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第四の選択肢

真っ白だった写真の中央に、僕の影が浮かんだ。


裏返す。


赤い文字が刻まれている。


『死亡予定者――朝倉遥斗』


見間違えるはずがない。


僕の名前だ。


『二人を救うなら、お前が死ね』


十九歳の偽物の亀裂から現れた、三十六歳の僕が告げる。


血に濡れた手。


その足元に倒れている、紬と日和。


『それが、まだ選ばれていない未来の条件だ』


「ふざけるな」


僕が一歩踏み出した瞬間、三十六歳の姿に雑音が走った。


『残り時間は一日だ』


「待て! どうして僕が死ねば、二人を救える?」


『その答えは――』


映像が大きく歪む。


『お前のすぐそばにいる』


亀裂が閉じた。


三十六歳の姿は消え、あとには、ひび割れた十九歳の偽物だけが残った。


偽物は僕と同じ顔で、静かに笑っている。


「今のは何だ?」


『三十六歳のお前が残した記録だ』


「記録……?」


『僕の中には、選ばれなかった未来が残っている。あれも、その一つだ』


僕は写真を握りしめた。


紙が折れそうになったところで、日和が僕の手をつかむ。


「駄目」


「……日和」


「消したら、分からなくなる」


「分からなくていい。こんな未来――」


「お兄が死ぬ未来だから?」


日和は僕の手から写真を取り上げた。


指先が震えている。


それでも、写真から目を逸らさなかった。


「紬を救えば私が死ぬ。私を救えば紬が死ぬ。二人を救うなら、お兄が死ぬ」


「だったら、答えは決まってる」


「決めないで」


日和の声が、僕の言葉を切った。


「勝手に一人で決めないでよ」


「でも――」


「三人とも当事者だって言ったでしょ」


日和は写真を胸元へ引き寄せた。


「お兄だけが選ぶ話じゃない」


紬も、僕の腕をつかんだ。


「私も、あなたが死ぬ未来は選びません」


「君たち二人が助かるなら――」


「それ、前の私も言いました」


紬の声が震える。


「日和を助けるためなら、私の手を離していいって」


あの日の光景が蘇る。


暗闇へ落ちていく紬。


伸ばしても届かなかった、三十六歳の僕の手。


「その結果、あなたは今も苦しんでいる」


紬は首を振った。


「同じことを、あなたにさせるつもりはありません」


「じゃあ、どうするんだよ」


返事はなかった。


時計塔の針が、かすかに動く。


その音に混じって、僕のすぐそばから、金属の小さな擦れる音が聞こえた。


小さな神様が首から下げている懐中時計だった。


いつもなら止まっているはずの三本の針が、ほんのわずかに震えている。


神様はそれに気づくと、慌てて手で覆い隠した。


「どうした?」


「何でもないよ」


そう答えた声は、いつもの軽さを失っていた。


僕たちが黙っている間にも、残された時間だけが減っていく。


その沈黙の中で、十九歳の偽物が笑った。


『相変わらずだな』


身体を覆う亀裂の奥で、無数の写真が明滅している。


『誰も死なせたくない。誰も選びたくない。そう言って、最後には時間切れになる』


「お前なら、選べるのか?」


『選んできたよ』


偽物の足元へ、三枚の写真が落ちた。


一枚目には、四番ホームで倒れた日和。


二枚目には、時計塔の暗闇へ落ちる紬。


三枚目には、血に濡れた僕。


『日和。紬。遥斗。何度も、何度もな』


「それは、お前が選んだんじゃない」


小さな神様が前へ出た。


日和と紬には見えていない。


けれど、偽物の目は確かに神様を追っていた。


『選ばれなかった結果を集めただけだよ』


「同じことだ」


神様の言葉に、偽物の笑みが消えた。


『違う』


「何が違う?」


『お前は、全部見ていただけだ』


偽物は神様を指差した。


『誰かが死ぬたびに時間を戻して、また選ばせた。自分は何も失わない場所に立ったままな』


小さな神様の顔から、いつもの笑みが消えた。


その手の中で、懐中時計がまた一度だけ震える。


神様は蓋を開きかけたが、すぐに閉じた。


「どういう意味だ?」


僕が尋ねても、神様は答えない。


偽物が代わりに口を開いた。


『知らないのか、二十六歳の僕』


「何を?」


『時間を戻しているのは、その神様だ』


時計塔の歯車が、一斉に軋んだ。


僕は神様を見る。


「本当なのか?」


「ボク一人の力じゃない」


神様は首に下げた懐中時計を握った。


その指が、文字盤の裏側を探るように動く。


