第二話 守れるのか、この子を
職員会議が終わり、それぞれの学年に分かれて動き出す。
新三学年の会議室からは、いつも通りの賑やかな声が漏れ聞こえてくる。瀬川先生を中心に、能見先生たちが今年度の方針を話し合っているのだろう。
俺は、その輪の中にはいない。
支援センターの担任として、まずは自分の教室環境を整えるべく、一人で特別教室棟へと向かった。
誰もいない廊下を歩きながら、ふと気づく。
――あの学年の会議には、もう呼ばれない。俺の学年じゃない。
当たり前のことだ。分かっていたはずなのに、いざその場に立たされると、思っていた以上に堪えた。
二年間、あの部屋で交わしてきた雑談や相談ごと、時には愚痴の応酬――、そういう積み重ねが、今日から俺のいない場所で続いていく。
誰が悪いわけでもない。ただの人事であり、必要な変化だ。
それでも、寂しいものは寂しい。
支援センターの教室に着き、埃をかぶった机や棚を拭き始める。今まで使われていなかった、校舎の片隅にある空き教室だ。小さな相談室ではなく、きちんとした授業を展開できるハコを作ってほしいというのが、行政からの要請だった。
単調な作業をしながら、俺は自分に言い聞かせる。
――ここが、俺にとっての教室だ。
今、用意してある机の数は四つであった。
一つは大耀のものだ。今年度に入ってからすぐ、大耀の保護者には直接出向いて頭を下げている。保護者の学校に対する不信感は頑なだった。だが、俺が担任として接した二年間の積み重ねがすべて崩れ落ちたというわけではなく、
『……先生だけが頼りです。息子をよろしくお願いします』
最終的には今後も学校との繋がりを切らないことを約束してくれた。今はまだ学校に登校できる段階じゃない。むしろ、中学校に在籍中は……、いや、もっと長い期間家から出られなくなる可能性だってある。
それでも彼がいつかこの教室に登校できる日を待ち続け、俺は毎日彼の机をピカピカにしておこうと思う。
後の三つの机は、新規入学者のものだった。そのどれもが一筋縄ではいかない曲者だ。
俺がセンター入級予定者の個人カルテを引っ張り出したところで、教室の扉が控えめにノックされた。
「小鍛冶先生、ちょっといいですか」
顔を出したのは、新任の高遠先生だった。心なしか、緊張した面持ちをしている。
「理科室に来ていただけますか。クラス編成の件で……」
俺は資料を茶封筒に入れ、頷いた。
「ああ、行くよ」
◇
理科室の扉を開けると、実験台の上に人数分の名簿と、色分けされた付箋がびっしりと貼られたホワイトボードが目に入った。
既に一学年団のほとんどが顔を揃えている。学年主任の久度先生を中心に、高遠先生、犬養先生、首藤先生、門田先生、そして今日紹介されたばかりの桐生先生、海老原先生、若月先生。
「ひっひっふー、パイセンお疲れです。よっしゃ、パイセンが来たら、百人力っすね」
「待って、もしかして俺、肉体労働の手伝いで呼び出されたの?」
犬養がタブレットPCを開きながら、名簿の並べ替え作業、付箋の記入とマルチタスクに駆け回っている。
「ユリT、お前それ一人何役やってるの?」
「私一人で回ってるんだから、一役では?」
「何それ、怖ぁ」
俺がドン引きしているところに、
「小鍛冶先生、急にすみません」
久度先生が、申し訳なさそうに頭を下げる。
野球部の顧問だけあって、がっしりとした体形の色黒のスポーツ刈りに頭を下げられると妙な圧迫感がある。だが、その物腰は存外に柔らかく、どこか落ち着いた実直さがあった。
「支援センターの子たちの担任決めで、少し意見を聞かせてもらえたらと思って」
「ああ、全然構わないよ」
俺は空いていた椅子に腰を下ろし、ホワイトボードを見上げた。
新一年生、六クラス分の名簿。それぞれの枠の下に、小学校からの引継ぎ情報がびっしりと書き込まれている。
――学級のリーダーになれそうな生徒。
――トラブルを起こしやすい生徒。巻き込まれやすい生徒。
――過去に相性が悪かった組み合わせ。
――ピアノが弾ける生徒(合唱コンクールの伴奏候補)。
――運動能力の高い生徒。苦手な生徒。
――学力の分布。
――保護者の傾向。家庭環境。国籍。宗教。
これだけの情報を突き合わせ、最終的には各教員の適性や経験と照らし合わせながらクラスを組んでいく。地味だが、一年間の学級運営の土台を決める、重要な作業だ。
