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時計塔の裏側

翌朝、僕は東口駅前の時計塔を見上げていた。


スマートフォンには、赤い文字が浮かんでいる。


『残り時間――三日』


昨夜は眠れなかった。


紬の「あなたが私の手を離す瞬間を」という言葉が、何度も頭に戻ってきたからだ。


「はる坊、顔ひどいよ」


小さな神様が僕の肩から覗き込む。


「お前も寝てないだろ」


「神様は寝なくても平気」


「昨日、僕の部屋でいびきかいてたぞ」


「あれは考え事」


「どんな考え事だよ」


言い返しながら、もう一度時計を見る。


再開発で撤去されると聞いていたのに、塔の周りに工事用の囲いはない。


代わりに、駅の掲示板へ小さな紙が貼られていた。


『駅前広場整備工事 日程変更のお知らせ』


時計塔の撤去は延期されたらしい。


「写真のとおり、十年後まで残るのかな」


「それは、これからのはる坊次第だよ」


神様はそう言って、首の懐中時計を服の中へしまった。


午前九時を少し過ぎたころ、紬がやって来た。


昨日と同じ黒い髪を、今日は後ろでひとつに結んでいる。


手には例の写真が入った白い封筒を持っていた。


「おはようございます」


「おはよう。来てくれてありがとう」


「約束しましたから」


紬は時計塔を見上げた。


その途端、封筒を持つ手に力が入る。


指先が白くなるほど握りしめているのに、本人はそれに気づいていないようだった。


何度も同じ場所へ来て、何度も同じ結末を見届けてきた記憶が、時計塔の姿だけで身体の奥から蘇っているのかもしれない。


「無理なら、僕だけで見てくる」


「大丈夫です」


反射的に答えたあと、紬は一度唇を閉じた。大丈夫ではない。


けれど、そう言わなければ、また誰かに置いていかれる気がする。


そんな怯えを隠すように、彼女はゆっくり息を吸った。


「……大丈夫になるまで、ここにいてください」


「ああ」


僕たちは並んで時計塔の裏へ回った。


     ◇


写真に写っていた扉は、塔の背面にあった。


大人がかがめば入れるほどの、小さな点検扉だ。


紬から写真を借り、見比べる。


未来の写真には、扉の右上から斜めに深い傷が走っていた。


目の前の扉に、その傷はない。


「確かに違うな」


「この写真を撮ったときには、ありました」


紬が答える。


声は落ち着いていたが、その落ち着きは平静さではなく、何度も恐怖を押し殺して身につけたものに聞こえた。


写真を見つめる目の奥には、傷のついた扉だけでなく、その前で起きた幾つもの結末が重なっているようだった。


「いつついた傷か、覚えてる?」


「いいえ。いつも時計を見ると、文字盤ばかり気にしていました」


紬はそう言ってから、わずかに眉を寄せた。


覚えていないのではない。


覚えようとすると、別の人生の光景まで一緒に押し寄せてくるのだろう。


誰かの声、途切れる息、手のひらから失われる温度。


どれが今回の記憶で、どれが前の記憶なのか、もう自分でも区別できないのかもしれない。


「ボクも」


肩の神様が小さく言った。


僕は声を出さずに頷く。


扉は古いが、鍵穴の周りだけ塗装が新しい。


下には『関係者以外立入禁止』の札がある。


「開けられそうか?」


つい呟くと、紬が僕を見る。


「入るつもりですか?」


問いかける声に、鋭い警戒が混じった。


これまで何度も、僕が何かを確かめようとして危険へ踏み込んだのだろう。


止められなかったことも、止めても届かなかったことも、彼女の中には疲労と一緒に積み重なっている。


「いや。まずは外から調べる」


「よかった」


安堵の息が漏れる。


けれど、その直後には、そんな反応を見せてしまったことを恥じるように、紬は視線を落とした。


「僕、昨日そんなに無茶しそうに見えた?」


「十九歳のあなたよりは、ずっと落ち着いています」


淡々とした言葉の裏に、疲れ切った諦めがあった。


十九歳の僕を知っているということは、同じような無茶を何度も見てきたということだ。


止めても聞かず、聞いたとしても別の方法で傷ついていく僕を、彼女は何度も見送ってきたのだろう。


「会ったことがあるのか?」


紬は答えなかった。


写真を受け取ろうと伸ばした指が、僕の指先に少しだけ触れる。