「この時計と、紬の願い。それから、はる坊たちが未来を変えようとした力。その三つが重なって、時間が戻ってる」


「この時計に、そんな力があるのか?」


「力があるというより……戻った時間を、ここに記録してるんだ」


神様は懐中時計を見下ろした。


「だから、針が進むたびに、選ばれなかった未来が一つずつ消えていく」


「消える?」


「うん。記録がなくなれば、その未来へ戻る道もなくなる」


その言葉に、偽物が低く笑った。


『やっと話す気になったか』


神様は懐中時計を胸元へ押しつけた。


「どうして黙ってた?」


「言えなかった」


「答えを直接教えられないから?」


神様は小さく頷いた。


「それもある。でも……怖かったんだ」


「何が?」


「本当のことを知ったら、はる坊はきっと、自分を選ばないから」


胸の奥が冷たくなる。


三十六歳の僕が言った。


答えは、僕のすぐそばにいる。


それは、小さな神様のことだったのか。


「まだ隠してることがあるのか?」


神様は俯いた。


懐中時計の蓋が、かすかに開いた。


その隙間から、見覚えのない白い光が漏れる。


僕が覗き込もうとすると、神様はすぐに時計を握り込んだ。


「今は、まだ見ないで」


「何が入ってる?」


「まだ決まっていないものだよ」


「決まっていない?」


神様は答えず、時計を首元へ戻した。


「お兄」


日和が僕を見る。


「神様は、何て言ってるの?」


僕はすぐに答えられなかった。


見えない相手の存在を信じて、日和は返事を待っている。


「時間を戻していたのは、神様らしい」


「神様が?」


「ああ。でも、神様一人の力じゃない」


紬が、僕の視線の先を見つめた。


何も見えない空間へ、静かに問いかける。


「あなたは、最初から私たちを見ていたんですか?」


「……うん」


神様の返事を、僕が二人へ伝える。


紬は唇を噛んだ。


怒っているようには見えなかった。


ただ、何度も繰り返した時間の中で、自分が一人ではなかったことを初めて知ったような顔をしていた。


「死ぬ人間を入れ替えるだけじゃ、誰も救えない」


偽物が言った。


三枚の写真が宙へ浮かぶ。


『時間を変えた瞬間、消えるはずだった死はなくならない。行き先を失って、別の誰かへ移る』


「だから、必ず一人が死ぬのか?」


『今までのやり方ならな』


日和が顔を上げた。


「今までの……やり方?」


『三つの未来から一つを選ぶ。それがお前たちの人生攻略だった』


日和が死なない未来。


紬が死なない未来。


僕が死ぬことで、二人が助かる未来。


「三つとも選ばなかったら?」


僕の問いに、偽物は初めて黙った。


紬が一歩前へ出る。


「別の未来を作るということですか?」


『作れればな』


「方法を知ってるんだろ」


偽物の胸元を走る亀裂が広がった。


中から、一枚の写真が落ちる。


真っ白で、何も写っていない写真。


「これは?」


『まだ一度も選ばれていない未来だ』


写真の裏にも、文字はなかった。


死亡予定者の名前も、残り時間もない。


『日和、紬、遥斗。三人の外側にいる者が代償を引き受ければ、その未来へ進める』


「三人の外側にいる者?」


偽物の視線が動く。


その先にいるのは、小さな神様だった。


神様は懐中時計を握りしめた。


文字盤の針が、三人の誰にも聞こえない音を立てて進む。


僕は反射的に、神様の前へ立った。


「神様を殺せば助かるって言いたいのか?」


『神は死なない』


「じゃあ、どうなる?」


『消える』


その一言で、部屋の空気が止まった。


『過去にも、現在にも、未来にも存在しなかったことになる』


「そんなの、死ぬのと同じだろ」


『人間の基準ならな』


「他の方法は?」


『僕が知っているのは、それだけだ』


偽物の身体が薄くなり始める。


「待て!」


『選べ、二十六歳の僕』


声が遠ざかる。


『誰か一人が死ぬ未来か』


真っ白な写真が、ゆっくりと床へ落ちた。


『誰からも覚えられず、神様が消える未来か』


十九歳の偽物は、無数の写真へ崩れて消えた。


あとに残ったのは、白紙の一枚だけだった。


「嘘だよな?」


小さな神様へ尋ねる。


「お前が消えれば、僕たちは助かるなんて」


神様は答えない。


懐中時計の蓋が、ひとりでに開いた。


中には、何も写っていない小さな写真が収められている。


その写真の端に、赤い線が一本だけ浮かんだ。


神様はそれを見て、すぐに蓋を閉じた。


