序章 言えなかった一言
カチャカチャ、と竹刀がぶつかり合う音が冬の道場に響く。
寒さでかじかむ手。白く漂う吐息。そんな空気を裂くように、
「いやあぁぁぁぁっ!」
裂帛の気合いと共に、教え子が俺の竹刀を払い、半歩踏み込んできた。鋭い入り身だ。
今年の夏に竹刀を握ったばかりなのに、真綿が水を吸うように剣道の足さばきを身につけていく。
三国志演義曰く「男子、三日会わざれば」ってやつだな。
……いや、目の前の相手は女子中学生なんだけど。
相手の攻めに乗っかりながら、中心を取り返すために竹刀を押し返す。
すると成長著しい教え子は、そのまま俺の竹刀を潜り抜け、
「おこてぇぇぇぇぇっ!」
鋭い小手を打ち込んできた。
――だよね。読めていた。
素直で、それだけに読みやすい小手をすり上げ、体勢の低くなった相手の面へ竹刀を振り下ろす。
「メン!」
乾いた打突音が響く。
「あぁぁぁぁぁぁっ! また負けた!」
教え子は竹刀を握ったまま地団駄を踏み、全身で悔しさを表現する。
「礼儀」
上座から静かに、それでいて逆らうことを許さない声が飛んだ。
教え子の身体がぴたりと止まる。
「……ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
互いに納め刀から礼を終えると、次の教え子が待ってましたとばかりに前へ出る。
「先生、よろしくお願いします! 次こそは満点の剣道を目指します!」
「おう、来い」
きびきびとした二人目。ポニーテールが面から飛び出ている。
「お、お願いします……」
物静かな三人目。セミロングを稽古用に一つに結んでる。
今日のところは四人目は学習塾があるため、来ていない。
三人目の稽古を終えたところで、
「廉平さん、お電話ですよ」
上座から声がかかり、俺は竹刀を床に置く。
「少し休憩。面外していいぞ」
道場用のスマートフォンを受け取り、外へ出た。
冬の夜気が火照った身体に心地いい。藍染めの道着を指でつまみ、パタパタと空気を送り込む。見上げれば、透き通った夜空が見えていた。
「もしもし」
『先生』
聞き慣れた声だった。ツンツン頭のはにかむような笑顔が思い浮かぶ。
「……大耀か。ちゃんと寝てる?」
電話の相手は、俺にとって"元教え子"だった。
今日は少し調子が良さそうだ。
日が沈んでから家を出て、一人でコンビニまで買い物へ行けたらしい。
「それはすごいじゃないか!」
自然と声が弾む。
俺も負けじと、この一年で一番嬉しかった報告を返した。
「玉手中剣道部は、四人になったよ」
電話の向こうが静かになる。そして、
『四人? 皆、引退か退部したんじゃ……。あれから、誰が入ったの?』
驚きを隠せない声が返ってくる。
俺はそうした大耀の反応に対し、悪戯っぽくすぐに返そうとしたが、思いの外、言葉が詰まった。『あれから』という言葉にたくさんの思いが込められている。俺にとっても、大耀にとっても。
決して平穏ではなかった日々を思い返しながら、俺は嚙み締めるようにゆっくりと答えた。
「ああ、一年生の女子が三人。騒がしいのと、几帳面なの、小心者。ここに三年生のお前を合わせて――」
そこで慌てて付け加える。
「……っと、もう一人。他校の女子生徒が道場へ稽古に来てる。私立に通っている子。だから、五人だな」
『え、他校も部員に含めていいんだ』
「まあ、俺も忘れそうになるけど、このご時世なあ」
大耀は矢継ぎ早に質問を投げてきた。
どんな子たちなのか、もっと詳しく。
剣道歴は。
ちゃんと続いているのか。
道場って、学校に他校の子までわざわざ通っているのか。
「みんな初心者だよ。いや、他校のだけ経験者だけど、学校じゃなくて俺の家の道場で稽古してる」
少しだけ間を置く。
あの日から、一度も口にできなかった言葉が喉元までせり上がってくる。
「俺も初心者スタートだけど、結構強くなったぞ。まあ、オッサンの冷や水だけどな」
笑いながら続けた。
「だからさ」
もう迷わない。
「いつでもおいで。一緒に剣道しよう。道場の方は、飯もあるぞ」
電話の向こうは少しだけ静かだった。
その沈黙を責める気にはなれない。
"いつでもおいで"。
去年の冬、どうしても口にできなかった一言だ。
その一言を言えるようになるまで、俺は一年かかった。