「大体は固まったんですけど……」
久度先生が、ホワイトボードの隅を指す。
「この三人だけ、なかなか決まらなくて」
汐乃亜、竹花百花、一木麻倫。
小学校から要支援情報が引き継がれている、三人の名前だった。
引継ぎ資料の中には顔写真も貼られている。
乃亜は未掲載。百花はポニーテールに髪を結んだ、つりめがちの少女が写っている。麻倫はどこかたぬきを彷彿させるショートボブの少女だった。
「まず、汐乃亜さんなんですが」
高遠先生が、遠慮がちに口を開いた。
「長期の不登校で、対人関係に強い苦手意識があると聞いています。特に……、攻撃的な雰囲気に弱いようで」
「うん、そう聞いているね」
年度をまたぐ前、俺も保護者と面談をしている。
切実な様子の母親は確かに、乃亜が恐怖しているものについて言及していた。
「私の得意分野だし、私でいいんじゃって最初はまとまりかけていたんですけど……」
犬養先生が実験机に体重を預けながら付け加える。
「高遠先生が、『長欠になった原因を重く見たい』って」
学年団の目が一斉に高遠先生へと集まった。
彼は及び腰ながらも、必死に訴えた。
「そ、その……、長欠になった原因の担任が、女性だって、ここに書いてあって」
「でも、保護者の要望に性別はないんですよね」
「それは……、そうなんですが」
犬養先生の問いに高遠先生はしどろもどろになる。無論、彼女に悪気があるわけではない。誰に対してもテンポ良く、要点を返してくるのが彼女の特徴だ。
「ルーキーの言うことが間違ってるとは言わんけどさ。小学校時代のこれ、単純に性別の問題じゃねえだろ。相性と力量の話だ。小の先生にありがちな奴じゃないの」
門田先生が、ホワイトボードの名簿を睨みながら唸った。
後退気味の前髪の下、常に眉間に皺が寄っているような仏頂面を浮かべている。緩めたネクタイに、まくったシャツの袖。隠しきれない倦怠感を漂わせていた。いや、分かるよ。クラス編成は体力使うから……。
しかし、彼の指摘はもっともだった。小学校はほぼ全部の教科を担任が受け持つため、人間関係が濃くなりやすい。そして、それは対人トラブルが深刻化しやすいことと同義だ。
「それは……」
高遠先生が言葉を濁す。
しばらく沈黙が流れた後、久度先生が口を開いた。
「高遠先生のクラス、大人しめの子が多くなりそうでしたよね。落ち着いた雰囲気で固める方向だったので、そこに入れるのはどうでしょう」
「え、僕ですか」
高遠先生は明らかに動揺した様子で目を泳がせる。
「その……、正直、自信はないですけど」
「自信がある奴なんて、ここにはいねえよ。特に長欠生徒の取り扱いなんてな」
門田先生が笑い飛ばす。
「ただ、お前のクラスなら、少なくとも怒鳴り散らす空気にはならねえだろ」
その一言で、なんとなく空気が固まった。
「じゃあ、高遠学級で」
久度先生がホワイトボードに書き込む。
その時、久度先生がふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、去年の今頃は結構バタバタしましたね。このままだと男性ばかりに偏りそうだって」
久度先生の言葉に、犬養先生が素っ頓狂な声を出す。
「あー、あの時の。私、羨ましくない逆ハーレムだって、ギャーギャー叫んでたかも」
「ナチュラル失礼だからな、お前」
門田先生の文句をさらりと受け流し、犬養先生が口笛を吹く。
「んで、ビクビクしていたところに海老さん復帰。桐生先生に若月ちゃんの登場。三女神の爆誕だって、私拝んでました」
「ユリちゃん相変わらずだなぁ」
海老原先生がふにゃりと相好を崩した。
桐生先生も眼鏡を直しながら、彼女に続く。
「私も、男女比の調整のために声がかかるとは思っていませんでした」
「まあ、それだけが理由じゃないですけどね。特に桐生先生は――」
久度先生が笑いながら付け加えた。
「桐生先生の実務能力込みでの人選ですよ。おかげで、担任だけでも二対二。副担任の海老原先生、若月先生を合わせれば、今年はバランス良く組めました」
「まあ、今当たりだの外れだの言ってもね。大事なのはこれからだ」
肩をすくめる門田先生に対し、犬養先生が「渋みがある」と茶化す。アイツ無敵か?
