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選ばれた一人

懐中時計の三本の針が、それぞれ違う方向へ動き始めた。


一本は左へ。


一本は右へ。


残る一本だけが、十二時の位置で震えている。


「壊れたの?」


日和が尋ねた。


「分からない」


時計を傾けても、針は重力を無視したように同じ方向を示し続けていた。


文字盤に、赤い数字が浮かぶ。


『十九』


『二十六』


『三十六』


三本の針に、一つずつ数字が重なった。


「三人の僕……」


僕が呟いた瞬間、二百二十五番のロッカーから雑音が流れた。


中に置かれたノートのページが、風もないのにめくれていく。


白紙だった見開きに、三つの四角い枠が現れた。


左の枠には、十九歳の僕。


中央には、今の僕。


右には、三十六歳の僕。


けれど、十九歳と三十六歳の枠は真っ暗だった。


「接続が切れた二人と、もう一度話せるのか?」


懐中時計の針が一度だけ震える。


スマートフォンの画面に通知が表示された。


『三時代通信を開始します』


直後、激しい雑音が地下倉庫に響いた。


『――聞こえるか?』


十九歳の僕の声だった。


「聞こえる!」


『よかった。急に駅員室の電話が鳴って、お前の番号が表示された』


七年前。


十九歳の僕は、駅ビル火災を防ぐために駅員を呼んだ直後にいるらしい。


「そっちは無事なのか?」


『火事は起きてない。配電盤も止めてもらった。でも、変なことがある』


「何だ?」


『誰かを待ってた気がするんだ』


胸がざわついた。


『駅員室へ来る途中、プリンを買った。でも、誰に渡すつもりだったのか思い出せない』


ポケットに入れた小さなスプーンへ触れる。


十九歳の僕も、忘れている。


けれど、何かだけが残っていた。


「白い髪の子を見なかったか?」


『白い髪?』


「小さな子どもだ。お前を、はる坊と呼ぶ」


電話の向こうで、十九歳の僕が黙った。


『どうしてだろうな』


声がわずかに震える。


『その呼び方を聞くと、泣きそうになる』


ノートの左側に、十九歳の僕の姿が浮かんだ。


手には、未開封のプリンがある。


その隣だけが、不自然なほど白く抜けていた。


「十九歳の僕も、覚えてないんだ」


日和の言葉に、紬が俯く。


「時間から消されたのなら、過去にいた人も忘れてしまうんですね」


『誰の話をしてる?』


十九歳の僕には、二人の声も聞こえているらしい。


説明しようとしたとき、右側の枠に光が灯った。


『説明はあとにしろ』


三十六歳の僕の声だった。


以前よりも掠れている。


「三十六歳の僕?」


『時間がない。通信が戻ったということは、あの子が残した道がまだ閉じていない』


「あの子を覚えてるのか?」


沈黙が落ちる。


『覚えていない』


三十六歳の僕が答えた。


『だが、記録は残っている』


画面に一枚の写真が表示された。


十年後の時計塔。


瓦礫の前に、三十六歳の僕が立っている。


その足元には、小さなプリンの容器が置かれていた。


『俺は毎年、同じ日にここへプリンを持ってきていた』


「誰のために?」


『分からない。予定表には、ただ一言だけ残っている』


写真の裏側に、文字が浮かんだ。


『神様に会いに行く』


誰も神様を覚えていない。


それでも十九歳の僕はプリンを買い、三十六歳の僕は時計塔へ供えていた。


忘れたあとも、僕たちは同じ相手を待ち続けていた。


「消えてない」


僕は懐中時計を握った。


「本当にいなくなったなら、こんなものは残らない」


『存在ではなく、記憶だけが消えたのかもしれない』


三十六歳の僕が言う。


『あの子は、選ばれなかった時間のどこかに残っている』


「だったら迎えに行く」


『簡単に言うな』


三十六歳の僕の声が強くなる。


『ノートの文章を最後まで読め』


