第一話 担任じゃなくなったの?
始業式の朝、体育館はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
昇降口に貼り出されたクラス替えの掲示は、今朝一番の騒動の種だった。
二年生に上がる生徒たちにとって、この春はクラス替えの年だ。仲の良かった友人と離れて肩を落とす者。逆に、密かに片想いしていた相手と同じクラスになって浮き足立つ者。「あの先生とはもう関わりたくない」と、担任発表に胸を撫で下ろす声も聞こえてくる。
新入生を迎える前の、在校生だけの始業式。三年生になった生徒たちは、クラス替えを経験しない代ということもあってか、慣れた様子であくびを噛み殺している。一方、真新しい組分けを言い渡されたばかりの二年生は、まだ新学年の空気に馴染めず、そわそわと周囲を窺っていた。
俺は今年、その場に担任としては立っていない。学年の列の外、体育館の隅に置かれたパイプ椅子に、支援センター担任という肩書きで腰掛けている。
妙な感覚だった。
壇上では、校長が新任・異動者の紹介を始めていた。
「今年度、新たに本校に着任された先生方を紹介します」
まず名前を呼ばれたのは、新たに教頭として赴任した保塚先生だった。眼鏡をかけた七三分けの男性で、優しさと真面目さが同居している雰囲気がある。
「今朝、御伽川の流れを見ながら、玉手中学校に出勤しました。本当に懐かしくて……。実のところ、先生はこの学校の卒業生なんです。皆の先輩ですね。まあ先輩風は吹かせませんけど」
おお、と生徒たちからどよめきが漏れる。保塚先生の自己紹介は、端的で分かりやすく、ユーモアに富んでいた。
続いて、初任の高遠英喜先生。細面のおどおどした長身の男性だ。
「国語を担当します……! 皆さんよろしくお願いします」
ガチガチに緊張した様子が分かりやすく、三年の女子生徒がくすくすと隣の友人に耳打ちしている。
「皆さん、初めまして! ぼくも高遠先生と同じ、新人です。教科は体育科。一緒に学校を盛り上げていきまっしょー!」
体育の首藤快先生。こげ茶髪で、典型的なフィジーク体型の快活をそのまま体現したかのような風貌をしていた。こちらは慣れた様子で、生徒たちに向かって軽く手を振ってみせる余裕まである。きゃあと黄色い声が上がっていた。若いスポーツマンの先生が着任した年度の風物詩みたいなものだ。
「英語科の海老原涼子です。3年の皆は久しぶりですね。一緒に笑顔で過ごせて行けたらと思います」
さらに、産休・育休から復帰した海老原先生が紹介され、久しぶりの教壇に少し照れたような笑みを浮かべた。ふんわりとしたパーマは産休前と変わらない。その柔らかい輪郭から、良く卒業生に「りょーこママ」と呼ばれていたことを思い出した。
さらに、市内の他校から赴任した家庭科の桐生奈緒先生、講師として着任した美術の若月千佳先生と紹介が続く。おかっぱ頭に眼鏡を光らせた几帳面そうな桐生先生と、大学を出たばかりの空気を纏った若月先生。対照的な二人だった。
拍手が体育館に響く。
新任・異動者の紹介が終わると、続けて教頭が各学年の職員体制を読み上げていく。一年から三年、そして管理職を含む0学年まで、担任・副担任・学年所属の名前が淡々と読み上げられる、これも毎年恒例の光景だ。
「三学年、学年主任、瀬川先生」
え、と端に並んでいた教え子の一部が俺に向かって振り向く。その時になって、俺が普段の定位置――、瀬川先生の隣にいないことに気づいたようであった。
「一学年、学年主任、久度先生」
聞き慣れた名前が並ぶ中、教頭が続けて発表する。
「校内教育支援センター、担任、小鍛冶先生」
その瞬間、体育館の一角――、かつて俺が受け持っていた学年の並びから、小さくざわめきが広がるのが分かった。
当然だろう。去年まで学年主任として教壇に立ち、テニス部の指導で毎朝グラウンドに出ていた男が、今年は「支援センター」という普段なじみのない部署の担任になっている。剣道部のトラブルが表沙汰になる前まで、生徒たちとの関係は、お世辞抜きに良好だった。
「え、鍛冶T、担任じゃなくなったの?」
「俺たちの社会、誰が教えんの?」
「1組の担任、去年1年の副担だった若い姉ちゃんか……。うーん、ないか…? ありか…? なし寄りのあり!」