場の空気が穏やかになったところに、すかさず久度先生が続けた。
「次、竹花百花さんですが」
ここで少し言葉が詰まる。
「保護者が、少し過干渉というか……、いわゆる、モンスターペアレント気味だという情報があります」
「厄介だな、それ」
門田先生が眉をひそめる。
「だからこそ、経験の浅い先生には少し荷が重いかもしれません」
久度先生の言葉に、全員の視線が自然と門田先生へ向かう。
「……俺かよ」
「ベテランの渋み!」
「うっせ」
門田先生が、うんざりした様子で頭をかいた。
「まあ、いいけどよ。ああいう手合いは、こっちが下手に出ると余計につけあがる。舐められないベテランが相手した方が、話は早い」
その言い分には、俺も内心で頷いていた。ベテランの威圧感というのは、時に理不尽なクレームへの盾になる。
「じゃあ、竹花さんは門田学級で」
久度先生が書き込む。
「最後、一木麻倫さんですが」
久度先生の声が、少しだけ重くなった。
「隣接学区からの越境入学ですね。ADHD傾向が強く、小学校では、いわゆる問題児として扱われていたようです。腕っぷしも強くてクラス内でのトラブルも多く、高学年の頃は校長室で過ごす時間も長かったとか」
「へえ、それは面白そうっすね」
首藤先生が、体育会系らしい快活さで身を乗り出す。
「運動能力が高いなら、なおさら伸ばし甲斐があるじゃないですか。人の話を聞かないってのも、要はエネルギーが有り余ってるってことでしょう。俺、そういうタイプ、嫌いじゃないっす」
「気持ちはありがたいけどな」
久度先生が、苦笑いを浮かべながら首を振る。
「お前はまだ初任だ。まずは基本の学級運営に慣れてもらった方がいい」
久度先生は、そこで一呼吸置いた。
「……俺が受け持ちます」
「え、いいんですか」
高遠先生が驚いた声を上げる。
「学年主任だからな。一番手のかかる子は、俺が見るのが筋だろう」
久度先生は、淡々とそう言った。同じ学年団で働いたことはない。実務能力の高い、堅実なタイプだとは聞いていたが、こういう場面での判断の速さは、なるほど主任の器なのだろう。
「じゃあ、一木さんは久度学級で」
全員が頷き、ホワイトボードに最後の名前が書き込まれる。
汐乃亜→高遠学級。
竹花百花→門田学級。
一木麻倫→久度学級。
俺はその様子を、少し離れた場所から見守っていた。
支援センターの担任として、日々顔を合わせるのはこの三人だ。だが、彼女たちの「本来の居場所」を最初に決めるこの場に、俺の意見はほとんど必要とされなかった。
当然のことだ、と思う。
クラス編成は通常学級での一年間を左右する、学年団の専門領域だ。俺はまだ、支援センターという場所の勝手さえ、十分に分かっていない。
それでも――、
「小鍛冶先生も、何かあれば言ってくださいね」
久度先生が、ふとこちらを気にかけてくれる。
「いや、大丈夫だよ。保護者との面談資料に目を通していたけど、みんなの判断に、異論はない」
俺はそう答えながら、ホワイトボードに並んだ三つの名前を、もう一度眺めた。
汐乃亜。竹花百花。一木麻倫。
その数は多くない。近年トラブルを抱える生徒の割合は加速度的に増加している中で、たったの三人しか入学してこなかったというのは、『玉手中にはうちの子を預けられない』と見切られた証拠だった。
そして逆を言えば――、この三人は『他校を選ぶ余地のなかった』生徒なのだ。その理由が何に起因するのかは分からない。本人の特性か、何なら保護者が単に無関心だからなのかもしれない。
学級を受け持っていた時は、この十倍以上の生徒を抱えていた。
数が減ったからと言って簡単になったわけじゃない。
学級担任のハウツーには黄金の三日間という言葉がある。生徒との関係を作り、クラスをまとめていくためには、ファーストコンタクトこそが大切なんだという考え方だ。
だが、そもそも全員がちゃんと登校してくれるとは限らない。今まで通用していたコミュニケーションが通用するとも限らない。いっそのこと、センター内で対人トラブルが起きないよう、個室対応に最初からした方が良いかもしれない。
俺は、面談に来た乃亜の保護者を思い出す。
俯きがちで、言葉数の少ない母親だった。それでも、乃亜の話になった瞬間だけは堰を切ったように喋り続けた。学校に行けなくなった経緯。何度も病院を変えたこと。それでも良くならなかったこと。
『うちの子、もう長いこと……、まともに笑ってないんです』
絞り出すような声だった。
『先生、正直、期待なんてしてません。どうせ、うちみたいな子は、どこに行っても厄介者ですから』
自嘲めいた笑みを浮かべながら、それでも母親は深く頭を下げた。
『それでも……、お願いします』
藁にも縋る、という言葉がこれほど似合う人を、俺は他に知らない。
あの日以来、俺は何度も自分に問うている。
――守れるのか、この子を。
答えはまだ出ない。それでも、逃げるという選択肢は最初から俺の中になかった。
一人一人に違った難しさがある。
けれども、うちの門を叩いてくれた以上、責任をもって預かってみせる。
俺は覚悟を決めた。




