三人とも当事者
「私が、あなたに私を殺させたんです」
紬の声が、写真の舞う部屋へ落ちた。
僕の腕の中で、彼女は震えている。
「違う」
「違いません。私が指を離したから、あなたは――」
「違う」
もう一度、強く否定する。
「君は日和を助けようとした。僕も日和を助けた。それを、僕が君を殺した理由にするな」
紬が顔を上げる。
「でも、私が頼まなければ、あなたは手を離さなかった」
「離したくなかったんだろ。三十六歳の僕も」
写真の中で聞いた声が、まだ耳に残っている。
『君も家族になるはずだった』
あれは、紬を切り捨てようとした人間の声ではなかった。
どちらも失いたくないのに、選ばされてしまった人間の声だ。
「僕は君を殺したんじゃない」
「朝倉さん……」
「選ばされたんだ。君か、日和かを」
『結果は同じだ』
十九歳の偽物が言った。
暴走する写真の中央で、その身体は黒い亀裂に覆われている。
『どんな言葉で飾っても、紬の手を離したのはお前だ』
「黙れ」
『日和を選び、紬を捨てた。だから三十六歳のお前は、紬を救えないと知っている』
「知ってるんじゃない」
僕は紬を支えたまま、偽物を睨んだ。
「諦めたんだ」
偽物の目が細くなる。
「何度やり直しても、どちらかが死んだ。だから、二人とも救う方法はないと決めつけた」
『十五回以上も失敗したんだぞ』
「回数が多ければ、諦めることが正解になるのか?」
『なら選べ』
偽物が右手を上げる。
宙を舞っていた写真が二つに分かれた。
右側には、紬が生きている未来。
左側には、日和が生きている未来。
どの写真にも、二人が一緒に笑っている姿はない。
『紬か、日和か』
僕のポケットでスマートフォンが震えた。
画面には『日和』と表示されている。
「出ないのか?」
小さな神様が尋ねる。
「出る」
迷わず通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お兄、今どこ?』
「時計塔の中だ」
『やっぱり。位置情報がそこで止まってる』
「日和はどこにいる?」
『時計塔の前』
思わず、入口のあった壁を見る。
通路は消えたままだ。
「中へ入るな」
『入り口なんてないよ。さっきまで扉があったはずなのに、壁になってる』
日和の声は近い。
壁一枚を挟んだ向こうにいる。
『何が起きてるの?』
「あとで説明する」
『またそれ?』
「危険なんだ」
『だから聞いてるの』
日和の声が強くなる。
『紬は一緒?』
「ああ」
『無事なの?』
僕は腕の中の紬を見る。
「今は無事だ」
『今は、って何?』
偽物が笑った。
『本人に聞かせればいい』
「やめろ」
偽物が指を鳴らす。
スマートフォンの画面に、一枚の写真が表示された。
四番ホームで倒れている日和。
同じ写真が、通話中の日和のスマートフォンにも送られる。
『これ……私?』
日和の声が止まった。
「見るな。そいつが勝手に送った」
『お兄』
「なんだ」
『紬を救ったら、私が死ぬの?』
答えられなかった。
その沈黙だけで、日和には伝わってしまった。
『それで、紬か私かを選べって言われてる?』
「ああ」
『馬鹿じゃないの』
偽物の笑みが消えた。
「日和?」
『どっちかを選べって言ってるやつ。馬鹿じゃないのって言ったの』
『写真を見ても同じことが言えるのか?』
偽物の声が、スマートフォンを通して日和へ届く。
『紬を救えば、お前が死ぬ』
『だから何?』
日和は即答した。
僕も紬も、言葉を失う。
『死ぬのが怖くないのか?』
『怖いに決まってるでしょ』
日和の声は震えていた。
『でも、怖いからって、紬に死んでほしいとは思わない』
紬の目から涙がこぼれる。
『紬、聞こえてる?』
「……はい」
