十年前の僕
すべての明かりが消えた。
時計塔の内部を満たしたのは、焦げた配線の匂いと、誰かの浅い呼吸だけだった。
『はる坊、早く見つけて』
幼い声が、まだ耳の奥に残っている。
「今の声……」
日和が暗闇の中で僕の腕を探り当てた。
「お兄にも聞こえたよね?」
「ああ」
「私にも聞こえました」
紬の声は近くから聞こえた。
これまで二人には聞こえなかった声。
名前も顔も思い出せないのに、その呼び方だけで胸の奥が痛くなる。
はる坊。
あの声の主は、確かに僕を知っている。
スマートフォンの画面だけが、闇の中で青白く光っていた。
『発信元――朝倉遥斗』
『ただし、現在のあなたではありません』
表示を見つめていると、画面が震えた。
新しい着信。
発信時刻は、十年前のままだった。
「十年前から、電話がかかってきてる……」
日和が呟く。
「出ないほうがいいかもしれません」
紬が僕の袖をつかんだ。
「これまでの通信とは違います。誰がつないでいるのかも分からない」
「でも、あの声が聞こえた」
「罠かもしれません」
「それでも出る」
迷っている時間はなかった。
通話ボタンを押す。
「もしもし」
激しい雑音が聞こえた。
遠くを走る電車の音。
雨音。
そして、誰かの荒い呼吸。
『……つながった』
若い男の声だった。
聞き覚えがある。
けれど、十九歳の僕とも、三十六歳の僕とも違う。
少し高く、まだ子どもらしさが残っている。
『本当に、十年後につながったのか?』
「お前は誰だ?」
電話の向こうで、短い沈黙があった。
『朝倉遥斗』
予想していた答えなのに、心臓が大きく鳴った。
「何歳だ?」
『十六歳』
十年前の僕だった。
七年前の火災が起きる、さらに三年前。
まだ日和が死ぬ未来も、母さんを救う方法も知らなかったころの僕。
「どうして、この番号を知ってる?」
『白い髪の子に教えてもらった』
息が止まった。
隣で、日和が僕の顔を見上げる。
「白い髪の子?」
僕が聞き返すと、電話の向こうで幼い声がした。
『はる坊、説明が遅いよ』
その声だった。
時計塔で僕を呼んだ、忘れたはずの声。
胸の奥に空いた穴が、一瞬だけ熱を持つ。
「そこにいるのか?」
『いるけど……お前、この子を知ってるのか?』
「分からない」
言葉にすると、胸が締めつけられた。
「知っていたはずなんだ。でも、思い出せない」
電話の向こうで、十六歳の僕が息を呑んだ。
『本当に忘れるんだな』
「何を知ってる?」
『この子が言ったんだ。十年後の僕は、自分のことを忘れているって』
「代わってくれ」
返事を待たずに頼んだ。
「その子と話をさせてくれ」
電話の向こうで衣擦れの音がする。
けれど、幼い声は遠ざかっていった。
『駄目だって』
「どうして?」
『今の僕と話すと、十年後まで届かなくなるらしい』
「意味が分からない」
『僕にも分からないよ』
十六歳の僕が困ったように答える。
その言い方が、自分でも嫌になるほど僕に似ていた。
「その子は、今どこにいる?」
『東口駅の旧改札』
「時計塔の近くか?」
『時計塔? そんなもの、まだないけど』
日和が息を呑んだ。
現在の時計塔は、七年前の駅前整備で建てられたものだ。
十年前には、まだ存在していない。
「何をしてるんだ?」
『雨宿りしてたら、この子がいた。白い服で、裸足で、一人で泣いてた』
頭の奥に、見覚えのない光景が浮かぶ。
雨に濡れた旧改札。
古いベンチ。
その上に座る、小さな白い影。
近づく僕。
けれど、その先へ進もうとすると、記憶は白く途切れた。
「僕は、その子に何をした?」
『プリンを買った』
「プリン?」
『泣いてる理由を聞いても答えないから。甘いものなら食べるかと思って』
ポケットの中にある小さなスプーンが、急に重くなった。
柄に彫られたプリンの絵。
僕が持っていた理由。
誰かが使っていた理由。
すべてが、十年前のこの瞬間へつながっている。
『そしたら、急に笑ってさ』
電話の向こうで、十六歳の僕も少し笑った。
『今日からボクは、はる坊の神様だって言い出した』
喉の奥が震えた。
顔は思い出せない。
それでも、その光景だけは容易に想像できた。
偉そうに胸を張る小さな身体。
プリンを食べながら、一方的に神様を名乗る声。
「名前は?」
僕は尋ねた。
「その子の名前を聞かなかったのか?」
電話の向こうから返事はない。
