最初の死亡予定者
扉を開けた瞬間、十九歳の僕を白い光が包んだ。
足元から床が消える。
落ちる。
そう思って目を閉じたが、身体を襲ったのは衝撃ではなく、冷たい雨だった。
「……ここは?」
目を開ける。
僕は、誰もいない駅のホームに立っていた。
頭上の案内板は消え、線路の向こうには白い霧が広がっている。
見覚えのある時計塔だけが、ホームの外に浮かんでいた。
文字盤が示している時刻は、午後十時二十五分。
足元には、一枚の紙が落ちている。
『二〇一〇年九月十七日』
今日の日付だった。
扉へ入る直前、二十六歳の僕が叫んだ言葉を思い出す。
『神様を連れて、必ず戻ってこい!』
けれど、振り返っても扉はなかった。
代わりに、僕の右手には古びた懐中時計が握られている。
扉の外で消えたはずの、十九歳の僕を示す針。
それだけが、時計の中に残っていた。
二十六歳と三十六歳を示す二本は、どこにもない。
「聞こえるか?」
懐中時計へ呼びかけても返事はなかった。
残った一本の針だけが、逆向きに動いている。
その音に混じって、ホームの奥から足音が聞こえた。
白い髪。
小さな身体。
白い服の裾を雨に濡らしながら、少女が立っている。
扉の向こうに見えた白い影と、目の前の少女の姿が重なった。
「見つけた」
僕が呟くと、少女は泣きそうな顔で笑った。
「遅かったね、はる坊」
その呼び方を聞いた瞬間、胸の奥に知らない記憶が流れ込んできた。
プリンを食べて笑う顔。
僕の肩に座り、足をぶらつかせる姿。
白い光の中で消えていく、小さな手。
「君が、小さな神様なんだな」
「ここでは、まだボクを覚えていられるんだね」
少女は僕へ背を向けた。
「帰って、十九歳のはる坊」
「帰る扉がない」
「最初から、帰すつもりのない扉だから」
足が止まる。
「どういう意味だ?」
「ここへ来られるのは、三人のうち一人だけ。そして来た人は、元の時間から切り離される」
懐中時計を見る。
一本だけ残った針が、少しずつ透明になっていた。
「だから、僕の針が消えたのか」
「うん。二十六歳と三十六歳のはる坊からは、もう十九歳のはる坊へ連絡できない」
「それでも、君を迎えに来た」
「ボクはもう消えたんだよ」
「だったら、目の前にいる君は何だ?」
少女は答えず、雨の中を歩き始めた。
僕も、そのあとを追う。
「十九歳の偽物は、ここにいるのか?」
「いないよ」
「あいつと僕は、何が違う?」
「あの子は、選ばれなかった未来の結果を集めた記録。はる坊は、その未来を実際に生きた意識」
「じゃあ、僕が本物?」
「本物とか偽物とか、そんなに簡単じゃないよ」
少女は寂しそうに首を振った。
「十九歳も、二十六歳も、三十六歳も、最初は同じ時間の中にいた。過去と現在と未来として、一本につながっていたんだ」
「最初は?」
「未来を変えるたびに道が分かれた。今の三人は年齢が違うだけじゃない。それぞれ、別の世界を生きている」
懐中時計に三本の針があった理由。
三人が同じ記憶を持っていない理由。
「この時計は、分かれた世界を一時的に重ねるためのものだったのか」
「うん。でも使うたびに、世界同士の境目が壊れていった」
「だから、日和や紬の死が入れ替わった?」
少女の足が止まった。
「日和が死んだ世界は、最初の世界じゃない」
「え?」
ホームの景色が歪む。
雨の向こうに、別の光景が浮かんだ。
炎に包まれた駅ビル。
崩れ落ちる天井。
煙の中で、十九歳の少年が倒れている。
僕だった。
「これは……今日の僕?」
「最初の世界のはる坊」
映像の中で、僕は動かない。
そばには壊れたスマートフォンが落ちている。
画面には、日和からの着信が表示されていた。
「待て。日和が死んだのは七年後じゃないのか?」
「それは、ボクが世界を変えたあとの話だよ」
少女の声が震える。
「最初の世界では、日和も、お母さんも、紬も死んでいない」
