第三話 学年を外れてもらいたい
そうして卒業式が実施される。
体育館の中は、外の澄んだ空気も忘れるほどに、熱を帯び、張り詰めた空気で満ちている。
卒業証書授与を終え、答辞の順番になると、三年生代表が壇上へ進み出た。俺も授業を受け持っていた生徒だ。野球部の元部長で、元生徒会長。普段は部活の練習がキツい、キツいと大袈裟に叫んでいた姿をよく覚えている。そんな彼も一回きりの大一番の中、緊張を隠せないようであった。表情が硬く、所在なさげにピンマイクのヘッドを指でなぞっている。大きく息を吸い、放たれた最初の一言はわずかに震えていた。
「僕たちの三年間は、感染症に振り回された三年間でした」
声は次第に落ち着きを取り戻していく。
「入学式は中止になり、体育祭は分散開催になり、修学旅行は行き先が二転三転しました。この学校に入学する前に想像していた、当たり前だと思っていた青春の景色は、僕たちの代からいくつも消えていました」
体育館は静まり返っていた。誰もが息をひそめて聞き入っている。
「でも、なくなったものを数えるより、僕たちは工夫することを選びました。合唱祭実行委員が考えたオンライン合唱、密を避けるための時間差体育祭。文化祭の代わりに行った動画発表会――。誰かが用意してくれた青春じゃなくて、自分たちで作った青春でした」
代表の声に、少しずつ力がこもっていく。
「恐らく、大部分はぼくたちのわがままと言われても仕方なかったと思います。それでも頭ごなしに否定せず、辛抱強く見守ってくださった先生方、本当にありがとうございました」
深々と一礼した瞬間、前方の列から嗚咽が漏れた。生徒会担当の犬養先生だ。普段は誰よりも冷静に、生徒たちの言葉を的確に受け止める人なのに、今日ばかりはハンカチを目元に当て、小麦色に焼けた顔をくしゃくしゃにしながら肩を震わせている。
その一方で、ベテラン勢の一角では渋い顔がいくつか並んでいた。生徒が主体的に作り上げた行事は、言うなれば大人の管理から外れかけた行事とも言い換えられる。リモートでの合唱祭など、タブレットPCの取り扱いが苦手で、はっきりと言って忌避しているベテラン勢にとってはストレスでしかなかったはずだ。それに時間差体育祭は例年よりも準備に時間がかかった。動画発表会に至っては、普段「するな」と指導しているSNSへの動画投稿と何が違うのかと声を荒げた教員もいた。
――自分の仕事が増えるのではないか。ただでさえ忙しい子どもに余計なことをさせたくない。予測のできないトラブルで子どもを傷つけたくない。
枝葉は違えども、生徒の自分たちで作り上げた行事を「不安に思っている」側の教員にとって、この答辞は素直に喜べるものではないのだろう。時代の変化と、自身の譲れぬ信念がぶつかりあっている――、そんな葛藤が、しかめた眉間ににじんでいた。
誰もが犬養先生のようにはなれないのだ。
俺はといえば、
「すごいな」
と単純に感心していた。
代表生徒の目はキラキラと輝き、まっすぐ前を向いている。
犬養先生のサポートありきとは言え、自分たちでゼロから何かを作り上げたことが彼の自信につながったのだろう。
存外、こいつらは俺よりずっと大人なのかもしれない。
答辞が終わると、合唱の時間になる。三年生全員の歌声が体育館いっぱいに響き渡り、保護者席のあちこちからすすり泣きが聞こえ始めた。今年に限った話ではないが、卒業式の合唱というのは毎年不思議と胸を打つ。歌唱力の巧拙は関係ない。積み重ねてきた三年間そのものが、声に乗って伝わってくるからだろう。
続いて、在校生から卒業生へ送る歌が始まった。
こちらも仕上がりは上々だった。指揮を任されていたトモが、自信満々に「先輩たちを泣かせる自信はある」と豪語していただけのことはある。トモが両手を振るたびに、ソプラノとアルトがきれいに重なり、離れ、後半の全パートがフォルティッシモで揃って声を発する場面では、体育館の空気が震えるようだった。
――と、そこで俺は無意識に二年生の最前列を目で追っていた。
いない。
当たり前だ。分かっていたはずなのに、探してしまった自分に苦笑する。あいつがいれば、先程のフォルティッシモの場面でも、ツンツン頭を揺らしながら声に合わせて身体がぴょんと飛び上がる――、そんな不器用な姿が見られたに違いない。
