十九歳の偽物
「……十九歳のあなたは、あなたじゃありません」
紬は写真の切れ端を見つめたまま言った。
「どうして分かる?」
「この字を見たことがあります」
「どこで?」
紬は答えようとしたが、途中で口を閉じた。
また複数の記憶が重なったのか、こめかみを押さえる。
「すみません。今は、まだ分かりません」
「謝らなくていい」
時計塔を見上げる。
針は午前九時十二分を指している。
午後十時二十五分まで、十三時間以上あった。
「今夜、確かめよう」
写真の切れ端を封筒へしまう。
「その文字を書いたのが、本当に十九歳の僕なのか」
◇
午後十時十七分。
僕と紬は、再び時計塔の前に立っていた。
昼間は大勢の人が行き交っていた広場も、今は数えるほどしか人がいない。
空は厚い雲に覆われている。
雨はまだ降っていないが、湿った風が何度も広場を通り抜けていた。
「八分前だねえ」
小さな神様が僕の肩で言う。
「何か問題あるか?」
「昨日は一時間前から喫茶店の周りを歩いてたのに」
「今日は下見が済んでる」
「成長したねえ」
「お前はもう少し緊張しろ」
言い返すと、紬がこちらを見る。
「神様と話しているんですか?」
「ああ。相変わらず軽いことしか言わない」
「緊張してるから喋ってるんだよ」
小さな神様の声が少しだけ低くなる。
首に下げた懐中時計の針は、昼間から動き続けていた。
ただし、駅前の時計とは違う。
短針も長針も、午後十時二十五分を指したまま。
秒針だけが逆向きに進んでいる。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
日和からのメッセージだった。
『着いたら連絡して』
その下へ、続けて表示される。
『危ないと思ったら絶対に入らないこと』
『あと、紬に無理させないで』
「日和から?」
紬が尋ねる。
「ああ。僕より君の心配をしてる」
「そうですか」
紬の口元がわずかに緩んだ。
けれど、すぐに時計塔へ視線を戻す。
小さな点検扉は、朝と何も変わっていない。
傷もない。
鍵も閉じられている。
「本当に、何か起きるんでしょうか」
「何も起きないほうがいいんだけどな」
「何も起きなければ、答えも分かりません」
「そうだな」
紬は封筒を胸の前で抱えていた。
発車ベルが聞こえるたびに肩が強張る。
それでも帰ろうとはしなかった。
午後十時二十四分。
広場に残っていた人たちが、一斉に動きを止めた。
駅へ向かっていた会社員。
スマートフォンを見ていた女性。
自転車で広場を横切ろうとしていた学生。
誰も瞬きをしない。
風も止まり、木の葉が空中で静止している。
「時間が止まった……」
紬だけは動いていた。
僕と、小さな神様も。
「紬も動けるのか?」
「前は、動けませんでした」
紬が自分の両手を見る。
「少なくとも、覚えている限りでは」
時計塔の内部から、歯車の動く音が聞こえた。
重く、低い音。
止まっていた針が、一分だけ進む。
午後十時二十五分。
点検扉の表面に、一本の傷が走った。
右上から、左下へ。
紬の持つ写真と同じ、深い傷だった。
「写真と同じだ」
僕が呟いた瞬間、鍵の開く音がした。
扉が、ひとりでに内側へ開く。
その奥には、薄暗い通路が続いていた。
壁には古い配電盤が並んでいる。
写真の切れ端に写っていた場所だった。
「はる坊」
小さな神様が僕の肩から下りる。
「入る前に確認するよ」
「何を?」
「ボクは、この中を知らない」
「神様なのに?」
「神様だって、知らないものくらいあるよ」
いつもの言い方だった。
けれど、その声は震えている。
「本当に知らないんだな?」
「……うん」
僕は紬を見る。
「ここで待っていてもいい」
紬は首を振った。
「一緒に行きます」
「怖くないのか?」
「怖いです」
紬はそう言って、僕の袖を握った。
