつなぎ続けた。三本すべてがそろったときだけ、新しい未来を作れる。そうでなければ、三本の針が存在した意味がない。
十九歳は、行動するため。
二十六歳は、誰かと向き合うため。
三十六歳は、失われた未来を記録するため。
別々の時間を生きた三人だからこそ、一人では選べなかった未来に手が届くのかもしれない。
最初の僕は炎の奥を示した。
燃え落ちた案内板の向こう。黒く焼けた床がある。
「僕が倒れた場所だ。同じ場所、同じ時刻、同じ死の直前。そこで懐中時計に触れろ」
煙を吸い、炎に囲まれ、助けが来ないと理解した瞬間。
ただ同じ場所へ立つだけでは足りない。最初の僕が味わった絶望まで再現しなければならない。
「時間は?」
「意識を失うまで二十三秒」
「人生最後の作戦にしては忙しいな」
「笑っている場合じゃないよ!」
神様が涙を拭いながら叫ぶ。
僕は手を差し出した。
「待っててくれ」
「嫌だ。前のはる坊も、そう言った!」
彼女は同じ言葉を信じ、帰らない人を待ち続けた。
「じゃあ、約束はしない。戻れるかは分からない。でも、戻りたいと思ってる」
「……ずるいよ」
「ごめん」
「謝らないで」
神様は僕の手を握った。
その手は小さく、震えていた。
それでも離そうとはしなかった。
神様は首から懐中時計の鎖を外した。切れていた鎖の先が淡く光り、僕の時計へつながる。
「ボクの力、全部使って」
「君が消えないか?」
「一人で決めないんでしょ? だったらボクにも選ばせて」
僕は頷いた。
最初の僕が炎を指す。
「行け」
僕は走った。
一秒。熱風が全身を包む。
三秒。崩れた柱を飛び越える。
六秒。制服の袖へ移った火を叩き消す。
九秒。煙で視界が消える。
十二秒。息ができない。
十五秒。黒く焼けた床が見えた。
十八秒。床へ倒れ込む。
二十秒。遠くで神様が叫ぶ。
「はる坊!」
最初の僕が死ぬ直前に聞いた声。
同じ場所。同じ時刻。同じ死。
二十二秒。
懐中時計を開く。
『第三の選択肢を作成しますか?』
「作る」
『作成者――朝倉遥斗・十九歳』
『権限不足』
「なんでだ……!」
『分岐したすべての当事者の同意が必要です』
『接続数――一/三』
予想は当たっていた。だが、二十六歳と三十六歳には届かない。
三本の針のうち、僕の針だけが赤く灯っている。
残る二本は、二人の時計から消えたままだ。
ここまで来ても、最後は一人では未来を作れない。
それは失敗ではなく、この選択肢が誰か一人の犠牲で完成することを拒んでいるようにも思えた。
二十三秒。
意識が遠のく。
「聞こえろ……僕たちは、まだ三人だろ!」
◇
二十六歳の僕は、時計塔の床で目を覚ました。
「お兄!」
日和の声がする。隣では紬が僕の肩を支えていた。
「十九歳の僕は?」
「扉の向こうへ消えたままです」
懐中時計には二本の針しかない。
その一本が激しく震え、消えた三本目が赤い光となって浮かび上がった。
『接続要請――朝倉遥斗・十九歳』
時計から苦しそうな呼吸が聞こえる。
『第三の選択肢には、三人の同意が必要だ。僕は全員で帰る未来を選ぶ。二十六歳の僕、お前は?』
日和と紬を見る。
二人を救いたい。神様も、十九歳の僕も、三十六歳の僕も失いたくない。
日和を失えば、あの明るい声にもう救われない。
紬を失えば、どれほど暗い未来でも隣にいてくれた温もりを取り戻せない。
誰かを選ぶたび、選ばなかった誰かが消える。
そんな選択を繰り返してきたから、今度だけは全員を選びたかった。
そんな未来は存在しないと言われ続けた。
だからこそ、答えは一つだった。
「僕も、全員で帰る未来を選ぶ」
存在しないと言われたのなら、三人で作ればいい。
十九歳の僕が炎の中で手を伸ばしている。今度は、その手を未来からつかむ番だった。
二本目の針が赤く染まる。
『接続数――二/三』
◇
三十六歳の僕は、崩れた時計塔で写真を見つめていた。
写真には誰も写っていない。失った未来は、白い空白になっている。
懐中時計が鳴った。
『接続要請』
『十九歳、二十六歳の朝倉遥斗が第三の選択肢を要求しています』
『全員で帰る』
成功率は表示されない。未来の記録にも、その結末は存在しない。
選ばれなかった未来には、まだ答えがない。
けれど、答えがないということは、失敗が決まっていないということでもある。
「本当に、無茶ばかりする」
時計から十九歳の僕の声が返る。
『未来の僕なら、止めるか?』
「止めても聞かないだろ」
『よく分かってるな』
「十七年分、お前だからな」
僕は懐中時計へ触れた。
失った未来の中で、それでも手放せなかった人を、今度こそ空白のまま終わらせたくない。
十九歳の無謀さも、二十六歳の願いも、三十六歳の後悔も、すべて同じ一人の僕から生まれた。
「三十六歳の僕も、全員で帰る未来を選ぶ」
未来を知る僕にさえ結果は分からない。
それでも、成功率ではなく願いを選ぶことが、三十六歳の僕に残された最後の役目だった。
三本目の針が赤く染まった。
『接続数――三/三』
『三者の意思が一致しました』
『第三の選択肢を作成します』
炎の中で、十九歳の僕が目を開く。
二つの選択肢の下へ、新しい空白が生まれた。
三本の針が同時に回り、赤い光が文字を刻む。
『第三の選択肢――』
その瞬間、三人の時計へ同じ警告が現れた。
『第三の選択肢の成立により、分岐した三つの世界を統合します』
『統合には、各世界の時間軸を停止する必要があります』
『停止開始まで――十分』
第三の選択肢は、三人を救うために三つの世界を一つへ統合する。
だが、十分以内に終えられなければ、三人とも現在の世界に閉じ込められ、死亡が確定する。
九分五十九秒。
九分五十八秒。
三人で同じ未来を選んだ代償は、三人で同じ制限時間に挑むことだった。




