第二話 俺が全国常連校にする初の世代だね
寒さの和らぐ三月の中旬。
数少ない例外を除いて、教員の朝は大抵早い。
泥のように眠っていた俺の意識は、『午前四時』の到来を知らせる目覚まし時計によって無理矢理に引き上げられた。
「……あと三十分」
無意識にそう呟いてから、すぐに諦める。
無理だ。
墓から這い出るゾンビのような手つきで時計のアラームを止めた後、俺は未練がましく布団に顔を押し付ける。
未だまどろみの中にある脳内では、シンプルな命題がちらついていた。
……あと何分までならセーフだ?
"たっぷり"五分は考えてから、勢いをつけて起き上がる。"たったの"五分ではない。教員にとって、五分という時間は"たっぷり"と評されることが多い。
五分あれば提出物を回収できる。
五分あれば保護者へ一本電話できる。
五分あれば教材を一枚印刷できる。
――この職業、生き急ぎ過ぎである。
「おはようございます、廉平さん」
あくびを噛み殺しながら、二階の自室から一階の洋間へ降りると、台所から味噌汁の香りが漂ってきた。
年上の女性が作った手料理だ。別名、おふくろの味とも言う。
早朝だというのに母は、身だしなみをすでに整えていた。長い髪を一つに縛って横に流し、小柄ながら背筋のしゃんと伸びている。きつめの顔立ちには、どこか古武士のような風格があるが、父の前でだけはふにゃりと表情が緩んでいたことが記憶の中に残っている。
「おはよう、母さん」
朝食は鰆の西京焼きに玉ねぎの味噌汁。THE春といったラインナップだった。学生時代は「朝から渋いな」としか思わなかった献立だが、三十を過ぎた今では、このくらいが胃に優しくてちょうどいい。
西京焼きに齧りつきながら、白米をかっこむ。お世辞にもお行儀がよろしいとは言えない食べ方は、最早職業病と言っていいだろう。
食事に五分"も"かけたら、仕事が回らなくなるのが教員なのだ。
母は俺が咀嚼している内に、居間へ引っ込んでいた。
線香の匂いが漂い、おりんの音が聞こえる。
「おはようございます。廉三さん。今日は鰆の西京焼きですよ」
穏やかな母の声を聴きながら、俺の気持ちは少し沈む。
俺が、巷で一世を風靡している不名誉な称号――、"子ども部屋おじさん"をやめられない理由がそこにはあった。
気を紛らわせるためにとテレビの電源を入れると、ニュース番組がやっていた。
『教員の働き方改革についてです』
もう朝食のほとんどが胃に収まったところで、茶をすすりながら、耳を傾ける。
『依然として精神疾患で退職をする公立教員が増加傾向にあることを受け、文部科学大臣は教員が抱える事務の負担や、ストレスチェックのこまめな実施が重要であると述べました』
「それで、先生方は楽になるの?」
居間で線香をあげおえた母が、再び洋間に戻って言う。
俺が食べ終えた食器を片付け始めたものだから、「俺がやるよ」と言っても「良いから」と聞かない。
「今日も河川敷でロードワークでしょ」
「だね」
母の問いに頷いて答える。
「部長のトモ君も?」
「来るよ」
母がくすりと笑う。
「真面目ねえ」
母の言葉に、ふわりとした無造作ヘアとすらりと長い手足。涼しげな風貌をした男子生徒の姿が脳裏に浮かび上がった。真面目かなあ、真面目かも。アイツ、異常にモテるんだよな……。
「トモは全国がかかっているし、俺は……、先生だからね」
「嘘おっしゃい。あなたは先生になる前から走っていたじゃないの」
そりゃそうだと、俺はもろ手を挙げて降参した。
真面目。
教師もそうだが、部活にのめりこむ奴なんて、大抵そんな人種である。
「それで、先生は楽になるの?」
「ならないよ」
断言する俺の物言いに、母が目を丸くする。
「事務が減るのに?」
「そもそも減らないかな。教員は自営業みたいなもんで、誰かに任せることに不安を感じる人が多いし」