「だから、一人にしないでください」
「ああ」
僕たちは、時計塔の中へ入った。
◇
通路の奥には、小さな部屋があった。
壁一面を古い歯車が覆い、中央には机が一つ置かれている。
机の上にあったのは、黒い固定電話だった。
電話線はどこにもつながっていない。
その横には、僕たちが朝見つけたものと同じ写真が置かれていた。
『扉の中を見る前に、十九歳の僕に聞け』
「もう中へ入ったあとなんだけど」
「聞く順番を守らないのも、はる坊らしいね」
「扉を開けないと電話に気づけないだろ」
「確かに」
神様が納得した直後、電話が鳴った。
紬が僕の袖を握る力を強める。
一度。
二度。
三度。
「出ないんですか?」
「電話を無視して後悔するのは、もうやめた」
受話器を取る。
「もしもし」
一瞬の雑音。
その向こうから、若い男の声が聞こえた。
『ようやく来たな』
自分の声だった。
今の僕より少し高い。
七年前、十九歳だったころの声。
「十九歳の僕なのか?」
『そうだよ』
「証拠は?」
『日和からの最後の電話を無視した。あの夜、友達と一緒にいて、迎えに行くのが面倒だった』
胸の奥が痛んだ。
それは、変える前の僕しか知らない記憶だ。
『日和が死んで、母さんも死んだ。父さんは家族から逃げた。そして僕は、二十六歳の誕生日に会社を辞めた』
「待ってくれ」
僕は受話器を強く握る。
「母さんが死んだことまで、どうして知ってる?」
『経験したからだ』
「十九歳の僕は、まだそこまで生きていない」
電話の向こうが静かになった。
紬が僕の横で、小さく頷く。
やはり、この声はおかしい。
『頭が固いな』
電話の声が笑った。
『僕は十九歳の姿をしている。でも、十九歳だったころの僕じゃない』
「どういうことだ」
『日和を救ったとき、選ばれなかった未来が消えただろ』
「ああ」
『でも、全部が消えたわけじゃない』
部屋を囲む歯車が回り始める。
『手紙。写真。声。強すぎる後悔は、時間を変えても残る』
机の向かい側に、白い光が集まった。
人の輪郭が作られていく。
灰色のパーカー。
雨に濡れた黒髪。
俯いたままの青年。
十九歳の僕だった。
固定電話の受話器を耳へ当てたまま、僕と向かい合っている。
「本当に……お兄?」
思わず振り返る。
日和はいない。
今の声は、受話器の向こうから聞こえていた。
十九歳の僕の手にある電話。
そこから、七年前の日和の声が漏れている。
『お兄、雨降ってるのに傘忘れたから、駅まで迎えに来て』
十九歳の僕は電話に出ない。
スマートフォンを裏返し、着信が止まるのを待っている。
「やめろ」
僕が近づいても、十九歳の僕は動かなかった。
「その電話に出ろ!」
『何度言われても、この僕には無理だよ』
目の前の十九歳の僕が顔を上げる。
僕と同じ顔。
けれど、目の奥には何もなかった。
『僕は、電話に出なかった後悔から作られたんだから』
「じゃあ、お前は……」
『本物じゃない』
十九歳の僕が笑う。
『でも、偽物とも言い切れない。あの夜、お前が見捨てた未来そのものだから』
紬が一歩前へ出る。
「写真の文字を書いたのは、あなたですか?」
『そうだよ』
「嘘です」
紬は即答した。
十九歳の僕の笑みが止まる。
「その字を、私は知っています」
『どこで?』
「あなたが三十六歳になった未来で」
紬は封筒から写真の切れ端を出した。
「最後の一画だけが違う。朝倉さんは、どの年齢でも、こんな書き方をしません」
『人の字は変わる』
「変わりません」
紬の声が震える。
それでも目は逸らさなかった。
「私は何度も、朝倉さんの書いた手紙を読みました。十九歳も、二十六歳も、三十六歳も。未来が変わるたび、内容は変わりました。でも、この部分だけは一度も変わらなかった」
写真の最後の一画を指差す。
「これは、あなたの字ではありません」
