第一話 「大丈夫」という言葉を軽く見過ぎていたのかもしれない
あくびを噛み殺しながら、キーボードを叩く。
カタカタカタ――。
静まり返った職員室には、その音だけが規則正しく響いていた。
年が明けて三日。正月休みとはいえ、受験を控えた三年団や部活動の顧問、それに俺のような学年主任は、ぽつぽつと学校へ顔を出している。
もっとも、夜十時を回れば話は別だ。
「うぉぉぉし、三年生を送る会の企画書、ようやくまとまった! あ、そろそろうちも帰りますわ。カジさんもそろそろ帰っときましょうよー」
三学年に所属している小麦色肌の女性教員が解放感に満たされた様子で、セミロングの栗色髪を後ろに流しながら、うんと伸びをした。犬養百合、三十歳英語教師。今年で教員歴八年になる中堅教員だ。いつ見ても年齢よりも十歳は若く見える仕草で、そのままひょいと軽口をこちらへ向ける。
「んー、もうちょい」
「何その返し。ゲームに熱中してる子どもみたいですね」
「別に楽しかないよ。セキュリティは俺かけとくから、先帰んな」
俺の言葉に、小麦色肌は芝居がかった敬礼を返してくる。
「あざまし。不肖犬養。敬愛する小鍛冶廉平パイセンを見捨てて即時帰宅します。お疲れっしたー」
「おつー」
そうしてワ~とかギャーとか仕事中に漏らす後輩が帰った途端、職員室内が広くなったような心地がした。
目を指で揉みながら市から貸与されているパソコンの画面を睨む。
青く輝く画面には、来年度の修学旅行実施計画細案。
二学年の先生方が冬休み前から分担して作り上げたものを、主任である俺が最終確認している最中だった。
「……二日目のクラス別見学地、滞在時間が十分短いな」
パソコンを操作しながら修正を入れる。
「……って、年明けの教材研究、終わってねえ。そっちまで手が回るか……?」
確か日露戦争の授業がいくつかのクラスで始まるはずであった。政治や人々の生活、産業の変化を幅広く学ぶ回で、手を抜けない単元だ。
「まあ、致し方ねえ。やれれば良し。やれなきゃ、今までの貯金で進めるか」
すっかり冷めたコーヒーをすすり、頭をがしがしとかく。
その時だった。
机の上に置いていたスマートフォンが、ブルルッと震えた。
学年グループチャット。
こんな時間に連絡が入ること自体、嫌な予感しかしない。
画面を開くと、送信者は教頭だった。
『【至急】』
その二文字だけで心臓が嫌な音を立てる。
続く文章を読んだ瞬間、頭の中が真っ白になった。
『二年一組 明日大耀さんが意識不明の状態で自宅から救急搬送されました。原因は今のところ分からず、詳細確認中です。続報を待ってください。また始業前ですが緊急の打ち合わせを行いますので、翌日の出勤を願います』
「……は?」
思わず声が漏れた。
明日大耀。
俺のクラスの、真面目で、責任感が強くて、学級委員も体育委員も、クラスのためになるようなことは全部自分から引き受けるような奴だ。
そんなあいつが、意識不明?
