死者が守るもの
写真の中で、死んだはずの最初の僕が目を開いた。
黒く焦げた駅舎を背に、こちらを見ている。
写真を持つ僕の手が震えた。
「神様、これ……」
返事がない。
振り返ると、小さな神様は青ざめた顔で写真を見つめていた。
「どうして……」
写真の中の僕が、ゆっくりと顔を上げる。
その唇が動いた。
『その子から離れろ』
同時に、写真の表面へ亀裂が走った。
白い光が溢れ、僕は反射的に目を閉じる。
次に目を開けたとき、ホームの様子が変わっていた。
雨は止まっている。
けれど、空中に浮かぶ雨粒は落ちることなく、時間ごと凍りついていた。
駅の時計は、午後十時二十五分を指している。
そして線路の向こう側に、僕が立っていた。
焼け焦げた学生服。
煤で汚れた顔。
右腕には、赤黒い火傷の痕が残っている。
鏡を見ているようで、まるで違った。
同じ十九歳の顔なのに、その目だけが、僕よりずっと長い時間を生きている。
「お前が、最初の僕なのか?」
「そう呼んでいるのは、お前たちだけだ」
声まで同じだった。
それなのに、他人の声を聞いているような冷たさがある。
小さな神様が一歩前へ出る。
「はる坊……」
最初の僕の表情が揺れた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その呼び方を懐かしいと思ったことだけは分かった。
「来るな」
「でも――」
「今度こそ、僕の言うことを聞いてくれ」
最初の僕が腕を上げる。
凍りついていた雨粒が、一斉に動き出した。
上から下ではない。
僕たちへ向かって、横向きに飛んでくる。
「危ない!」
僕は小さな神様を抱え、ホームの柱の陰へ飛び込んだ。
雨粒が柱へ突き刺さり、黒い染みへ変わる。
染みの一つ一つに、燃える駅舎が映っていた。
「いきなり攻撃するなよ!」
「お前がその子を連れて帰ろうとするからだ」
「迎えに来たんだよ」
「それが間違いだ」
最初の僕は線路へ足を踏み出した。
その足は宙へ沈まず、見えない床の上を歩いてくる。
「その子を元の時間へ戻せば、分かれた世界が一つに戻る」
「三十六歳の僕から聞いた」
「結果も聞いたはずだ」
三人の遥斗が消える。
胸の中で、その言葉が繰り返される。
「だからって、神様をここへ置いていけない」
「自分が消えても?」
「消えない方法を捜す」
「そんなものはない」
「決めつけるな」
「何度捜したと思っている」
最初の僕の声が鋭くなった。
周囲の景色が歪む。
誰もいなかったホームに炎が広がり、天井から黒い煙が降りてきた。
焦げた臭いが鼻を刺す。
遠くから、何かが崩れる音が聞こえた。
ここで最初の僕は死んだ。
その瞬間が、まだこの場所に残っている。
「僕は、この午後十時二十五分から一度も動いていない」
炎の向こうで、最初の僕が言った。
「その子が時間を戻すたび、僕だけがここに残った。日和が死ぬ世界も、母さんが死ぬ世界も、水瀬紬が死ぬ世界も見た」
「どうやって?」
「僕が、すべての始まりだからだ」
最初の僕は自分の胸へ手を当てる。
学生服の下から、淡い光が漏れていた。
懐中時計と同じ、白い光だった。
「僕が死んだ瞬間、この時計は僕の時間を記録した。だから世界が変わっても、僕だけは消えなかった」
「じゃあ、十九歳の偽物と同じなのか?」
「あれは捨てられた未来の寄せ集めだ」
最初の僕は静かに首を振る。
「僕は違う。最初に死んだ、朝倉遥斗本人だ」
腕の中で、小さな神様が震えている。
僕は彼女を床へ下ろした。
その瞬間、最初の僕がこちらへ駆けてきた。
拳が頬をかすめる。
身体をひねり、僕も拳を返した。
最初の僕は僕と同じ方向へ避けた。
「動きまで同じかよ」
「当たり前だ」
「だったら、僕が次に何をするかも分かるよな」
僕は最初の僕ではなく、小さな神様へ手を伸ばした。
最初の僕が僕の手首をつかむ。
そのまま背中から床へ押し倒された。
息が詰まる。
「分かっているから止めた」
「離せ!」
「帰れば、お前は消える」
「神様が残れるなら、それでいい」
「その言葉が、この子をどれだけ苦しめるか分かっているのか!」
