第三話 先生、うちをここに入れてください
玉手の東の外れにある小鍛冶道場に近い河川敷から、御伽川を上流へ遡っていく先に大きな二本の煙突が見える。河東地区にある清掃工場のものだ。ちょうど往復で五キロになる位置に立っているため、早朝のロードワークでは折り返しの目印として重宝している。
今日から俺の日課に、小さな足音が三人分増えた。乃亜、麻倫、百花のものだ。少し前から加わっていたトモ、タケ、宝田、三雲の四人も合わせて、総勢八人で河川敷を走っている。
春先に比べ、随分と大所帯になったもんだなあ。
「すごいね、乃亜さんたち。俺の感覚だと中一の女子って、中々五キロとか走れないんだけど」
トモが感嘆の声をあげる。俺もそれには同感だった。
乃亜は長い前髪を揺らしながら走っている。隙間からのぞく表情は必死そのものだが、呼吸自体は静かなものだ。さらに、びっくりするほど姿勢がぶれていない。
百花は荒い呼吸を懸命に整えようとしているが、走り方自体はリズミカルで、一歩ごとの間隔がきっちりと揃っている。意識して、彼女の知る理想的な走り方を心掛けているに違いない。
麻倫はといえば、疲れてすらいなかった。ロードワーク中、興味の向いたものを見つけてはペースを上げて、観察に行く。速度自体も、本来彼女が出せる全力からかなり落としているのだろう。表情にはだいぶ余裕が見えていた。
「麻倫ちゃんに至ってはソウマより走れるんじゃね?」
「うっせ……! 走ってる最中に喋らせんな!」
タケが三雲をからかい、三雲がそれに噛みつく。横で走る宝田が目を細めて笑みを浮かべていた。
麻倫はタケに褒められたのを聞くと、くるりと振り返り、バック走をしながら答える。
「私、サッカーやってたから。五キロなんて大した距離じゃないよ!」
その言葉に、隣を走る百花が目を見開いて絶句する。
一方のタケは、納得したように頷いた。
「あー、それで足がそんなに軽やかなんだ」
「剣道で覚えたこともたくさんあるよ!」
「ほうほう、例えば?」
麻倫がにやりと笑う。
「たいさばき! 相手がまっすぐ突っ込んできたら、ぶつからないで、横にすっと入れ替わるんだ。前に剣道部にいた奴に私もやられたんだけど、もう私だってできるもんね!」
言って、麻倫がまるでカンフー映画のように「来い、来い」とタケにアピールする。タケはいたずら小僧の顔つきになり、麻倫に向かって大袈裟に突進した。
麻倫はそれを軽やかに受け流す。さながら闘牛士だ。
「お? お? すげえな、これ」
「でしょ!」
「怪我すんなよ、二人とも」
大人の立場から一応注意はしておく。
「でも、これ。テニスでもスタンスを早く変える時にやってる気がするな……。俺、もしかして武道の才能あったのか?」
「――というより、運動に共通するステップなんでしょ。何なら、この前の強化合宿でも、スタンスチェンジは滑る練習と同じくらいやりましたし」
顎に手を当て、走りながら考え始めるタケに対し、フォームを崩さずに宝田が言う。
「そうだった! 何かやたらと今までにない練習を盛り込んでいたよな。って、もしかして……」
タケにジトっとした目で見られ、俺は「バレたか」と目をそらした。
「……この前の練習、剣道のテクニックが入ってたんだ。やっぱり鍛冶Tはすごいな」
素直に目を輝かせるトモの眩しさに耐えかねて、俺は走る速度を上げる。その横に、宝田は遅れずについてきた。
「朝倉と揉めたの、あの子だったんですね。グループチャットで、アイツ大荒れでしたよ。うちらの場所を小鍛冶先生が好き放題にしてるって」
「エイトも仲良いのか」
俺の問いに、宝田は頭を横に振る。
「別に特には。クラスのグループに入ってるだけです。まあ、運動できる奴ってクラスでは目立つから。俺ほどじゃないですけど」
