君の手を離した理由
『紬は救えない』
三十六歳の僕の声が途切れた。
同時に、配電盤の赤いランプが消える。
七年前の僕の声も聞こえなくなり、巨大な文字盤の針が止まった。
「待て!」
配電盤を叩いても返事はない。
「三十六歳の僕! まだ話は終わってない!」
静まり返った部屋に、僕の声だけが響く。
「はる坊、時間が閉じた」
小さな神様が懐中時計を耳へ当てた。
「十九歳の僕は?」
「駅員さんを呼んだところまでは聞こえた。でも、そのあとは分からない」
「火事は?」
「起きてないと思う」
「思う、じゃ困るんだよ」
「ボクに怒らないでよ!」
神様の声が震えた。
いつもの軽い調子はない。
不安なのは、僕だけではなかった。
隣にいる紬は、配電盤を見つめたまま動かない。
「紬」
声をかけると、肩が小さく跳ねた。
「三十六歳の僕が言ったこと、信じるのか?」
「分かりません」
「前にも聞いた?」
「似た言葉なら、何度も」
紬は胸元で手を握った。
「助けられない。間に合わない。方法がない。未来が変わるたび、言葉も少しずつ変わりました」
「それでも僕は、君を助けようとした」
「はい」
「最後には、僕が君を殺した」
紬は答えなかった。
その沈黙を破るように、十九歳の偽物が笑った。
『未来の僕は、また逃げた』
振り返る。
偽物は消えていなかった。
身体の亀裂はさらに広がり、その内側で無数の写真が明滅している。
『説明すれば、お前たちが従わないと知っているからな』
「何を隠してる?」
『紬を救えない理由だ』
「知ってるのか?」
『僕は、捨てられた未来の記録だ。お前たちが忘れたことも、全部残っている』
偽物が腕を広げる。
身体の中から、何十枚もの写真が飛び出した。
一枚が僕の足元へ落ちる。
写っているのは、家の居間だった。
父さん。
母さん。
僕。
三人が食卓を囲んでいる。
日和の姿だけがない。
写真の裏には、赤い文字が浮かんでいた。
『水瀬紬 生存』
その下に、もう一行。
『朝倉日和 死亡』
「嘘だ」
『なら、次を見ろ』
別の写真が床を滑る。
東口駅の四番ホーム。
ベンチの前に日和が倒れている。
撮影日時は、紬の死亡予定日と同じだった。
「やめろ」
『紬を救えば、日和が死ぬ』
偽物は僕と同じ顔で笑う。
『日和を救えば、紬が死ぬ。何度やり直しても、必ずどちらかが消えた』
「そんな決まりがあるはずない」
小さな神様が叫んだ。
『神様が知らないだけだ』
「時間を変えた代わりに、別の人が死ぬなんて決まりはない!」
『現実に起きている』
「誰かが、そうなるように仕組んでるんだよ!」
偽物の笑みが消えた。
『だったら、誰が?』
「それを今から見つけるんだ」
『見つからなかったから、三十六歳のはる坊は紬を諦めたんでしょ!』
神様が言葉を失う。
偽物の周囲で、歯車が逆向きに回り始めた。
閉じたはずの配電盤が激しく揺れる。
「何をするつもりだ?」
『未来の僕を、ここへ引きずり出す』
「やめろ!」
『あいつは僕を記録だと言った。生きていないと決めつけ、消そうとした』
偽物の身体から黒い線が伸び、配電盤へ絡みつく。
消えていた赤いランプが、一斉に点灯した。
『だったら、どちらが本物か確かめよう』
壁の奥から激しい雑音が聞こえる。
その中に、三十六歳の僕の声が混じっていた。
『接続を切れ!』
「三十六歳の僕!」
『そいつを止めろ! 消えた未来を現在へ流し込めば、時間が壊れる!』
偽物が配電盤を殴った。
『壊したのはお前だ!』
写真が嵐のように舞い上がる。
日和が死んだ未来。
母さんが死んだ未来。
父さんが家族から逃げた未来。
そのすべてが、部屋の壁や床へ映し出された。
「朝倉さん!」
紬の身体が宙を舞う写真に包まれる。
僕は腕を伸ばし、紬の手をつかんだ。
その瞬間、紬の表情が変わった。
「この手……」
「どうした?」
「思い出しそうです」
「今は見るな!」
「でも、ここに答えが――」
写真の一枚が光を放った。
そこに写っているのは、十年後の時計塔だった。
崩れた床。
火花を散らす配電盤。
床から突き出した鉄骨につかまり、宙へ投げ出されている紬。
三十六歳の僕が、片手で紬の手首をつかんでいた。
すぐそばには赤い遮断器がある。
けれど、レバーは固く、両手でなければ下げられない。
配電盤の向こうから、日和の声が聞こえた。
『お兄、助けて!』
炎の向こうで、日和が倒れている。
『遮断器を下げれば、日和は助かる』
写真の中で、三十六歳の僕が言う。
『でも、そのためには――』
紬の手を握っている指が震えていた。
『君の手を離さなければならない』
今の紬が息を止める。
記憶が写真から彼女の中へ流れ込んでいる。
「もう見なくていい!」
紬の肩をつかむ。
けれど、紬の目には僕ではなく、十年後の光景が映っていた。
写真の中の紬が、泣きながら笑う。
『日和を助けてください』
『できない』
『あなたは、家族を取り戻すためにここまで来たんでしょう?』
『君も家族になるはずだった!』
三十六歳の僕の声が崩れる。
『君を失うために、未来を変えたんじゃない!』
『それでも、選んでください』
『嫌だ』
『遥斗』
初めて、紬が僕の名前を呼んだ。
『私のことを愛しているなら、日和を助けて』
三十六歳の僕は何度も首を振る。
それでも炎は広がり、日和の声が弱くなっていく。
紬は、自分の手首をつかむ指へ触れた。
一本ずつ、ゆっくりと引き離していく。
『やめろ、紬!』
『大丈夫です』
『大丈夫なわけないだろ!』
『次の私を、見つけてください』
最後の指が離れる。
三十六歳の僕は紬へ手を伸ばした。
届かない。
紬の身体が暗闇へ落ちていく。
その直後、三十六歳の僕は叫びながら赤い遮断器を引き下ろした。
光景が消える。
紬の身体から力が抜けた。
僕は倒れそうになった彼女を抱き止める。
「紬!」
「思い出しました」
「何を?」
紬の目から涙が溢れた。
「私が死んだ日のことを」
偽物の暴走も、舞い続ける写真も、今の僕には見えなかった。
腕の中で、紬が震えている。
「あなたは私を殺したんじゃありません」
紬は僕の服を強く握った。
「私が――」
声を詰まらせながら、それでも最後まで言葉にする。
「私が、あなたに私を殺させたんです」