誰かの囁き声が、別の囁き声に変わっていく。ショックを受けている生徒、軽く流している生徒、様々な声が静まり返っていた体育館内に広がる中、「担任じゃない」の言葉だけが、やけにはっきりと耳に残った。
俺は視線を落とし、聞こえなかった振りをする。
これが、いつもの春の光景だ。何人か顔ぶれが変わっても、学校という場所は変わらず新学期を迎える。
――ただ、俺の立ち位置だけが、去年までとは違う。
◇
始業式を終え、担任達が各クラスに戻って生徒の対応をしている間、1学年と0学年の教員は職員会議が始まるまでまとまった時間が取れる。学年の事務をやったり、服務に関する手続きをしたり、手持無沙汰になると言うことはない。
だが、普段担任の激務に慣れていると、この生徒と接していない時間がなんとも間延びしているように感じられて、ばつが悪かった。
俺が職員室で荷物を整理していると、養護教諭の神崎先生が、机の脇にひょいと顔を出す。桃色のカーディガンを羽織っており、明るい色の巻き毛と相まってふわりとした包容力を感じさせる。
「やっほー。今年は職員室の席、隣だね。よろしく。と言ってもほとんど、こっちにはいないだろうけど」
「よろしくです。俺も多分、センターの方ばっかりですね」
「お互い外様仲間だー」
学年の外にいることに慣れきっている教員の軽口は、正直心の底から笑えるものではなかった。愛想笑いを返す俺に対し、神崎先生は「そういえば」と手を叩く。
「小鍛冶先生、聞いた? 廸子さん、春休み入る前に校長と大喧嘩したらしいよ」
「……喧嘩?」
思わず手を止める。瀬川先生が、校長と?
「うん。廉君が抜けるくらいなら、アタシが抜けるって、直談判したんだって」
神崎先生は、いたずらっぽく声を潜めながら続けた。
「でも教科のバランスとか、性別とか、年齢層とか、色々あって、特に三学年はシビアでしょ? 結局、その言い分は通らなかったみたい」
俺は言葉に詰まった。
瀬川先生が、俺の代わりに自分が学年を抜けると申し出てくれていたなんて。そんなこと、微塵も知らなかった。
「……それ、俺、初耳です」
「でしょうね。小鍛冶先生に言うつもりはなかったんじゃない? あの人、そういうところあるから」
神崎先生はそう言うと、養護の仕事に戻っていく。
俺はしばらく、整理のことを忘れ、その場に立ち尽くしていた。
瀬川先生らしい、と思う一方で、申し訳なさが胸の奥にじわりと広がる。
◇
センターへの引っ越し作業を中座し、職員会議のために席へ戻ると、隣の島から瀬川先生がこちらへ歩いてきた。今年度から、新三学年主任になった彼女は、心なしかいつもより背筋が伸びて見える。
「廉君」
「……みちさん、聞きましたよ」
先に切り出すと、瀬川先生は片眉を上げた。
「もしかして、校長とのこと?」
「はい。神崎先生から」
「ああ、あの人ね」
瀬川先生は苦笑いを浮かべ、それから、いつもの気風の良い調子で言葉を継いだ。
「別に、恩着せがましく言うつもりはなかったんだけどね」
「……すみません」
「謝ることじゃないでしょ」
瀬川先生はぴしゃりと言った。
「あのね、廉君。アタシらベテランの存在価値って、こう言った時に若手をかばえることだと思うんだ」
「俺、もう中堅っす」
「話の腰を折らない」
先生は背筋を伸ばして続ける。
「大耀のことはアンタのせいじゃない。学年全体で背負うべきことなんだ。それに、センターの担任だったら、年寄りのアタシの方が適任でしょ。生徒たちを輝かせる自信あるよ」
俺は何も言えず、ただ頷いた。
彼女は俺が学年主任を任された時、サポートとしてついてくれたという経緯がある。主任以上に頼りになる歴戦の副主任だ。
いつになっても、俺は彼女に頭が上がらない。
「だから――」
瀬川先生は、俺の肩を軽く叩く。
「音を上げたら、いつでも代わってあげるよ。いい? 気楽にやれ! 分かったか、廉平!」
力強い、気風の良い宣言だった。
「……ありがとうございます」
声が、思いのほか掠れた。
瀬川先生は、それ以上何も言わず、自分の席へと戻っていく。
その背中を見送りながら、俺は改めて実感していた。
二年間、この人と一緒に学年を回してきた。トラブルがあれば真っ先に動き、生徒からも信頼され、俺が愚痴を言えば的確に切り返してくれる。そんな関係が、今年度で一区切りつく。
寂しさと、感謝と、申し訳なさが入り混じった感情を抱えたまま、俺は職員会議の資料に目を落とした。