優しく真面目だけど、緊張しいなんだ。あいつは。
ずんと、胸の奥が重くなった。
式が滞りなく終わる。今年も、卒業式は生徒たちにとって忘れられない一日になり、教員にとっては大きな事故もなく無事に終わった一日になった。それでいい。それでいいはずだ。
先輩と後輩の別れ。担任と教え子たちの別れ。そして、顧問と部員たちの別れ。
俺自身、テニス部の三年生たちとの、中学校生活最後の時間を存分に味わった。三年の部員たちと馬鹿話をし、トモやタケも交えて全部員が肩を組んで写真に収まりながら、来年もこんな風に送り出すことになるのだろうかと、柄にもなく感傷的になる。
◇
三年生の見送りが終わると、職員一同が職員室に集まった。管理職や養護教諭、教育支援センター主任などのいわゆる0学年は、この後すぐに午後の部――不登校気味の生徒たちのための、別枠の卒業式――の準備をしなければならない。その前に、教員同士で軽い昼食を取っておくのが毎年の慣例だった。
「今年も"玉手箱"か~」
と誰かが冗談交じりに言う。
この時期の弁当の注文は一年の学年団に一任されている。が、結局のところ、注文先は毎年変わらない。
地元である玉手銀座に店を構える老舗弁当屋に頼むものだと、何とはなしに決まっているのだ。
これがいささかお上品な味で、ジャンクな味付けを好む教員からの評判が芳しくない。
俺はというと、別に嫌いではないんだが……、
「まさか、俺が歳食ったってことか、これ」
「何ですか、それ」
向かいに座る能見先生が呆れ顔で言った。いつも思うが、前髪が一部だけ伸びていて特徴的だ。音楽家というのは独特じゃなければ生き残れないのか……?
そんなことを思いながら、手をひらひらとさせて答える。
「気にすんな。それよりうちの学年は……」
「門田先生が生徒との別れの合唱して帰ってきたから、後は瀬川先生だけですね。いつもの奴です。女子生徒にしがみつかれ、『先生と離れたくない!』って泣きじゃくられるアレ」
「ああ、アレね。そりゃ仕方ないわ」
と苦笑いしたところで、扉が勢いよく開く。
「廉君、皆ごめん。遅れた。三年の先生方を待たせちゃった?」
瀬川が息を切らして飛び込んできた。五十路を越えているというのにフットワークが本当に軽い。すらっとした長身も、ベリーショートの髪形も、本当に絵になるんだよなあ。
俺は彼女に対して、野球のセーフのジェスチャーを返す。
勿論、季節の風物詩となっている彼女の遅刻には職員室にいる誰もが驚きもしなかった。
「大丈夫です。さっき三組の担任が号泣してたんで、泣き止むまでは始まりません」
俺がそう答えると、瀬川は少し肩の力を抜いたようだった。荷物を机に置きながら、呆れ半分、感心半分といった調子で首を振る。
「普段からシャキッとしない奴だけど、今回ばかりは許してやるか」
誰のことを指しているのか、あえて聞かないでおく。
やがて三年団の先生方の持ち回りで、思い出話が始まった。
修学旅行のバスでゲロを吐いた生徒の話。動画発表祭で、せっかく作り上げたデータをミスで削除してしまった生徒の話。普段は勉強が嫌いだと豪語していたのに、廊下で泣きながら勉強を教えてほしいと訴えてきた受験生。一つ語られるたびに、笑いと、時折しんみりとした空気が交互に職員室を包む。話が一区切りつくごとに、惜しみない拍手が起こった。
俺もいくつか相槌を打ちながら、"玉手箱"を箸でつつく。ソフトテニス部の顧問としての卒業生と過ごした三年間が、ふいに脳裏をよぎった。
悪くない三年間だった。それは間違いない。
だが同時に――、頭の片隅にはずっと、今年に入ってからの二か月がこびりついている。
「小鍛冶先生」
名前を呼ばれて振り向くと、校長が俺の席の隣にまで来ていた。苦いものが混じった表情でこちらをじっと見ている。
「午後の部が終わったら、話があるから」
それだけ言うと、校長はすぐに自分の席へと戻っていく。この時期に呼ばれることの意味について、おおよその見当はついていた。だが、あの表情は……。返事をする声が、自分でも分かるほど硬くなる。
「……はい」
弁当箱の中身は、まだ半分以上残っていた。
◇