炎の中で倒れている僕を、白い髪の少女が必死に揺さぶっていた。
『はる坊、起きて』
幼い声。
『お願い。ボクを一人にしないで』
「ボクは十六歳のはる坊と出会った」
旧改札。
二二五番のロッカー。
僕が『十年後の僕へ』と書かれたノートを残した場所。
「あのころの君か」
「三年間、一緒にいた。そして二〇一〇年九月十七日、はる坊は駅ビルの火災に巻き込まれた」
「僕は助からなかった?」
少女は小さく頷いた。
「ボクは、初めて時間を戻した」
炎の光景が裏返る。
事故を回避し、生き延びる僕。
その代わりに、七年後のホームで倒れる日和。
「日和の死は、僕を救った代わりだったのか?」
「死を移すつもりなんてなかった」
少女は唇を噛んだ。
「ただ、はる坊に生きてほしかった。でも消えるはずだった死は行き先を失って、はる坊が一番失いたくない人へ移った」
「それが日和……」
「日和を救ったら、お母さんへ移った。お母さんを救ったら、今度は紬へ。何度原因を変えても、死だけが別の場所に残り続けた」
日和を失った僕。
あれが始まりではなかった。
すでに一度、未来が変えられたあとの世界だった。
「だったら、全部君のせいだって言うのか?」
「そうだよ」
「違う」
「違わない!」
少女が初めて声を荒らげた。
「ボクがはる坊を助けたから、日和も紬も、みんな苦しんだ! 何度も死んだ! だから最後は、ボクが消えればよかった!」
「よくない」
「でも、それで三人とも助かった!」
「君だけが助かってない」
少女は目を見開いた。
「僕は君を連れて帰る。そのために選ばれたんだ」
「帰れなくなるよ」
「最初から、その可能性は聞いてる」
「二十六歳にも、三十六歳にもなれない。日和にも紬にも、もう会えないかもしれない」
「それでも、ここで君を一人にするよりはいい」
少女の目から涙がこぼれた。
「どうして……」
「僕が君を知ってるからだ」
手を差し出す。
「名前は、まだ思い出せない。でも、君が僕を『はる坊』と呼ぶことは知ってる」
少女は僕の手を見つめた。
触れようとした瞬間、懐中時計が激しく震えた。
消えかけていた針が止まる。
蓋がひとりでに開き、中の写真が黒く染まっていく。
写真に写っているのは、炎の中で倒れた十九歳の僕。
裏側には、赤い文字が浮かんでいた。
『最初の死亡予定者――朝倉遥斗』
その下に、新しい文字が続く。
『死亡確定時刻 二〇一〇年九月十七日 午後十時二十五分』
「死亡予定じゃない……?」
予定ではなく、確定。
僕がその意味を理解するより先に、三十六歳の僕の声が時計から流れた。
『十九歳の僕。よく聞け』
「つながったのか?」
『そこにいる神様を連れ戻せば、すべての世界が最初の状態へ戻る』
「それなら――」
『最初の世界では、僕たちは十九歳で死んでいる』
時計塔の鐘が鳴った。
一度。
写真の中の僕の顔が、黒く塗り潰される。
『神様を救えば、日和も紬も生き残る』
二度。
少女の手が、僕の指先から離れていく。
『ただし、十九歳、二十六歳、三十六歳――』
三度。
三本の針すべてに、亀裂が走った。
『三人の朝倉遥斗は、どの世界からも消える』
少女が泣きながら、僕の名を呼ぶ。
その声の向こうで、最初の世界の僕が息を引き取った。
僕たち三人は、未来を変えて生まれた存在ではなかった。
本来なら十九歳で終わっていた一人の人間を、無理やり三つの世界へ延ばした存在だった。
懐中時計の文字が書き換わる。
『神様を連れて帰りますか?』
その下に、選択肢が二つ浮かんだ。
『はい――三人の遥斗が消滅』
『いいえ――小さな神様が消滅』
どちらを選んでも、僕たちは全員では帰れない。
少女が首を振る。
「選ばないで、はる坊」
僕は懐中時計を握りしめた。
そして、どちらの文字にも触れないまま答えた。
「だったら、この選択肢を作ったやつを捜す」
写真の中で、死んだはずの最初の僕が目を開いた。