自信家な答えに、俺は思わず苦笑する。宝田は構わずに続けた。
「朝倉、だいぶ練習しているみたいですよ。SNSのストーリーも剣道一色って感じで。本気で県を狙ってる気がします」
「そっか」
宝田の話の向こうに、夏前に俺が犯した罪の一つが透けて見えた。
三人娘と、鬼塚や紗良たちでは事情も特性も何もかもが違う。だが、もう少し何とかなったのではないかという思いは、いつまで経ってもかさぶたのようにこびりついている。
沈む心を引っ張り上げたのは、麻倫の闘志に溢れた声だった。
「アイツも本気でやってるんだ! じゃあ、早く追いつかなきゃ!」
拳を手のひらにパンと当て、彼女は雄たけびをあげながら、全力疾走を始める。何故か一緒にテンションの上がったタケも速度を上げ、一行は全員がそれに引っ張られた。期せずして、中間地点までのスパートが始まる。二本の煙突まで辿り着いた時には、百花と三雲が魂の抜けた表情を浮かべていた。
◇
今まで、三人娘に付き合う形で剣道の稽古に参加してきたが、ここまで億劫な気持ちになったのは初めてだった。
「午後からは先日と同様、切り返しの稽古を行います。良いですね?」
三人娘の、やや覚悟の入った「ハイ」に頷きながら、母はじろりと俺を見る。
切り返し。
相手の正面を打ち、体当たりで押し込んでから、面の左右を狙って交互に、斜めに延々と打ち込んでは切り返す稽古である。基本的には少しの息継ぎの後、一息で打突九本分の気声を発し続けるのだが、これが拷問かというくらいに辛い。
これまでの母に打ち込み続ける稽古は、まだ息を整える暇があった。姿勢を整え直すゆとりがあった。だが、切り返しはまるで短距離の全力疾走を長距離で行っているかのような理不尽感がある。これが剣道の普通なら、よく世の中の剣道家は剣道嫌いになっていないものだと疑問に思うほどだ。
「イヤァァァァァ、メェェェン! メェェェェェェェェェエエエエエエッ!」
今日の切り返しからは、ついに俺と三人娘も、互いの打ち込み相手として元立ちに立つことになった。
相手の正面打ちを面で受け、続く左右面を竹刀で受け、全力でぶつかってくる体当たりを受け止める。足を作っておかないと、子ども相手でも吹き飛ばされそうだ。
母もそれを警戒してか、三人娘は面下にあてる手ぬぐいの枚数を増やされている。後ろに倒れた時の受け身の取り方までも教わった。要するに、相手を吹き飛ばすつもりでぶつかりに行けということだ。
まるで相撲部屋のように俺たちは互いにぶつかり、受け止め、息の続く限り、大きく竹刀を振りかぶる。
「メェェェェェェェン! オァァァァァ、オメェェェェエエン!」
竹刀と竹刀がぶつかり合い、右足の踏み込みと相まって、激しい音が道場内に轟く。
少しの手抜きも許されない。声が小さい、竹刀の振りかぶり方が小さい、打ち切っていない、打ち終わった後に残心をとっていない、一つでも母の考える基準に達しなければ、やり直しだ。
打突の数にして、千本。
正気か。
「アアアアァァァァァァ、ウァァァァァァアア!」
よく剣道をやったことのない人間が剣道を真似する時に、叫び声を茶化すことがあるが、今同じことをされたら怒鳴りつけてしまいそうだ。
酸欠の中、ひたすら声を出せと言われたら、自然と言葉にならない叫びになってしまう。
最初に母と、次に乃亜、麻倫、百花……、俺たちは反時計回りに延々と向き合う相手を替えながら、切り返しを続ける。救いは四回終わった後にやってくる、一回分の休憩だけだ。これ、人数が偶数の時はどうするんだ? 無休でやるのか? 冗談だろ。
そうして、俺たちが無間地獄の中をあえぎ続ける最中、道場の木戸がガラリと開く音が聞こえた。
叫び声が途切れ、五人の竹刀がぴたりと止まる。
「あー、えっと。し、失礼しますぅ?」