震える指で続報を待つが、しかし、新しい情報は何も入ってこない。
原因不明。詳細確認中。降って湧いたような予断を許さぬ状況が頭に重くのしかかってきた。
……一体何が原因だ。重い病気を持っていた? いや、それなら保護者から相談があってもいい。保護者との関係は悪くなかったし、秘密主義でもなかった。それに冬休み中も、部活で登校している姿を見ることはできていた。つまり本当に突然の事態ということだ。
ならば事故か……? 想像したくもない考えが頭をかすめるが、自宅からと書いてある。
これは皆目見当もつかない。
――いや。
一つだけ。原因に、思い当たる節があった。
秋頃の教育相談、大耀が珍しく長く話した日のことが思い浮かんだ。
あの時、俺はあいつの顧問に伝えたはずだ。
だから大丈夫だと、どこかで思っていた。
「……大耀」
誰もいない職員室で呟く。
返事はない。
パソコンの画面には、修学旅行の行程表が開いたままだった。
保存することも閉じることもできず、俺はしばらく画面を見つめ続けていた。
◇
凍てつくような冷気を感じる翌朝。眠気をカフェインで無理矢理誤魔化し、俺は学校グラウンドに立っていた。
何があっても、部活を休みにするわけにはいかないからだ。
「ラスト五本! 足止めるな!」
乾いた打球音が冬空へ弾ける。部員たちはコート内を縦横無尽に駆けながら、一心不乱にボールを追う。
常よりも短いリズムで白い息を吐きながら、俺は負けじとボール出しを続けた。ワイド、ボディ、ロブ、スライス。試合を想定して、ランダムにボールを出すのが、うちのスタイルだ。
現在、俺の受け持つ男子ソフトテニス部は県個人戦優勝ペアである小宇佐智彦と小日向武人を擁し、一年生にも全国を狙える逸材が入ってきた。
この冬がこの子たちにとっては正念場だ。
少しでも上へ。何としてでも、押し上げてやりたい。
「トモ、あと一歩前!」
「はい!」
返事と同時に、トモの足が一歩分前へ出る。
「タケ! 打点下がってる!」
「ウス、もういっぽーん!」
部員たちの返事はただ前を向いていて、力強い。
いつもなら、その声を聞くだけで自然と気持ちも上がる。
なのに今日は違った。
ボールを出しながらも、昨夜の通知が頭から離れない。
――大耀。
今、どうしている。
意識は戻ったのか。
病院には誰が付いている。
そんなことばかり考えてしまう。
それでも、練習は止められない。目の前には、俺を信じてボールを追う部員たちがいる。
教師は、自分の感情だけで仕事を止められない。
だから俺は、いつも通りの声を張り上げた。
「よし! あと一本!」
その瞬間だった。
校舎のスピーカーから電子音が鳴る。
『全校の先生方に連絡します』
教頭の声だった。
『至急、職員室へお集まりください。繰り返します――』
その一言で、俺は昨夜の続きが始まったことを悟った。
◇
職員室へ戻ると、遠方への帰省などにより物理的に出勤できない職員を除き、既に全職員が集まっていた。
誰一人として私語はなく、細面の教頭が手元のメモを見つめたまま口を開く。
「昨夜、二年一組の明日大耀さんが自宅で倒れ、救急搬送されました」
静まり返った職員室に、教頭の声だけが響く。
「命に別状はないそうですが、現在も集中治療室で治療を受けています」
誰かが息をのむ音がした。
いつもは暑苦しい校長も、福顔をしかめて黙して語らない。
「現時点で原因は分かっていません」
そこで教頭が一枚の紙を持ち上げた。
「ただし、本日午前七時三十五分、御伽新聞社から一本目の問い合わせが入りました」
その一言に職員室がざわついた。
新聞社? マスコミ? 事件なのか……? 様々な憶測が飛び交う中、
「明日さんの保護者が、昨夜SNSに投稿した内容について確認したい、とのことです」
教頭は紙を見ながら読み上げる。
「『息子はいじめを受け、自殺を図った。学校は相談を受けながら何もしてくれなかった』以上です」
今度は誰も声を出さなかった。
校長がゆっくりと全体を見まわし、それから俺を見て言う。
「現在、教育委員会と連携して事実確認を進めています」
「担任の小鍛冶先生、剣道部顧問の鷺坂先生はこの後、校長室へ来てください」
職員室を出ると、角刈りに無精ひげの目立つ、貫禄のある体格の鷺坂先生と目が合った。ぎょろりとした目つきが、こちらを一瞥する。互いに何も言わず、並んで廊下を歩く。ふと、彼に問おうとして言葉が詰まった。
言いたいことは山ほどある。だが、それは俺にとっての免罪符になるわけではないのだ。
いつもなら足早に通り過ぎるだけの廊下が、今日はやけに長く感じられた。
校長室の扉をノックする。中の空気は、職員室以上に張り詰めていた。
校長に教頭。