最初の僕が初めて声を荒らげた。
握られた手首が痛む。
けれど、それ以上に、その表情に驚いた。
怒っているのではない。
怯えていた。
僕が消えることではなく、小さな神様がまた傷つくことを恐れている。
「この子は、僕を助けるために時間を戻した」
最初の僕の声が震える。
「僕が死ぬたびに泣いて、それでも諦められなくて、次の世界を作った。けれど、代わりに日和が死んだ。日和を助ければ母さんが死に、母さんを助ければ水瀬紬が死んだ」
「だから、神様を一人にするのか?」
「これ以上、誰かを犠牲にさせないためだ」
「違う」
「何が違う」
「お前は神様を守ってるつもりで、神様の気持ちを無視してる」
最初の僕の手から力が抜けた。
僕は身体を起こす。
小さな神様は少し離れた場所で、僕たちを見ていた。
泣きそうな顔で、それでも涙をこらえている。
「神様は僕たちを助けたかった。僕も神様を連れて帰りたい。お前一人が、終わり方を決めていい話じゃない」
「なら、また繰り返すのか?」
「繰り返さない方法を、みんなで捜す」
「見つからなかったら?」
「そのとき考える」
「無責任だ」
「十九歳だからな」
「年齢を言い訳にするな」
「死んだ十九歳に言われたくない」
最初の僕が黙った。
僕も黙る。
同じ顔でにらみ合っていると、ひどく馬鹿らしくなってきた。
けれど、最初の僕は笑わなかった。
「お前は、まだ知らない」
「何を?」
「その子が、時間を戻すたびに失ったものを」
最初の僕は小さな神様を見る。
「最初は、未来を少し見るだけだった。次は過去へ声を送った。その次は、人を過去へ戻した。力を使うたび、この子の存在は薄くなった」
小さな神様が首元を押さえた。
そこにあるはずの懐中時計は、今は僕の手の中にある。
「最後には、自分の名前まで忘れた」
「名前……?」
僕は小さな神様を見る。
これまで一度も、彼女の名前を聞いたことがなかった。
ずっと「神様」としか呼んでいない。
「ボク、自分の名前なんて最初から――」
「違う」
最初の僕が遮った。
「僕は知っていた。三年間、何度も呼んだ」
「じゃあ教えてよ」
小さな神様が一歩近づく。
「ボクの名前、何だったの?」
最初の僕は答えなかった。
答えれば何かが起きる。
そう恐れているように唇をかむ。
「それも、神様を守るために言わないのか?」
僕が尋ねると、最初の僕は目を伏せた。
「名前を取り戻せば、この子は完全に時間の中へ戻る」
「戻ったらどうなる?」
「もう一度、死ぬことができるようになる」
小さな神様の顔から笑みが消えた。
僕たちを救うために失ったのは、名前だけではない。
生きる時間そのものだった。
懐中時計が震える。
空中へ、あの二つの選択肢が現れた。
『はい――三人の遥斗が消滅』
『いいえ――小さな神様が消滅』
最初の僕が、選択肢と小さな神様の間に立った。
敵のように僕を阻んでいた理由が、ようやく分かった。
こいつは世界を守ろうとしているのではない。
小さな神様を、僕たちの選択から守ろうとしている。
「お前は、神様にどちらも選ばせたくないんだな」
「当たり前だ」
「だったら、僕と目的は同じだ」
「同じじゃない」
「僕も、この二つから選ぶ気はない」
「選ばなければ、時間が尽きる」
「その前に、選択肢そのものを壊す」
「できない」
「どうして?」
最初の僕は答えない。
僕は空中の文字へ手を伸ばした。
どちらにも触れず、二つの選択肢の間を指さす。
「これは誰が決めた?」
返事はない。
「三人の僕を消すか、神様を消すか。どうして二つしかないんだ」
懐中時計の三本の針が激しく揺れ始める。
最初の僕の胸から漏れる光も、同じ速さで明滅した。
「時間そのものが作った決まりじゃないんだろ」
最初の僕の表情が変わる。
「誰かが、僕たちに選ばせるために作った」
一歩、近づく。
最初の僕は逃げなかった。
「誰が、こんな選択肢を作った?」
長い沈黙のあと、最初の僕は小さな神様を見た。
その目には、敵意ではなく、深い後悔が浮かんでいた。
そして僕へ向き直り、静かに告げた。
「選択肢を作ったのは、僕だ」