卒業式の熱気がまだ残る校舎で、俺は校長室のソファに腰を下ろしていた。
玉手中では毎年、卒業式を終えてから一週間のうちに、来年度の校内分掌が内示される。学校全体を回す要職や、揉めることが目に見えている人事案件ほど、早く動くのが常だった。二年連続で学年主任を務めている以上、早めに呼ばれること自体には何の疑問もない。
……だが、隣に座る生活指導主任の栗岡先生と同時に呼ばれたことが、いつもと違うことを示していた。
つまり、これから学校全体を回す要職と、揉めることが目に見えている人事案件の両方に触れると言うことなのだ。
校長の隣には教頭が座っている。胃のあたりをさすっていることには自分で気づいているのか、いないのか……。管理職の任期は基本的に二年。花咲校長が来年度も残る以上、教頭は今年度で異動になるはずだ。それにしても最後の最後に、随分と重たい役回りを引かされたものだと同情する。
花咲校長は、どこから切り出したものかと言葉を選んでいるようだった。腕を組み、ベルトの上に乗っかっている恰幅の良い腹が突き出ている。これで生徒に混じって千メートルを走っているんだから、見かけと身体能力は必ずしも一致するものじゃないとつくづく実感させられるよ。
彼とは俺が初任の頃から付き合いがある。昭和の荒くれたちを相手にした武勇伝も何度も耳にした。騒ぐ生徒たちの前で机を蹴飛ばし、真っ二つに割った話。ガンを飛ばしてきた生徒を頭突いて血まみれにした話などからも分かるように、いざアクセルを踏む前に思い悩む手合いではないはずだ。そんな普段の豪快さが鳴りを潜め、珍しく歯切れが悪い。教頭も、両手を膝の上できつく組んだまま、こちらを見ようとしない。
俺は栗岡先生と顔を見合わせた。筋肉質で色黒の強面が片眉を上げる。
「廉ちゃん、これ何の集まりか分かるか?」
「いや……」
「だよなぁ。悪ぃ、馬鹿なこと聞いたわ」
栗岡は肩をすくめてそう言い、「で?」と校長たちに鋭いまなざしで促した。
観念した様子で校長がようやく口を開く。
「単刀直入に言う。新しい市長の公約――、教育支援センターの拡充について、覚えているか」
「ニュースでやってたやつですよね」
俺が頷くと、校長も同じように頷き返す。
「今までうちのセンターは、正直なところ、定年退職した先生方の再雇用先として機能していた面が大きい」
栗岡先生が、そこに割って入った。
「そりゃそうでしょう。あそこに配属されるのなんて、優しくて大人しい……、言い方は悪いが、”元気がなくなった”先生ばっかりだ」
「でも、状況が変わったんです」
教頭が続きを引き取る。
「多様な学びの実現、というのが今回の公約の核です。通常学級には及ばずとも、しっかりと学習が積める環境を整えなければならない。そのためには、授業力に優れた教員を配置する――、そこまでが公約に含まれている」
――嫌な予感がした。
栗岡先生も似たような顔をしている。
「この話、俺は無関係ですよね? 俺ぁ体育屋ですよ。五教科なんざ畑違いだ」
言ってから、栗岡先生の表情がふと止まった。
「……あっ」
察しがついたのだろう。校長の視線が、栗岡先生ではなく俺に向いていることに。
「小鍛冶先生」
「はい」
「来年度は、学年を外れてもらいたい」
一瞬、部屋の空気が止まった気がした。
「懲罰人事ですか」
自分の声が、思いのほか平坦に出た。
「違う」
校長は即座に否定する。
「玉手中は、地域の信頼を損なった。信頼を取り戻すには、力を入れるべき分掌に、実力のある教員を配置するのが筋だ。それだけの話だ」
――信頼を、損なった。
その一言に、腹の底が重くなる。
大耀のことだ。
あの事件は、他の誰でもない、俺の罪だと思っている。罪であるならば、罰を受けるのが道理だ。
「大耀君は……、まだ一人で外出できていないそうだ」
校長が続けた。
「同い年の視線を、ひどく怖がるようになったとも聞いている。だからこそ、彼の復帰を見据えて学ぶための居場所が要る。センターがその役割を果たせるなら――」
俺は目を閉じた。
今、面倒を見ている学年の生徒たちの顔が次々に浮かんで消えた。二年間、楽しいこともトラブルも一緒に乗り越えてきた生徒たちだ。卒業まで続く彼らの道のりを一緒に歩んでいきたいという願いは贅沢なのか――?