「いつから知ってた?」


「最初からじゃないよ」


「いつ知った?」


「はる坊が家族を救ったとき」


「どうして言わなかった?」


「言ったら、選ばないでしょ」


「当たり前だ!」


僕の声が時計塔の中へ響いた。


「僕たちを助けるために、お前が消えるなんて……認められるわけない!」


小さな神様は、困ったように笑った。


いつも、いたずらを誤魔化すときに見せる笑顔だった。


けれど、その目には涙が浮かんでいる。


「はる坊」


神様は首から懐中時計を外した。


「この時計は、時間を戻すためだけのものじゃない」


「じゃあ、何なんだ?」


「戻した時間を、最後に一つへ絞るためのもの」


神様は懐中時計を両手で包んだ。


「選ばれなかった未来を全部消して、残った未来だけを現実にする」


「それを使ったら、どうなる?」


神様は答えなかった。


その沈黙が、答えの代わりだった。


止まっていた三本の針が、同時に動き始める。


その音が、時計塔の中に響いた。


一秒。


また一秒。


失われた時間が、最後の瞬間へ向かって動き出す。


「第四の選択肢は、ちゃんとあるよ」


神様は懐中時計を両手で抱きしめた。


その小さな身体が、淡い光に包まれていく。


「ボクが消えれば、三人とも助かる」


「やめろ」


声が出なかった。


喉の奥で、言葉が潰れる。


「そんなの、選択肢じゃない」


「ううん。これは、はる坊が選ばなくていい選択肢なんだ」


神様は笑った。


泣きながら、それでも笑っていた。


「ボクが、自分で選ぶから」


懐中時計の針が、十二時を指す。


その瞬間、日和が息を呑んだ。


「……今、誰かいた?」


紬も、何かを感じ取ったように顔を上げる。


「遥斗さん。そこに、誰かいるんですか?」


僕の目の前で、神様の輪郭が少しずつ透けていく。


「いる」


やっとのことで答えた。


「ずっと、ここにいる」


「誰が?」


日和の声が震える。


神様は僕を見上げた。


「言わないで」


「でも――」


「最後まで、ボクを覚えていて」


その言葉が、胸に突き刺さった。


消える。


過去からも、現在からも、未来からも。


日和も、紬も、僕自身も、神様を覚えていられなくなる。


それなのに、神様だけが僕を覚えているような言い方だった。


「嫌だ」


僕は手を伸ばした。


けれど、指先は神様の身体をすり抜けた。


「嫌だ! お前が消える未来なんて、僕は選ばない!」


「選ばなくていいよ」


「ふざけるな! 僕たちを救うために、お前が消えるなら、それは僕が殺すのと同じだ!」


「違うよ」


神様は、懐中時計を僕の手のひらへ押しつけた。


冷たいはずの金属が、焼けるように熱い。


「はる坊が、何度もボクを選ばなかったから……今度は、ボクがはる坊を選ぶんだ」


懐中時計の蓋が開く。


中には、見覚えのない写真が一枚だけ収められていた。


そこに写っていたのは、幼い僕と、まだ誰にも知られていない小さな神様だった。


写真の裏に、赤い文字が浮かぶ。


『消滅予定者――???』


名前は、まだ空白だった。


僕は写真を握りしめる。


「待て……名前がない」


神様の光が、さらに強くなる。


「名前を書いたら、決まっちゃうから」


「だったら書くな! 僕が別の方法を探す!」


「もう時間がない」


時計塔の針が、最後の一秒を刻もうとしていた。


神様は僕の手を取った。


その手の感触が、急速に薄れていく。


「はる坊。ボクの名前を呼んで」


「嫌だ」


「お願い」


「嫌だ! 呼んだら、お前が消える!」


「呼ばれないまま消えるほうが、ずっと寂しいよ」


僕は息を詰まらせた。


神様は、泣きながら笑っている。


「だから、最後に一度だけ」


時計塔の針が、十二時を指した。


世界が白く染まる。


日和の声が遠ざかる。


紬の手が、僕の腕から離れていく。


僕は必死に神様の名前を思い出そうとした。


けれど、頭の中から何かがこぼれ落ちていく。


名前が消える。


顔が消える。


声が消える。


それでも、手のひらに残った懐中時計だけが、確かな重みを持っていた。


「違う……」


僕は叫んだ。


「僕は、お前を消さない!」


白い光の中で、神様が最後に笑った。


「もう遅いよ、はる坊」


その瞬間、懐中時計の針が止まった。


そして、僕の手の中から、神様の温もりだけが消えた。

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