開かれたページに、新しい文字が浮かんだ。


『失われた神を見つけるには、三つの時間を一つにつなぐ必要がある』


その下へ、ゆっくりと一行が加わる。


『ただし、迎えに行けるのは三人のうち一人だけ』


十九歳。


二十六歳。


三十六歳。


三本の針は、それぞれの僕を示している。


「一人だけって、どういう意味?」


日和が尋ねた。


答えるように、次の文章が現れた。


『選ばれなかった時間へ入った者は、元の時間へ戻れない』


「戻れない……」


紬の顔がこわばる。


「神様を見つけても、迎えに行った人は帰ってこられないということですか?」


『そういうことだ』


三十六歳の僕が答えた。


『だから俺が行く』


「勝手に決めるな」


『俺の時間には、もう残っているものが少ない』


「紬がいるだろ」


『俺の時間の紬は、もういない』


その言葉に、隣の紬が息を呑んだ。


三十六歳の僕は続ける。


『日和も、母さんも、父さんもいる。だが、俺が消えても、お前たちの現在には影響しない』


「分からないだろ」


『お前が行くよりはいい』


『二人とも黙れ』


十九歳の僕が割って入った。


『一番若い僕が行けばいい』


「理由になってない」


『二十六歳の僕には日和がいる。三十六歳の僕には家族がいる。僕には、まだ失うものが少ない』


「ふざけるな」


十九歳の僕が言った言葉は、三十六歳の僕とほとんど同じだった。


自分が消えればいい。


ほかの誰かが助かるなら、それでいい。


年齢が違っても、僕たちは同じ間違いをしようとしている。


「誰も行かない」


僕が言うと、二人の僕が同時に黙った。


「戻れないなら、戻る方法を見つけてから行く」


『そんな時間はない』


三十六歳の僕が告げる。


ノートに赤い文字が浮かんだ。


『接続終了まで――十分』


「また時間切れかよ」


『今回の通信が切れれば、三つの時間は完全に分離する』


三十六歳の僕の姿に雑音が走る。


『その前に一人を選ばなければ、あの子へ続く道も消える』


日和が懐中時計を覗き込んだ。


「選ぶのは、私たちじゃないのかもしれない」


「どういう意味だ?」


「三本の針、さっきから一本だけ動いてる」


十九を示す針だった。


ゆっくりと、十二時の位置へ近づいている。


『おい』


十九歳の僕の声が聞こえた。


『駅員室の外に、誰かいる』


画面の向こうで、十九歳の僕が扉へ近づく。


曇りガラスの向こうに、小さな影が立っていた。


白い髪。


白い服。


両手でプリンを抱えている。


「開けるな!」


僕が叫ぶ。


十九歳の僕の手が止まった。


『どうして?』


「扉の向こうは、お前の時間じゃないかもしれない」


『でも、この子……』


小さな影が、曇りガラスへ手を当てた。


その手の位置に、赤い文字が浮かぶ。


『迎えに来て』


十九歳を示す針が、十二時を指した。


同時に、残る二本の針が止まる。


ノートの文字が書き換わった。


『選択者――十九歳の朝倉遥斗』


「違う!」


僕は懐中時計を振った。


「僕たちは、まだ選んでない!」


『選んだのは、お前たちではない』


三十六歳の僕が低い声で言う。


『神様だ』


十九歳の僕の後ろで、駅員室の景色が白く崩れ始めた。


『扉を開けたら、どうなる?』


十九歳の僕が尋ねる。


誰も答えられない。


ノートの最後に、もう一行だけ浮かんだ。


『選択者の帰還確率――〇パーセント』


「開けるな!」


僕の叫びを聞きながら、十九歳の僕は扉へ手をかけた。


曇りガラスの向こうから、幼い声が聞こえる。


『はる坊』


十九歳の僕は、泣きそうな顔で笑った。


『やっと、思い出した』


扉が開く。


白い光が画面を覆い尽くした。


そして十九歳を示していた針が、懐中時計から消えた。

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