忘れたはずの声
僕の手の中から、誰かの温もりが消えた。
追いすがるように手を握りしめたが、つかめたのは空気だけだった。
白い光が収まる。
時計塔の内部には、止まった歯車と焦げた配電盤だけが残っていた。
「お兄!」
日和が僕の腕をつかむ。
「大丈夫? 急に光ったと思ったら、動かなくなって」
「僕は……」
何をしていた。
誰と話していた。
記憶を探った瞬間、頭の中に白い霧が広がった。
そこに誰かがいた気がする。
ずっと僕のそばで、くだらないことを言っていた誰か。
笑い声と、小さな手の感触だけは残っている。
けれど、顔も声も名前も思い出せない。
「遥斗さん?」
紬が心配そうに僕を見つめる。
「何かあったんですか?」
「誰かが、ここにいた」
「誰か?」
日和が周囲を見回した。
「私たち以外に?」
「ああ」
答えた途端、自信がなくなった。
最初から、僕と日和と紬の三人だけだったのではないか。
十九歳の偽物は消え、三十六歳の僕との通信も切れた。
それ以外に、誰がいたというのだろう。
「分からない。でも、誰かがいたはずなんだ」
忘れたのではない。
奪われた。
そんな感覚だけが胸の中に残っている。
「今日は色々ありすぎたから、一度外へ出よう」
日和に促され、立ち上がろうとする。
そのとき、手の中で硬いものが動いた。
古びた懐中時計だった。
「こんなもの、持ってたか?」
金色の蓋には、三本の針が刻まれている。
何度も見たことがある気がするのに、いつ手に入れたのか分からない。
首から下げるための細い鎖は、途中で切れていた。
「それ……」
紬が懐中時計を見て、胸元を押さえる。
「知ってるのか?」
「いいえ。でも、見ると苦しくなります」
日和も時計を覗き込んだ。
「私も。大切なものだった気がする」
「誰の?」
「分からない」
三人とも覚えていない。
それなのに、同じ誰かを失ったような顔をしていた。
僕は懐中時計の蓋を開ける。
中には、小さな写真が一枚収められていた。
写っているのは、七歳くらいの僕。
公園のベンチへ座り、隣にいる誰かへ笑いかけている。
けれど、僕の隣だけが人の形に白く抜け落ちていた。
写真の裏には、赤い文字が残っている。
『消滅予定者――』
名前は書かれていない。
「これ、誰のこと?」
日和が尋ねる。
「分からない」
答えながら、胸の奥が痛んだ。
知らないはずの誰かが、僕たちの代わりに消えた。
頭では否定しているのに、身体だけがその存在を覚えている。
「写真を撮っておこう」
スマートフォンを開く。
紬、日和、僕の死亡予定を示していた三枚の写真は残っていた。
けれど、そこに刻まれていた赤い名前は、すべて消えている。
「私たち、助かったの?」
日和が呟く。
紬は答えず、何もない空間へ手を伸ばした。
「誰かに、助けてもらった気がします」
「誰に?」
「分かりません。でも……最後に、泣きながら笑っていたような」
同じものを、僕も見た気がした。
小さな身体。
差し出された手。
泣いているのに、いつものように笑っていた誰か。
懐かしい。
会いたい。
それでも、誰に会いたいのかさえ分からない。
「ここを捜そう」
「何を?」
「分からない。でも、何か残ってるかもしれない」
僕たちは時計塔の内部を調べ始めた。
十九歳の偽物が残した写真は、すべて真っ白になっている。
日和が床の隅で、小さなものを拾った。
「お兄、これ」
銀色のスプーンだった。
子どもが使うような大きさで、柄の部分にプリンの絵が彫られている。
「どうして、こんなものが時計塔に?」
スプーンを受け取った瞬間、頭の中に声が響いた。
――それ、神様への報酬です。
幼く、少し得意げな声。
「今、何か言ったか?」
「言ってないよ」
日和が首を振る。
紬も黙っている。
「プリン……」
冷蔵庫から勝手に持ち出されたプリン。
机の上で偉そうに食べていた、小さな誰か。
「僕のプリンを、いつも勝手に食べてた」
「誰が?」
「分からない」
それでも、口元がわずかに緩んだ。
同時に、涙が一滴だけ床へ落ちる。
「どうして泣いてるの?」
「分からないんだ」
涙を拭う。
「何も覚えてない。誰を失ったのかも分からない。それなのに、もう会えないことだけは分かる」
紬が静かに言った。
「帰りましょう。ここにいると、忘れてはいけないことまで忘れてしまいそうです」
僕は懐中時計とスプーンをポケットへしまった。
三人で点検扉へ向かう。
扉を開ける直前、背後から小さな音が聞こえた。
カチッ。
懐中時計の針が動いている。
止まっていた三本のうち、一番短い針だけが一秒分進んでいた。
「動いた?」
「ああ」
蓋の裏側に、さっきまではなかった傷が浮かんでいる。
指でなぞると、傷はゆっくりと赤く染まった。
『忘れても、なくなったことにはならない』
その下に、もう一行。
『ボクを見つけて』
「ボク……?」
読み上げた瞬間、懐中時計から激しい雑音が流れた。
『――まだ、終わってないよ』
幼い声だった。
聞いたことがないはずなのに、僕の胸はその声を知っていた。
誰だ。
どこにいる。
どうして僕は、お前を忘れている。
問いかけようとした瞬間、雑音が弱くなった。
通信が切れる直前、針がもう一度動く。
カチッ。
懐中時計から漏れた赤い光が、僕のスマートフォンを照らした。
画面には、見覚えのない着信履歴が一件だけ表示されている。
発信者名は空白。
記録された時刻は、今から十年前だった。
「……十年前?」
着信履歴の下には、三秒間の留守番電話が残されていた。
紬が息を呑む。
「聞かないほうが……」
その瞬間、音声が勝手に再生された。
最初の一秒は、激しい雑音。
次の一秒は、遠くで誰かが泣く声。
そして最後の一秒。
『はる坊』
時計塔の中に沈黙が落ちた。
その呼び方を知っている。
誰にも教えていない。
日和も紬も、今の僕でさえ使ったことがない。
忘れたはずの声が、確かに僕を知っている。
直後、画面に新しい通知が表示された。
『発信元を特定しました』
震える指で通知を開く。
表示された名前を見た瞬間、血の気が引いた。
『朝倉遥斗』
僕自身の名前だった。
その下に、もう一行だけ続いている。
『ただし、現在のあなたではありません』
時計塔のどこかで、子どもの笑い声がした。
今度は、誰も聞き間違えようがないほど近くで。
『はる坊、早く見つけて』
そして、すべての明かりが消えた。