心の中で天秤が揺れ動く。秤が下がったのは、罪の意識だった。
「……分かりました。やらせてください」
その場にいた三人が、揃って安堵の息を吐く。
「なら、これで話は仕舞い。俺の出番はもうねえってことですね」
栗岡先生が椅子の背もたれに体重を預けながら、投げやりに言った。
「……まだ何かあるって言うんですか?」
だが、校長と教頭の表情は、ひきつったままだ。
嫌な予感の続きは、まだあった。
「話には、続きがある」
校長が言う。
「剣道部顧問の、鷺坂先生のことだ」
空気が変わった。栗岡先生も、背もたれから身体を起こす。
「今回の件は、いじめ重大案件として、絶対に解決しなければならない。教育委員会もその方向で動いている」
「解決ねえ……。まあ、論点は分かりますよ。勝利至上主義とか、あの空気がいかんってやつでしょう。正直、俺も"同じこと"やってるから、鷺坂君のことを悪く言えねえ。ただ、いじめ放置はなあ」
栗岡先生がそう言って、居心地悪そうに足を搔く。
彼の言葉に俺も頷く。鷺坂先生には言いたいことが山ほどにある。部活を優先して校内の仕事を放置すること。なんなら、専門部の仕事で忙しい時には『授業すら自習にしてしまう』こと。そして、今回の問題を放置したこと。
だが、それでも部活で勝利を目指す、という点に関してのみは、部活動を真剣に見る者にとって、なんら瑕疵の無い部分だと思えた。
俺とて、大会で勝利を得るため、生徒たちに厳しく当たることなどいくらでもあるのだ。
俺が続きを促すと、校長は頷いた。
「前提として、鷺坂君には来年度、他校へ異動してもらう」
「そりゃ当然でしょうよ」
栗岡先生が呆れ声を出す。
「あいつが顧問のままじゃ、示しがつかない。……で? 後任はどうすんです」
まるで他人事のような口ぶりだった。
教頭が、静かに首を振る。
「他校から、剣道経験者が異動してくる見込みはありません」
部屋の温度が、また一段下がった気がした。
栗岡先生の顔から、はっきりと機嫌の悪さが滲み出す。
「まさか」
校長が、絞り出すように言った。
「来年度の剣道部顧問には、剣道未経験者で、生徒指導力に優れた教員を配置したい」
栗岡先生が真っ先に声を上げる。
「俺はやりませんよ」
吐き捨てるような口調だった。
「冗談も休み休みにして欲しいですわ。今のサッカー部は大事な時期なんですよ。それに、問題起こした連中の面倒見るだけの部活動に、意義なんざ感じませんね。今どき部活動なんて、地域移行で減らしてく流れでしょうが。だったら、さっさと潰しちまえばいい」
教頭が首を振る。
「そう単純な話じゃないんです」
「あぁ? 何がですか」
「今回厄介なのは、加害者とされた経験者組が、いじめを一切認めていないことです。これ以上の追及は難しい。二十人以上いる部員のうち、初心者組の十人は、来年全員が退部すると宣言しています。だが、残る十人余りの経験者組は、総体に出場する機会を奪われることを良しとしない……」
教頭は一度言葉を切り、続けた。
「部を潰したところで、彼らの憎しみを買うだけで終わります。何の解決にもならない。……上手く操縦していくしかないんです」
「だとしても、俺は絶対やらねえ。そんな話受けるくらいなら、教員辞めてやりますよ!」
声を荒げる栗岡と教頭がぶつかる。
校長の視線が、俺に向いた。
言われる前から、分かってしまった。
「待ってください」
俺は先に口を開く。
「俺はソフトテニスの専門部長をやっています。県大会以上の審判資格もある。来年は……、あいつらは全国に手が届くかもしれない代です」
声が、自分でも分かるほど荒くなっていく。
「それでも――、ソフトテニス部を台無しにしかねないリスクを冒してまで、俺にやれって言うんですか」
教頭が目を逸らした。
だが、校長は逸らさなかった。まっすぐにこちらを見返してくる。
「それでも、やってほしい」
静かな、それでいて揺るがない声だった。
「他に適役がいない。いじめの解決には、力のある教員が現場を見ている必要がある」
――ふざけるな。
気づけば、俺はテーブルを拳で叩き、ソファから立ち上がっていた。
罪に対する罰だと言うなら、あまりにも重すぎる。
部屋の中が、しんと静まり返る。
誰も、何も言わなかった。
長い沈黙の後、俺は詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。
「……分かりました」
自分の声とは思えないほど、力が抜けていた。
「やります」




