第五話 駄目にしたのは、誰だ
三月下旬、離任式の朝は桜のつぼみがまだ固い、冷たい晴天だった。
体育館に全校生徒が集まり、異動していく教員が一人ずつ壇上で挨拶をする。毎年恒例の光景だが、今年は俺にとって、いつもと違う意味を持っていた。
鷺坂先生が壇上に立つ番になると、体育館の空気がわずかに張り詰めるのが分かった。
彼は淡々と、当たり障りのない挨拶を口にする。生徒たちへの感謝。学校への感謝。次の赴任先での抱負。教員としての別れの挨拶としては、何一つ間違っていない、模範的な言葉だった。
だが離任式が終わり、玄関で最後の見送りが始まると、様子が変わった。
剣道部の三年生――、経験者組の団体レギュラー数人が、鷺坂先生を取り囲んでいる。
「行かないでください!」
先頭にいた坊主頭の生徒が、涙声で訴えていた。
「俺たち、まだ……。せめてブロック大会までは……」
他の部員たちも、それに続くように頭を下げる。誰もが取り乱し、ただ肩を震わせて泣いていた。
鷺坂先生はいつになく優しい表情で、一人一人の肩を軽く叩いていく。何を話しているのかまでは聞こえなかったが、その光景を見て、俺は妙な感覚に襲われた。
――彼らにとって、鷺坂先生は「悪い指導者」ではなかったのだ。
厳しく、勝利至上主義で、いじめの芽を見過ごした。それでも、彼らの中では慕うべき指導者として確かに存在していて……、彼に悪意があったわけではない。
その光景を横目に見ながら、俺は職員玄関の隅で自分の荷物整理を続けている振りをしていた。
見送りの人波が引いた頃、鷺坂先生がこちらへ歩いてきた。
「小鍛冶先生」
「……お疲れ様でした」
当たり障りのない言葉を返す。鷺坂先生は俺の顔をしばらく見つめてから、口を開いた。
「聞いたよ。剣道部、引き継いでくれるんだってな」
「そうなりました」
「あの子たち、ブロック大会まで狙える代だったんだ」
鷺坂先生の声に、初めて感情らしきものが滲んだ。
「経験者組は、勝つために全部を賭けてきた。ここ数年は他市も不作の年が続いていて狙い目なんだ。そんな大事な時期を、素人に――」
言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
「悪い。今のは、無しにしてくれ」
俺は何も答えなかった。答える必要も感じなかった。
鷺坂先生は続けて言う。
「くれぐれも、駄目にしてくれるなよ」
――駄目にしてくれるな、だと。
喉元まで、熱いものがせり上がってきた。
駄目にしたのは、誰だ。
いじめを見過ごし、事実確認もろくにせず、「一般論として指導した」と校長室で言い訳したのは、誰だ。
言ってやりたい言葉が山ほどあった。だが、口を開こうとした瞬間、離任式の光景が脳裏をよぎる。あの子たちの涙。鷺坂先生に向けられた、確かな信頼。
あの子たちは大耀事件の加害者である可能性が高い。だが、それでも教師の役割は……、生徒を断罪することじゃない。正しい方向へと導くことが仕事だ。
――ここで言葉をぶつけたところで、何になる。俺は、俺の仕事をするだけだ。
俺はただ一つだけ頷いた。
「……努力します」
平坦な声だった。自分でも驚くほどに。
鷺坂先生はそれで満足したように小さく息を吐く。そして、思い出したように付け加えた。
「次の学校、校長が剣道畑の人間でな」
「……そうなんですか」
「ああ。上手くいけば、向こうでも顧問に戻れるかもしれない」
その言葉に、俺は自分の中で何かが冷たく凝るのを感じた。
――俺は、部を手放した。
県大会常連の看板も、全国に届くかもしれない未来も、生徒たちが積み上げてきた実績も、何もかも全部置いてきた。剣道未経験のまま、ゼロから引き受けろと言われて。
なのに、あんたは。
問題を見過ごしたはずの当人が、剣道の経験と人脈のおかげで、また同じ場所に戻れる。
理不尽だ、とは口にしなかった。
その代わり、俺は深く一礼した。
「では、失礼します」
それだけ言って、俺は職員玄関を後にした。
振り返らなかった。
振り返れば、今にも、飲み込んだはずの言葉が漏れてしまいそうだったから。




