七年前の作戦会議
『聞こえるか、二十六歳の僕』
配電盤の奥から聞こえた声に、僕はすぐ返事ができなかった。
目の前には、十九歳の姿をした偽物。
そして配電盤の向こうには、本物を名乗る十九歳の僕がいる。
「証拠を見せてくれ」
『いきなり疑うのかよ』
「B七一九」
短い沈黙のあと、声が答えた。
『東都運送第三車庫。十七号車のブレーキ圧力異常。出発予定は午後八時三分』
「そのあと、誰から電話が来た?」
『日和。傘を忘れたから、駅まで迎えに来てって』
本物だ。
未来から届いた警告を信じ、父さんと一緒にトラックを止めた十九歳の僕。
「日和たちは?」
『全員生きてる。それより、どうしてそっちに僕の偽物がいるんだ?』
「見えるのか?」
『見えない。でも、声は少し聞こえる』
目の前の偽物が、配電盤へ近づく。
僕はその前へ立った。
「お前は近づくな」
「本物かどうか、俺にも確認させろ」
「触って何が起きるか分からない」
偽物の胸に走った亀裂から、何枚もの写真が覗いている。
雨の中で倒れた日和。
病院のベッドに横たわる母さん。
家族から逃げた父さん。
どれも、今の世界には存在しない未来だった。
「全部、お前が消した時間だ」
「消したんじゃない。変えたんだ」
「選ばれなかった側には、同じことだ」
偽物の言葉に、何も返せなかった。
小さな神様が、僕の肩から尋ねる。
「キミは、どうして作られたの?」
偽物は自分の胸へ手を入れ、一枚の紙を引き抜いた。
そこには機械的な文字が並んでいる。
『失敗した時間を保存しろ』
『変更後も消失しない記録として、次の僕へ渡せ』
署名は――『朝倉遥斗 三十六歳』。
「三十六歳の僕が、お前を作ったのか?」
「最初の俺は、ただの記録だった」
偽物の身体を、無数の赤い文字が流れる。
『日和死亡』
『水瀬紬死亡』
『救助失敗』
「世界を変えるたび、失敗した未来は消える。三十六歳のお前は、それを残す入れ物を作った」
「それがお前?」
「失敗を詰め込まれ続けた結果、俺は自分が消えたくないと思うようになった」
スマートフォンが震えた。
三十六歳の僕からだ。
『そいつの話を最後まで信じるな』
続いて、もう一通。
『保存装置を作った理由は、それだけではない』
「本当の目的は何だ?」
偽物は、配電盤を指差した。
「知りたければ、その扉を開けろ」
「開けない」
「怖いのか?」
「ああ。だから一人では決めない」
偽物の顔から笑みが消えた。
僕は配電盤へ向き直る。
「十九歳の僕。どうして時計塔にいる?」
『三十六歳の僕から指示された。午後十時二十五分にここへ来て、二十六歳の僕の声を待てって』
「そっちにも配電盤があるのか?」
『ある。古いやつが一台』
「点検記録を捜してくれ」
向こうで紙をめくる音がする。
『最終点検は五月十日。次回点検は六月二十五日』
紬の顔から血の気が引いた。
「私の死亡予定日の翌日……」
「備考欄は?」
『異常発熱を確認。交換部品が届くまで、主回路の使用を制限すること』
「交換された記録は?」
『ない』
設備の異常は確認されていた。
それなのに修理されないまま、紬の死亡予定日を迎えようとしている。
紬がこめかみを押さえた。
「思い出しました」
「何を?」
「あなたが配電盤を開けたんです。火花が出て、手から血が流れて……それでも原因を確かめようとした」
「そのあと、何が起きた?」
「分かりません。発車ベルが聞こえて、あなたの手が離れて……そこから先は、記憶が違うんです」
僕は配電盤へ声をかける。
「絶対に扉を開けるな」
『分かってる』
「点検記録を撮って、駅員に見せてくれ。誰に何時に伝えたかも残すんだ」
『信じてもらえるかな』
「信じてもらえなくても、一人で直そうとするな」
『未来の僕に言われると腹立つな』
「どうして?」
『自分も一人で何とかしようとする顔をしてるから』
隣で紬が小さく笑った。
「十九歳のあなたのほうが、あなたを分かっていますね」
「まだ数分しか話してないぞ」
『自分だから分かるんだよ』
「お前まで乗るな」
張りつめていた空気が、わずかに緩んだ。
しかし、偽物だけは笑わなかった。
「過去で異常を止めれば、俺は消える」
「お前の中に記録は残るんじゃないのか?」
「原因から変えられた時間は、記録ごと消える」
偽物の声には、初めて恐怖が混じっていた。
「だから、そいつを止めろ」
「できない」
「俺を殺すのか?」
その言葉に、紬の肩が強張る。
僕は偽物を見た。
「お前を消すために過去を変えるんじゃない」
「結果は同じだ」
「それでも、お前をなかったことにはしない」
「何?」
「お前が覚えている失敗も、そこで生きていた人たちのことも、僕が記録する」
「そんなもので、俺が残ると?」
「分からない。でも、忘れないことはできる」
偽物は何も答えなかった。
スマートフォンに赤い文字が浮かぶ。
『残り時間――二日』
その下に、新しい一文が表示された。
『過去との接続を確認』
「じゃあ、駅員を呼んでくる」
十九歳の僕の声がする。
「待ってください」
紬が配電盤へ近づいた。
「その場から、すぐに離れてください」
『誰だ?』
「水瀬紬です」
『水瀬……?』
十九歳の僕は、まだ紬と出会っていない。
「今は分からなくて大丈夫です。配電盤には絶対に触れないでください」
『分かった』
紬は驚いたように瞬きをする。
「十九歳のあなたは、もっと話を聞かない人だと思っていました」
『未来で僕と何があったんだよ』
「いろいろです」
「説明を省きすぎだろ」
小さな神様が懐中時計を見つめた。
「はる坊、何か変だよ」
止まっていた秒針が、激しく震えている。
配電盤の向こうから、十九歳の僕の声がした。
『二十六歳の僕』
「どうした?」
『赤いランプが点いた』
「さっきは消えてたんだろ?」
『全部消えてた。でも今、一番下だけ点滅してる』
紬が僕の袖をつかむ。
「離れて!」
「そこから逃げろ!」
『触ってない! でも、中から音が――』
低い唸りが響く。
部屋の照明が消え、焦げた臭いが漂った。
現在の配電盤からも白い煙が漏れ始める。
「過去の異常が、こちらにも伝わってる……?」
偽物の顔からも余裕が消えていた。
配電盤の向こうで、何かが破裂する。
『うわっ!』
白い火花が隙間から噴き出した。
僕は紬を抱えるように床へ伏せる。
火花が壁の文字盤へ突き刺さり、午後十時二十五分で止まっていた針が一分進んだ。
「十九歳の僕!」
激しい雑音の奥から、かすかな声が返る。
『……まだ、いる』
安堵するより先に、十九歳の僕が続けた。
『配電盤が、勝手に開いた』
目の前にある現在の配電盤も、同じように開き始める。
暗い内部に、焼け焦げた配線が見えた。
『中に、誰かいる』
七年前の配電盤から、聞き覚えのある声がする。
今の僕でも、十九歳の僕でもない。
疲れ切った、三十六歳の僕の声だった。
『ようやく、三人そろったな』




