三人の遥斗
『ようやく、三人そろったな』
配電盤の奥から、三十六歳の僕の声が響いた。
七年前にいる十九歳の僕。
時計塔の中にいる二十六歳の僕。
そして、十年後にいる三十六歳の僕。
「三人?」
十九歳の偽物が笑う。
『ここには僕もいる。四人の間違いじゃないか?』
返事はない。
代わりに、三十六歳の僕が低く命じた。
『二十六歳の僕。その偽物から離れろ』
「理由は?」
『説明している時間はない』
「またそれか」
未来の僕は、いつも肝心なことを隠す。
信じろ。
止めろ。
救え。
命令だけを投げ、何が起きるのかは決して語らない。
『十九歳の僕、聞こえているか?』
「聞こえてる」
配電盤の向こうから、本物の僕が答えた。
今より少し高く、迷いを隠せない声だった。
「本当に、三十六歳の僕なのか?」
『そうだ』
「証拠は?」
『七年前の午後十時十五分、日和から電話が来る。雨なのに傘を忘れたから、駅まで迎えに来てほしいと言われる』
「それは二十六歳の僕も知ってる」
『電話が来る直前、お前は父さんに言われる。“お前が来なければ、俺は署名していた”』
配電盤の向こうが凍りついた。
僕も知らない言葉だった。
事故を止めた直後、父さんと十九歳の僕だけが交わした会話なのだろう。
「……本物みたいだな」
十九歳の僕が呟く。
「待ってくれ」
僕は配電盤へ駆け寄った。
「どうして十年後の僕が、七年前の会話を知ってる?」
『覚えているからだ』
「今の僕には、その記憶がない」
『未来はまだ確定していない。お前に記憶がないのは当然だ』
「だったら、そいつを偽物と呼ぶ根拠は?」
背後の十九歳を指差す。
その身体には細い亀裂が走り、内側で消された写真や手紙が明滅していた。
『そいつは人間じゃない。失敗した時間の記録だ』
「お前が作ったんだろ」
『作ったのではない。残した』
初めて、三十六歳の声が揺れた。
『必要だったからな』
「何のために?」
『今は話せない』
偽物が喉の奥で笑う。
『話せないんじゃない。話せば、こいつらが命令を聞かなくなるからだ』
『黙れ』
三十六歳の声が鋭く跳ねた。
その瞬間、部屋中の歯車が一斉に止まる。
『お前は記録でしかない。意思を持つようには作られていない』
『だったら、この気持ちは何だ?』
偽物が胸に手を当てた。
『消えたくない。捨てられたくない。僕たちを失敗だったと決めつけられたくない。それも全部、記録だと言うのか?』
三十六歳の僕は答えなかった。
その沈黙が、答えそのものに聞こえた。
「三十六歳の僕」
七年前の僕が叫ぶ。
「僕に何をさせたい?」
『配電盤の右下に、赤い遮断器がある』
「ある」
『下げろ』
紬の手が僕の袖をつかんだ。
「駄目です」
声が震えている。
「その命令、聞いたことがあります」
「いつ?」
「分かりません。でも、同じ声で、同じように……」
紬は配電盤を見つめた。
「そのあと、誰かが消えました」
『記憶が混ざっている。彼女の言葉を信じるな』
「紬のせいにするな」
僕は遮るように言った。
「十五回以上も同じ時間を繰り返した。記憶が混ざった原因は、僕たちだ」
『だからこそ、正しい手順が必要なんだ』
赤いランプが激しく点滅する。
金属の焼ける臭いが鼻を刺した。
『十九歳の僕、遮断器を下げろ。このままでは七年前の配電盤が発火する』
「下げたら何が起きる?」
『事故を防げる』
「それだけか?」
返事はない。
偽物が配電盤へ一歩近づいた。
『過去との接続が切れる。消された未来を保存している回路も止まる』
「つまり?」
『僕が消える』
十九歳の僕が息を呑んだ。
「それを知っていて、下げろと言ってるのか?」
『そいつは生きていない』
「決めるのはお前なのか?」
『十九歳の僕』
声が低くなる。
『迷えば、もっと多くの人間が死ぬ』
「だからって、何も説明せずに消していい理由にはならない」
『お前はまだ、失う数を知らない』
「知りたくもない」
十九歳の僕は、はっきりと言った。
「誰かを数にして選ぶような大人にはなりたくない」
その言葉が胸に刺さる。
三十六歳の僕は黙った。
十年後の僕は、いったい何人を失ったのだろう。
何度選び、何度切り捨てれば、こんな声になるのだろう。
「遮断器は下げない」
十九歳の僕が言う。
「でも、火事も起こさせない。駅員を呼ぶ」
『間に合わない』
「まだ何も起きてない。決めつけるな」
電話の向こうで、走り出す足音が響いた。
「僕はこっちの配電盤を調べる」
スマートフォンのライトを向ける。
「三十六歳の僕。命令じゃなく、必要な情報を教えろ」
『遮断器を下げろ』
「断る」
『偽物を残せば、時間の歪みは広がる』
「それでも、消す前に話を聞く」
『その甘さが、すべてを失わせる』
「未来で何があった?」
返事はない。
「どうして紬は死ぬ?」
沈黙。
「どうして僕が紬を殺す?」
なおも答えはない。
紬が僕の隣に立った。
「あなたは、前も同じでした」
配電盤へ向かって言う。
「私を守ろうとして、何も話してくれなかった」
『紬』
初めて、三十六歳の僕が彼女の名を呼んだ。
冷たい声が、ほんの一瞬だけ崩れる。
懐かしさ。
後悔。
もう触れられない相手に呼びかけるような、弱い声だった。
紬の目が揺れる。
「本当に、あなたなんですね」
『遮断器を下げさせろ』
「嫌です」
『同じ失敗を繰り返すつもりか?』
「失敗だったかどうかを、あなた一人で決めないでください」
赤いランプの点滅がさらに速くなる。
止まっていた巨大な文字盤が動き出した。
午後十時二十五分を指していた針が、逆向きに戻っていく。
小さな神様が懐中時計を握りしめた。
「はる坊、時間が閉じる」
「あとどれくらい?」
「一分もない」
偽物の身体が薄くなる。
七年前から聞こえていた足音に、激しい雑音が混じり始めた。
「十九歳の僕、聞こえるか!」
『聞こえてる! 今、駅員を呼んだ!』
「配電盤には触るな!」
『分かった!』
「三十六歳の僕!」
未来へ向かって叫ぶ。
「次は全部話せ。何を隠してる? 僕たちは何を失敗した?」
『知れば、お前は同じ選択をする』
「何を選ぶ?」
大きな雑音が走った。
『紬を殺す選択だ』
隣で、紬が息を止める。
「そんな選択はしない」
『今のお前は、そう言う』
声が遠ざかる。
『十九歳の僕も言った。二十六歳の僕も言った。そして三十六歳の僕も、同じことを言った』
「だったら、今度こそ変える」
『変えられない』
「どうしてだよ!」
文字盤の針が重なった。
通信が切れる直前、三十六歳の僕は、迷いのない声で断言した。
『紬は救えない』