二年学年主任であり、学級担任でもある俺。
そして剣道部顧問の鷺坂先生。
全員が席に着くと、校長は開口一番に言った。
「勘違いして欲しくないんだが、誰かを責める場じゃない」
一拍置いて、さらに続ける。
「俺だって、生徒指導部会にも教育相談部会にも顔を出している以上、責任はある。いや……、俺の責任が一番大きい」
だが、と校長は続ける。
「新聞社にも教育委員会にも説明できるよう、事実だけを整理せにゃならんのだ」
校長は俺へ視線を向けた。
「小鍛冶先生。保護者は『学校が何もしてくれなかった』と言っている。明日さんから受けた教育相談の内容をもう一度お願いしたい」
「……はい」
喉がひどく乾いていた。
「二学期の教育相談でした」
「内容は」
「剣道部内の人間関係です」
俺は教育相談記録を手に取りながら、一つ一つ思い出すように話した。
「経験者組と初心者組の対立が激しくなっていました。一年生の頃にも兆候は見えていましたが、まだ後輩だったため矢面に立つことはなかったようです。それが二年生になり、新体制の中で副部長に選ばれ、部内を動かす立場になってから……、明日は初心者組をかばう立場になり、そのことで経験者との仲がこじれたようです。無視や、嫌がらせを受けていると」
校長は何も言わず、メモを取っている。
「物を隠されたこともある、とあったが……、その後は?」
「いじめ案件として、生徒指導担当と、顧問の鷺坂先生へ報告しました」
部屋の視線が鷺坂先生へ集まる。
鷺坂先生は姿勢を正した。
「報告を受けた翌日に部員全員を集め、指導しました」
「どのような内容だった」
「初心者も経験者も関係なく、一つの部として活動するよう厳しく注意しました。できなければ、廃部だと。かなり強く言ったつもりです」
教頭が怪訝そうな顔をする。
「待ってください、待ってください。記録の中では簡略化されていましたが、これ……。事実確認はどう進めました? 経験者は嫌がらせをしていたことを認めたのですか?」
鷺坂先生の表情がひきつり、
「……あの子たちは認めませんでした。ですから、一般論として――」
呻くようにして続けた。
「競争の中では衝突も起きる。しかし競技に携わる者として上位者も下位者も、軋轢を乗り越えてもらわなければ困る、と全体に指導しました」
俺は鷺坂先生を見る。彼はこちらと目を合わせようとしなかった。
「その後の確認は」
少しだけ間が空き、
「……私の見る限りでは問題ありませんでした」
と、鷺坂先生が返す。
校長は顔を上げなかった。
「小鍛冶先生」
「はい」
校長は手元の記録から顔を上げずに続けた。
「明日さんとは、この件に関してその後も話したことが?」
「教育相談以降は……、ありません。いつもはクラスのことばっかりで。友人にも囲まれ、明るい態度も見せていましたから……」
答えながら、自分の声が遠く聞こえた。
鷺坂先生の話ではっきりと分かったことがある。
問題は解決していなかった。ただ地下に潜っただけだ。巧妙に隠された形で、ずっと大耀の心を蝕んでいたのだ。
俺はその後のこの件について、声はかけていた。
だが、大耀は「大丈夫」というばかりで――。
俺は彼の「大丈夫」という言葉を軽く見過ぎていたのかもしれない。
もし、もう一度だけ声を掛けていたら。いや、部活動の様子を直接見に行っていたら。
そんな「もし」が頭の中を何度も巡る。
しかし校長は感情を挟まない。
「分かった」
その一言だけだった。
「ここまで確認できた事実を教育委員会へ報告する」
校長室を出た時には、もう昼を回っていた。
部活の締めの挨拶をやっていないことに今更気づく。いつもなら、職員会議の最中にだって気になっていたのに。いつも来るはずの先生が来ない。何かが起きたと、勘づく生徒たちもいることだろう。
放課後には、学校へ向かう記者の姿が確認されたという連絡が入っていた。
そして翌朝――。
校門の前には、テレビカメラが並んでいた。
その日の夜、校長と教育長が頭を下げる映像が全国へ流れる。
『いじめ相談後も対応せず』
テロップにはそう書かれていた。
N県御伽市立玉手中学校。越境入学を希望する保護者が絶えなかった俺の勤務校は、その日を境に、別の名前で語られる学校になった。
そして、二か月後。
校長は俺を校長室へ呼び、しばらく黙って人事案を見つめていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「小鍛冶先生。来年度から学年を外れてもらいたい」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「部活動は……、剣道部を頼む」