十九歳の僕の姿に、細い亀裂が走った。
『よく覚えていたな』
「忘れたくなかったので」
『他のことは、あんなに忘れたのに?』
紬の顔が歪む。
握っていた僕の袖から、指が離れかけた。
僕はその手をつかもうとして、止める。
代わりに、紬の前へ立った。
「紬に話してる。僕を見ろ」
『同じだな』
「何が?」
『どの未来でも、お前はそうやって紬を守ろうとする』
十九歳の僕の亀裂が広がる。
その内側に見えたのは人の身体ではなかった。
無数の写真。
何度も書き換えられた手紙。
紬の死亡予定を示す赤い文字。
消された未来の記録が、人の形を作っている。
「お前は誰だ?」
『僕には、まだ名前がない』
「どうして十九歳の僕の姿をしてる?」
『一番、扱いやすいからだ』
十九歳の僕が笑う。
『十九歳の朝倉遥斗は、後悔すれば何でもする。妹のため。母親のため。そして、まだ出会ってもいない女のために』
「本物の十九歳の僕はどこにいる?」
『ちゃんと七年前にいるよ』
「連絡できるのか?」
『今はね』
十九歳の僕が、壁の配電盤を指差した。
『その中に、過去へつながる線がある』
古い配電盤の一番下。
赤いランプが一つだけ点灯している。
『開ければ、十九歳の僕と話せる』
「朝倉さん、駄目です」
紬が僕の袖を引く。
「何度か、この場面を見た気がします」
「思い出したのか?」
「少しだけ」
紬は配電盤を見つめる。
「あなたが、その扉を開ける。そのあと、火花が出て……」
激しい雑音が紬の声を遮った。
十九歳の僕の姿が大きく歪む。
『時間がない』
「何が起きる?」
『午前零時になれば、過去との線は閉じる』
「開けたら、紬は助かるのか?」
『助けたいなら開けろ』
「質問に答えろ」
十九歳の僕は答えない。
小さな神様が、配電盤と十九歳の僕を交互に見る。
「駄目だよ、はる坊」
「分かってる」
「本当に?」
「今の僕は、一人で決めない」
僕は配電盤から離れた。
十九歳の僕の表情が初めて変わる。
笑顔が消え、焦りが浮かんだ。
『開けろ』
「断る」
『過去と話せなくなるぞ』
「お前の言葉を信じて開けるよりはいい」
『紬が死んでも?』
「紬を利用するな」
『利用しているのはお前たちだ』
部屋中の歯車が激しく回転する。
『死ぬたびに時間を戻して、都合のいい未来だけを選び直す。選ばれなかった未来に何が残るか、一度でも考えたことがあるのか?』
床が揺れる。
机の上の写真が宙へ舞い上がった。
その一枚一枚に、違う未来の僕たちが写っている。
日和を救えなかった僕。
母さんを救えなかった僕。
父さんが家へ戻らなかった僕。
紬の手を離した僕。
『僕は、お前たちが捨てた失敗だ』
十九歳の僕が叫ぶ。
『お前たちが成功するたび、僕は増えていく!』
紬が両耳を押さえ、その場へしゃがみ込む。
僕は紬の前に立ち、飛んでくる写真から庇った。
「神様、ここから出るぞ!」
「扉が消えてる!」
振り返る。
入ってきた通路がなくなっていた。
壁には巨大な文字盤が埋め込まれている。
午後十時二十五分。
三本の針が、同じ位置で重なっていた。
ポケットの中でスマートフォンが震える。
送信者は『三十六歳の朝倉遥斗』。
『十九歳の僕を信じろ』
続けて、もう一通。
『ただし、目の前のそいつではない』
十九歳の偽物が、僕の画面を覗き込んだ。
『未来の僕は、いつも説明が遅い』
「三十六歳の僕を知ってるのか?」
『もちろん』
偽物は、僕と同じ顔で笑った。
『僕を作ったのは、三十六歳のお前だから』
スマートフォンの画面が赤く染まる。
『残り時間――二日』
一日分の時間が、目の前で消えた。
偽物の背後で、配電盤の扉がゆっくりと開き始める。
中から聞こえてきたのは、機械音ではなかった。
七年前の僕の声だった。
『聞こえるか、二十六歳の僕』
本物の十九歳の遥斗が、僕を呼んでいた。




