第四話 潰されて欲しくないから、言ってるの
家に着く頃には、すっかり日が暮れていた。
一階の洋間からは生姜焼きの匂いが漂っている。今日は卒業式だったことを、母も覚えていたのだろう。玉手銀座の”玉手箱”は地元の町内会でも御用達の弁当だ。その中身が魚づくしであることは母も良く理解している。
玄関で靴を脱ぐ音だけで、母には俺の帰宅が分かるらしい。母の穏やかな声が返ってきた。
「おかえりなさい、廉平さん」
洋間に顔を出すと、母はテーブルに皿を並べている最中だった。
「今日は遅かったのね。卒業生と話し込んだりしていたとか……、何かあった?」
俺の表情が硬いことに気づいたのか、母は訝しげに問うてきた。
……誤魔化しても仕方がない。座卓の前に腰を下ろしながら、俺は素直に切り出した。
「来年度、学年を外れることになった」
母の手が、皿を置く途中で止まる。
「あら……。それは、どうして」
母の声には、単純な驚き以上のものが滲んでいた。無理もない。学年を外れることが、何を意味するのか、教員でもない母にすぐ伝わるはずがなかった。
「校内教育支援センターってところの担任になる」
「センター?」
「普通の教室に通うのが難しい生徒のための場所だよ。少人数で、個別のペースで学習する」
母は箸を並べる手を止め、こちらをじっと見た。まだ、腑に落ちていない顔だった。
「それは……、あなたが学年を外れることと、どう繋がるの」
俺は湯呑みに視線を落とした。
「俺の教え子の……、ことだよ」
その一言で、母の表情が変わる。本来なら言えないことだ。それでも――、大耀の一件は誰かに吐露せずにはいられなかった。
「……彼のためのセンター、ってこと?」
「彼だけのためじゃない。他の子も当然見る。でも……、市の方針が変わって、力を入れることになったんだ。信頼を取り戻すために、ってことらしい」
母はしばらく黙っていた。皿を並べる手も止まったままだ。
「あなたは、それを受けたの」
「他に、選べる立場じゃなかったよ」
半分は本当で、半分は嘘だ。断ろうと思えば、断れなくもなかった。だが、断るという選択肢を、俺自身が捨てたのだ。
母はそれ以上、俺の判断を咎めなかった。代わりに、静かに息を吐く。
「あなたは、昔からそう。誰かが困っていると、放っておけないの」
「褒めてないだろ、それ」
「褒めてないわね」
あっさりと肯定され、思わず吹き出した。母も釣られたように、小さく笑う。
その空気が緩んだのを見計らって、俺は続きを切り出した。言うべきかどうか、少し迷ったが、この人には隠しごとをしても、どうせすぐに見透かされる。
「それと、もう一つある」
「まだあるの」
「剣道部の顧問も、俺がやることになった」
母の箸が、ぴたりと止まった。
俺は洋間の窓に映る離れへと目をやった。
年季の入った瓦積みの木造平屋で、
『小鍛冶道場』
と仰々しい草書で書かれた表札がかかっている。
昔、うちが運営する町道場”だった”建物だ。今でも母によって丹念に手入れがされているため、廃屋と化してはいないが……。
地元でも名が知られていた(らしい)剣道の高段者であった祖父から母が受け継ぎ、今では母のみの運動不足解消部屋になっていることに、歴史の移り変わりと悲哀を感じる。
そういえば、まだ俺がテニスの道を進むと決める前、自身も剣道家である母は俺に対し、熱心に剣道を勧めてきていたことがあったな。
今考えてみると、後継者がいなければ、道場を畳まざるを得ないわけだから、俺に剣道をやってもらいたいというのは割と切実な話だったのだろう。
だが、結果として俺は今は亡き父のやっていたテニスの道を選び、母は何も言わずに俺を応援してくれた。
つまるところ、『小鍛冶道場』にとどめを刺したのは俺の選択であるわけだ。
だから今回の話はもしかすると喜んでくれるかもしれない、と少し思っていた。だが返ってきたのは、笑顔ではなかった。
「……剣道部って、あの」
「うん。今、問題になってる、あの部活」
母は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙り込んだ。その沈黙は、俺が想像していたものとは違う質のものだった。
「あなたが剣道に関わってくれるのは、正直、嬉しいわ」
そう前置きしてから、母は言葉を選ぶように続けた。
「でも――、よりによって、今そこなの?」
「他に、やれる人間がいないんだ」
「そういう話じゃないの」
母の声が、珍しく硬くなる。
「剣道の世界は、他の競技とは違うのよ。狭くて、閉じてる。昔ながらの師匠と弟子の関係で。経験者と未経験者の扱いだって、他の部活とは比べ物にならないくらい差があるわ」
「それは、知ってる」
「知識として知っているだけじゃ、分からないと思う」
母は湯呑みを置き、まっすぐに俺を見た。
「私も、道場をやっていた頃、何度も見てきたの。剣道を齧ったことのある保護者ほど、指導者とぶつかるのよ。自分のやり方があるから。段位や実績にこだわるから。……あなたは剣道の経験がない。未経験の顧問が、経験者の保護者や生徒たちの中に入っていくことが、どういうことか」
俺は何も言えなかった。母の言葉には、経営者として、指導者として、その世界を見てきた重みがあった。
「潰されるかもしれない、って言いたいんだろ」
「潰されて欲しくないから、言ってるの」
母は、そこで初めて表情を和らげた。
「あなたが決めたなら、止めはしないわ。ただ――、覚悟だけはしておきなさい。”こちら”の世界は、優しくないから」
俺は湯呑みの茶を、一口すすった。
「うん」
それだけ返すのが、精一杯だった。
母はしばらく俺を見つめていたが、やがて、ふっと表情を緩める。
「それでも……、基本くらいなら、私が教えられる」
思いがけない申し出に、俺は目を丸くした。
「母さんが?」
「腕は鈍っても、教えることまで忘れやしないわ」
軽口めいた口調だったが、その奥には迷いのない光があった。
「それに」
母は箸を取り直しながら、付け加える。
「ようやく願いが叶いそうだから」
俺はかつて、幼児サイズの竹刀を携え、詰め寄ってきた母の姿を思い出し、思わず苦笑した。
「期待に沿えるかどうか、分からないよ」
「あら、心配してないわ。あなたはいつだって、始めたことは中途半端にしない子だもの」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
だが、母の言葉――「潰されるかもしれない」という一言だけは、夕飯の湯気の向こうで、いつまでも耳の奥に残っていた。