『勝手に私を助けて、勝手に死なないで』
「でも、あのときは私が手を離さなければ、あなたが――」
『それは未来の話でしょ』
日和が遮った。
『まだ起きてない。だったら変えればいい』
「何度変えても、どちらかが死にました」
『二人で変えようとしたからじゃないの?』
紬が息を止める。
『未来のお兄と紬だけで、何とかしようとしたんでしょ。私は何も知らないまま、助けられる側にいた』
「日和……」
『今回は私もいる』
壁の向こうから、日和が拳で叩く音がした。
『私の命なんだから、私にも考えさせて』
「危険なんだぞ」
『分かってる。だから、勝手に守らないで』
『お前に何ができる』
偽物が低い声で尋ねる。
『何度も失敗した人間に分からなかった答えを、お前が見つけられるとでも?』
『分からないよ』
日和は正直に答えた。
『でも、分からないからって、どちらかが死ぬことを正解にはしない』
壁を叩く音が、もう一度響く。
『お兄。紬。二人とも助けて』
「日和は自分も数に入れろ」
『違う』
日和の声が少しだけ近づいた。
『私も含めて、三人とも助かる方法を探して』
小さな神様が、懐中時計を見下ろす。
逆向きに動いていた秒針が止まっていた。
「はる坊」
「どうした?」
「未来が増えた」
宙を舞う写真を見る。
紬が生きている未来。
日和が生きている未来。
その二つの間に、一枚だけ真っ白な写真が浮かんでいた。
何も写っていない。
まだ一度も選ばれたことのない未来。
僕は紬へ手を差し出した。
「立てる?」
紬はその手を見つめる。
先ほど思い出したばかりの、いつか離れた手。
それでも今度は、紬のほうから僕の手を握った。
「はい」
「日和にも手伝ってもらおう」
「危険です」
「分かってる。でも、隠したまま守るのは、もうやめる」
紬は迷ったあと、小さく頷いた。
「三人で、原因を見つけましょう」
『そんな未来は存在しない!』
偽物が叫ぶ。
黒い線が配電盤から伸び、真っ白な写真を貫こうとする。
その直前、壁の向こうで何かが砕けた。
消えていた通路が現れる。
扉の前に、スマートフォンを握った日和が立っていた。
「だったら、今から作ればいい」
日和は僕と紬の間へ歩いてくる。
「私か紬かなんて、選ばせない」
偽物の身体に、新しい亀裂が走った。
同時に、三人のスマートフォンが震える。
僕の画面には、
『残り時間――一日』
紬の画面にも、同じ文字。
そして日和のスマートフォンには、別の文章が表示されていた。
『死亡予定者――朝倉日和』
その下で、赤い数字が動き始める。
『残り時間――一日』
日和は自分の死を示す画面を見つめたあと、僕たちへ向けた。
「これで、三人とも当事者だね」
その瞬間、時計塔の奥で、止まっていたはずの鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
音が響くたび、宙を舞っていた写真が裏返っていく。
そこに写っていたのは、紬でも日和でもなかった。
黒く塗りつぶされた、僕の顔。
最後の一枚にだけ、新しい文字が浮かんでいた。
『死亡予定者――朝倉遥斗』
「……僕?」
声が震えた。
日和が息を呑み、紬が僕の腕をつかむ。
その直後、偽物の身体を覆っていた亀裂が一斉に開いた。
亀裂の内側に映し出されたのは、十九歳の僕ではない。
三十六歳の僕だった。
血に濡れた手で、誰かの手を握っている。
その隣には、倒れた紬と日和がいた。
『二人を救うなら、お前が死ね』
未来の僕が、静かに告げる。
『それが、まだ選ばれていない未来の条件だ』
時計塔の針が、残り一日を示す位置で止まった。
真っ白だった写真に、ゆっくりと三人分の影が浮かび上がる。
その中央に立っていたのは――僕だった。