代わりに激しい雑音が流れた。
『聞いた』
十六歳の僕の声が途切れ途切れになる。
『でも、聞いた瞬間に忘れた』
「どういうことだ?」
『名前を持ってないんだと思う』
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
『だから僕が、名前をつけた』
「何て名前だ?」
雑音がさらに大きくなる。
スマートフォンの画面に赤い文字が浮かんだ。
『過去との接続を終了します』
「待て!」
『時間がない。よく聞け』
十六歳の僕の声が強くなった。
『旧改札の二百二十五番』
「何がある?」
『この子が、自分で入れたものがある』
『残り時間――十秒』
「二百二十五番は、コインロッカーか?」
『そうだ。でも、今の駅には――』
声が途切れる。
『残り時間――五秒』
「鍵は?」
『お前が持ってる』
反射的に懐中時計を見る。
途中で切れた細い鎖。
その先端に、小さな金属片がついていた。
鍵のようにも見える。
『それから――』
「何だ?」
『この子を見つけても、絶対に名前を呼ぶな』
「どうして?」
雑音の向こうで、十六歳の僕が叫んだ。
『名前を思い出したら、今度はお前が――』
通話が切れた。
スマートフォンの画面が暗くなる。
最後の言葉は聞こえなかった。
今度はお前が。
その先に続く言葉を、考えたくなかった。
◇
非常灯が点灯し、時計塔の内部が赤い光に染まった。
「旧改札の二百二十五番」
日和が呟く。
「今も残ってるのかな」
「駅は七年前に改装されています」
紬が考え込む。
「旧改札にあった設備は、ほとんど撤去されたはずです」
「ほとんど?」
「一部は、駅の地下倉庫へ移されたと聞いたことがあります」
「どうして知ってる?」
「前の時間で、調べたことがあります」
紬はこめかみを押さえた。
記憶を探るたび、また別の未来が混ざっているのだろう。
「時計塔の点検通路から、地下倉庫へ行けるはずです」
僕たちは配電盤の奥を調べた。
壁に並ぶ金属製の棚を動かすと、その裏から細い階段が現れた。
下へ続いている。
階段の先は暗く、冷たい空気が吹き上がっていた。
「お兄、本当に行くの?」
「ああ」
「最後の言葉、聞こえなかったんでしょ」
「だから確かめに行く」
「そうやって、また一人で決める」
日和の言葉に、足が止まった。
振り返ると、日和と紬が並んで立っていた。
「三人とも当事者なんだろ」
日和はそう言って、僕の隣へ来る。
紬も反対側へ立った。
「今度は、一人で先へ行かないでください」
「分かった」
三人で階段を下りる。
地下には、撤去された駅の設備が並んでいた。
古い看板。
錆びた改札機。
割れた時計。
そして一番奥に、何十個ものコインロッカーが積まれている。
スマートフォンのライトで番号を照らす。
二二一。
二二二。
二二三。
二二四。
その隣に、二百二十五番があった。
扉には、三本の針が重なった印が刻まれている。
懐中時計と同じ印だ。
切れた鎖の先端を鍵穴へ差し込む。
ぴたりとはまった。
回す。
小さな音を立て、十年間閉ざされていた扉が開いた。
中に入っていたのは、一冊の古いノートだった。
表紙には、僕の字で書かれている。
『十年後の僕へ』
ノートを開く。
最初のページには、短い文章だけが残されていた。
『白い髪の神様を忘れた僕へ』
『あの子は消えていない』
『選ばれなかった時間の中で、今も僕を待っている』
次のページをめくる。
そこには、幼い僕と白い空白が写った写真が貼られていた。
懐中時計に入っていたものと同じ写真だ。
けれど、こちらの写真には一つだけ違いがある。
白く抜け落ちた誰かの足元に、赤い文字が浮かんでいた。
『発見予定時刻――明日、午後十時二十五分』
残り時間は、一日もない。
さらに、その下へ新しい文字が染み出した。
『迎えに来るのは、三人のうち一人だけ』
「三人……」
日和が呟いた。
僕。
日和。
紬。
そう思った瞬間、文字が書き換わる。
『十九歳』
『二十六歳』
『三十六歳』
僕たちのことではなかった。
三人の僕。
ノートの最後のページから、子どもの笑い声が聞こえた。
『はる坊』
ページの中央に、小さな手形が浮かび上がる。
『今度は、間違えないでね』
その直後、懐中時計の三本の針が、それぞれ違う方向へ動き始めた。