何より、と俺は皮肉を言う。
「ストレスチェック自体が、いついつまでに提出しろって言う事務。むしろ増えてるじゃんね」
むしろ増える、といった直後――、番組のニュースが切り替わった。
『――御伽市の市長選を終え、新たに就任した市長が教育のさらなる拡充と、子どもたちが多様な学びを受けられる機会と空間の提供について述べました』
教員上がりで有名な現職の市長は、画面の中でも教員としての残り香を漂わせていた。
さながら保護者会で壇上に上がった時のように、広く見まわし、ゆっくりと語る。
『市では来年度から教育支援センターを拡充し、一人一人の教育的ニーズに応じた支援をさらに充実させる方針です』
そして、威風堂々とした態度で宣言した。
『どの子どもも取り残さない教育を実現してまいります』
その報道を聞き、俺は肩をすくめる。
立派な話だ。異論はない。
俺だって、その考え方には賛成だ。ただ――、
「……ほらね。仕事が増えた」
思わず本音が漏れた。
母が苦笑する。
「夢のない話ね」
「夢だけじゃ学校は回らないから」
一人一人に寄り添う。
その言葉は美しい。
だが、一人に十分時間をかければ、残り二十九人に使える時間は減る。
ならどうすれば良いのか。現場では勤務時間を増やすことで対応してきた。
働き方改革と、一人一人に寄り添った教育の実現。
理想を実現するには、人も時間も必要だ。
その二つが増えたという話は、まだ聞いたことがない。
◇
まだ薄暗い中、俺は教え子である小宇佐智彦と二人で日課であるロードワークに出向いていた。
「先生、今日は五キロ?」
「んだな」
短く返すと、トモは物足りなそうに肩を回した。
「ペース上げます?」
「怪我が怖い。今日はゆっくりでいいよ」
朝もやで目の前もおぼつかない中、ひんやりとした風が頬を撫でる。白い吐息を後ろに流し、足音だけが規則正しく続く。
目標の折り返し地点に達した頃合いに、徐々に視界が開けていった。
朝日を浴びて反射する御伽川の静かな流れを横目で見つつ、俺と教え子は息を整えつつ、うんと伸びをする。
「先生、今日部活やっちゃ駄目なの?」
「駄目に決まってんだろ。今日は卒業式。先輩たちを笑顔で送り出す日だ」
呆れて俺がそう言うと、トモは口を尖らせた。
「午前中で終わるのに」
「メリハリをちゃんとつけなさい。てか、卒業生に送る歌とか大丈夫だろうな?」
「大丈夫。俺の指揮で先輩たちを泣かせる自信はあるよ」
とトモは大仰な仕草ですらりとした両手を振るう。
「あいつらなら、歌が上手かろうが下手だろうが、泣きそうだけどな」
「それはそう」
俺がおどけると、トモははにかみ、すぐに真顔になった。
「先輩たちがうちのテニス部を県大会常連校に押し上げたよね。鍛冶Tが玉手の顧問になってから初の世代だ」
「そだね。あいつらは頑張った」
「じゃあ、俺が全国常連校にする初の世代だね。俺とタケのペアでやってみせる」
まっすぐな目だった。
眩しく感じるのは朝日のせいだけではないだろう。
俺は照れ臭くなりながらも、笑って答えた。
「……そりゃ嬉しいね。選手としても監督としてもコンプリートだ」
「うん、期待してて」
そうしてロードワークを再開する。
鳥の朝鳴きと、規則正しい足音が交わり、心地よかった。
部活動に命を懸ける教員のことを、巷ではBDK《部活動大好き教員》というらしいが、俺はまさに"それ"だろう。
勿論良い意味ではないことは分かっている。
だが、しょうがないではないか。
叩けば響く鉄のような生徒たちがいて、幸いなことに鉄の叩き方を知っている。
だったら、自分の作れる最上を目指すのは人の性だ。
この時の俺の目の前には、俺を慕う生徒たちと渡る、栄光の架橋が見えていた。