紬は慌てて手を引いた。


触れた瞬間、身体が記憶を思い出したように強張る。


温度を確かめることが怖いのか、それとも、温度を失う瞬間を知りすぎているのか。


「すみません」


「謝らなくていいよ」


「……あなたが先に謝ることも、前は多かったので」


その言葉を口にした紬は、すぐに目を伏せた。


言ってはいけないことを漏らしたように、指先が小さく震えている。


僕の知らない僕の話を、紬はときどきこんなふうにする。


聞きたい気持ちと、聞くのが怖い気持ちが同時に湧いた。


扉の上部を指でなぞる。


ざらついた塗装の下に、小さな金属板が埋まっていた。


「これ、写真にも写ってる?」


紬が写真を傾ける。


「端だけ。傷に重なって、よく見えません」


答えながら、紬は写真を持つ手を胸元へ引き寄せた。


何度も見返してきたはずの写真なのに、そこに新しい情報が増えるたび、また別の結末へ引き戻されるようだった。


疲れているのに、見ないわけにはいかない。


恐ろしいのに、目を逸らせば何かを取りこぼす。


その板挟みで、彼女の呼吸は浅くなっていた。


今の金属板には、かろうじて数字が残っていた。


『二〇一〇・九・一七』


七年前。


紬の写真に表示されていた死亡予定日と、同じ日付だ。


「どうして時計塔に……」


僕が呟くと、紬の顔から血の気が引いた。


その日付を見た瞬間、彼女の瞳に一瞬だけ別の景色が浮かんだ。


暗い通路。遠ざかる背中。


何度呼んでも届かなかった声。


けれど、それがどの人生の記憶なのか分からず、紬はこめかみを押さえた。


「その日、ここに来たことがある?」


「分かりません」


答えは早かった。早すぎた。


「覚えてないのか」


「覚えていることと、覚えていないことがあるんです」


紬は額に手を当てた。


指先に力を込めても、頭の中で重なった時間はほどけてくれない。


「繰り返すたびに少しずつ変わって、どの記憶がどの未来のものか、分からなくなる」


声がかすれた。


「最初は、全部覚えていました。次は、前の結末だけ。そこから先は、誰が何を言ったのかも、どこで手を離したのかも、混ざっていって……」


紬はそこで言葉を切った。


十五回以上も、死ぬまでの日々を生き直してきた。


忘れたというより、一人では抱えきれなくなったのかもしれない。


何度も失い、何度もやり直し、そのたびに希望を持つことさえ怖くなった。


それでも、諦めることだけはできずにいる。


「今、無理に思い出さなくていい」


「でも、時間が――」


紬の声が震えた。


残り時間のことだけではない。


時間が尽きれば、また同じ日へ戻される。


僕を救えなかった記憶を抱えたまま、もう一度最初から始めなければならない。


その恐怖が、彼女の言葉を急かしていた。


「分かったことを先に整理しよう」


スマートフォンのメモを開く。


『二〇一〇年九月十七日。時計塔の裏の扉。未来の写真にだけ傷』


「これなら、紬が忘れても僕が覚えておける」


紬は画面を見つめた。


その目に、ほんの一瞬だけ羨望が浮かんだ。


忘れられることではなく、忘れても誰かが覚えていてくれることへの羨望だった。


けれど、すぐにその表情は消えた。


これまで何度も、覚えているのは自分だけだったからだ。


「あなたも、忘れるかもしれませんよ」


「そのときは日和にも送る」


「日和に?」


「昨日、君のことを話した。会って無事だったことと、今日は駅へ行くことだけ」


紬が目を伏せる。


日和の名前を聞いた途端、張りつめていた肩がわずかに下がった。


何度繰り返しても変わらなかったものが、まだこの世界に残っている。


その事実に縋りたいのに、縋れば失ったときの痛みが増す。


そんな迷いが、伏せたまつげの震えに滲んでいた。


「怒っていましたか」


「『無事なら最初に連絡して』って。僕に」


「そうですか」


短い返事のあと、紬は小さく息を吐いた。


安堵なのか、羨ましさなのか、自分でも分からないような吐息だった。


「それから、君にはまだ何も聞かないと言ってた」


紬はしばらく黙り、小さく息を吐いた。


「日和らしいです」


その声は、昨日より少しだけ柔らかかった。


けれど、その柔らかさの奥には、何度も誰かに信じてもらえなかった人の疲れがあった。


優しくされることに慣れていないのではなく、優しさがいつか失われることを知りすぎている。


だから、喜ぶことさえ慎重になっているのだ。


     ◇


「はる坊。扉の下」


神様が僕の耳元で囁いた。


しゃがんで見る。


扉と地面の隙間に、細い紙が挟まっている。


引き抜くと、それは色褪せた写真の切れ端だった。


写っているのは時計塔ではない。


薄暗い通路と、壁に並んだ配電盤。


裏には、僕の字に似た文字で一行。


『扉の中を見る前に、十九歳の僕に聞け』


「十九歳の僕……」


今はもう、過去との連絡が取れない。


神様を見ると、さっきまでの軽い表情が消えていた。


「お前、これがあるって知ってたのか?」


「知らなかったよ」


「じゃあ、どうして扉の下を見ろって?」


神様は答えず、自分の懐中時計を取り出した。


止まっていた秒針が、一つだけ進む。


紬が僕の手元を覗いた。


「その写真、どこから?」


「扉の下に挟まってた」


紬は写真の切れ端を見た瞬間、息を止めた。


薄暗い通路を見ただけなのに、何度もそこへ戻されたような恐怖が顔に浮かぶ。


足元から冷たさが這い上がり、指先が震えた。


彼女はそれを隠そうとして写真から目を逸らしたが、逸らした先にも同じ光景があるように、瞼を強く閉じた。


切れ端を渡そうとして、手を止める。


写真の裏に、もう一行浮かんでいた。


今まで空白だった場所に、インクが染みるように。


『聞きたいなら、今日の午後十時二十五分にここへ来い』


僕が見せると、紬は首を振った。


「昨日までは、そんな写真、ありませんでした」


声がひどく小さい。


新しい情報を喜べないのは、それが新しい可能性ではなく、新しい失敗の入口かもしれないと知っているからだ。


何度も「今度こそ」と思い、そのたびに誰かを失ってきた。


だから紬は、希望を見つけるたびに、同じ大きさの恐怖を抱え込んでしまう。


「分かってる」


誰が置いたのか。


なぜ十九歳の僕に聞けと書いたのか。


その答えがこの扉の向こうにあるとしても、今は開けられない。


僕は写真の切れ端をスマートフォンで撮った。


撮影した画面では、二行目だけが写っていなかった。


『扉の中を見る前に、十九歳の僕に聞け』


それしか残っていない。


「はる坊」


神様が懐中時計を握りしめる。


「今夜は、一人で来ないで」


さっきの文字を見ていた紬が、僕の隣に立った。


その動きは早かった。置いていかれる前に、先に隣へ立たなければならないというように。


けれど、僕の袖を掴みかけた手は、途中で止まった。


触れればまた失うかもしれないという恐怖が、彼女の指を宙に縫い止めていた。


「私も来ます」


「時計の前にいるの、怖いだろ」


「怖いです」


紬は正直に答えた。


声は震えていたが、逃げるための震えではなかった。


何度も怖い場所へ戻り、何度も同じ結末を見ても、それでも戻るしかなかった人の声だった。


「眠ると、あの日の音が聞こえるんです。発車ベルと、時計の針が進む音と……あなたが呼ぶ声が」


紬は一度、目を閉じた。


「目を覚ますと、また最初の日です。何も知らないあなたがいて、私は全部知っている。あなたが笑うたびに、これが最後かもしれないと思ってしまうんです」


彼女は苦しそうに息を吸った。


「それでも、あなたの手を離すところを、もう一度見たくありません」


遠くで駅の発車ベルが鳴った。


紬の肩が跳ねる。


ほんの短い音なのに、身体が先に過去を思い出していた。


彼女は震えを抑えるように両手を握りしめ、それから、今度は逃げずに僕の袖を掴んだ。


僕は写真の切れ端をしまい、扉から離れる。


今夜、午後十時二十五分。


時計塔で待っているのは、十九歳の僕なのだろうか。


それとも――僕がまだ「僕」になる前の、あの時間から来た誰かなのか。


写真の裏に残った文字は、僕の字に似ていた。


けれど、最後の一画だけが違っていた。


僕なら、決してそんなふうには書かない。


その筆跡を、紬は知っている。


彼女は写真を見つめたまま、震える声で呟いた。


「……十九歳のあなたは、あなたじゃありません」


時計塔の針が、午後十時二十五分へ向かって動き始めた。

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