入り口には乃亜たちと同じ年頃の少女が、もじもじとしながら立っていた。
丁寧に編まれた三つ編みを垂らし、ハーフフレームの眼鏡を鼻の上でずっこけさせている。控えめな花柄をあしらった、楚々としたワンピースを着た少女だ。
はて、と俺は首を傾げる。
うちの学校で見かけたことのない顔だったからだ。だとすると、河東の中学生だろうか。あの辺りだと、御伽市立第四中学校の学区だと思うが……。
「あなたは?」
母が俺たちに小休止を伝え、面を取って少女に向き合う。
少女は母を一目見るなり、目を丸くしながら呟いた。
「うっわ、着装めっちゃ綺麗やん……」
その言葉にぴくりと母は反応する。剣道具の着装は普段から母が意識しろと口を酸っぱくして言っているポイントだ。その点に気がつくということは……。
「お名前を伺っても?」
「あ、すいません。自己紹介が遅れました。はじめまして! 小野田叶陽、言います!」
言って、叶陽と名乗った少女は頭を下げる。ただし、頭の下げ方は十五度を保っていた。
「あ、あの、ここって剣道場ですよね?」
「ええ、もう看板は閉じた道場ですが……」
母の受け答えに、叶陽は形の良い眉を寄せて、首を傾げる。
「え、でも、めっちゃやってはりますよね? うちと同い年くらいの子たちも……」
ひょいと彼女が見る先には、正座をして息を整えている三人娘がいた。
母は困ったように手を頬に当てる。
「少し事情があって……」
「あの、ちょっと道場の見学させてもろてもええですか! お願いします!」
ぐいぐいと来る彼女の姿勢に、古武士のような母もたじたじになっていた。
母の目が俺に助けを求めている。俺は肩をすくめながら、言った。
「……母さんの道場なんだから、母さんのしたいようにすればいいよ。別に、ここは玉手の部活じゃないんだし」
元々ここの道場主だったのだから、剣道を教えること自体が嫌いなはずもない。時勢が存続を許さなかっただけだ。
だったら、後は母の胸先三寸ということになる。
母はしばし悩んだ後、控えめに返した。
「そう。なら、見学だけなら……」
「ほんまですか!? うっわ、めっちゃ嬉しい! すぐ竹刀袋と防具袋取ってきます!」
言うが早いか、叶陽は道場の外に飛び出していった。木戸から覗くと、敷地の外の道路に停まっているヨーロッパ製のSUVから、何やらいかつい防具袋を引っ張り出している。って、とんでもなく高そうな車だな……。
運転席では、母親らしき女性がこちらに向かって、申し訳なさそうに小さく会釈していた。
やがて、母親を連れた叶陽が防具袋のキャスターをガラガラと鳴らしながら、道場の入口へと戻ってきた。
「失礼します! 出稽古、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
見学では……? とツッコめる空気ではなかった。
目を輝かせる娘の隣で、ウェーブのかかった長い髪を揺らしながら、ふんわりとした母親がオホホと誤魔化すように笑っている。
「うちの娘がすいません……。この子、先走ってしまうところがあって」
「いえ、構いませんが……」
叶陽の母親は母にぺこりと頭を下げ、事情を説明し始めた。
「実はこちらに越してきたばかりで、娘の習い事先を探し回っていたんです。先程見学に行った道場は合わへんかったみたいで……。あ、駐車場に車を停めさせていただいても?」
「ええ、構いません。廉平さん、停める場所の案内をお願いできますか?」
「んん……?」
廉平、の一言で、彼女の柔らかな微笑みが凍りついた。
「廉平……、小鍛冶廉平……」
口元に手を当てたまま、彼女はまじまじと俺を見つめてくる。
な、何でだ……?
「まさか、ほんまに小鍛冶廉平さん? 日焼けしてはらへんけど、間違いあらへんわ!」
「ママ、この人のこと知っとるん?」
「なんで知らへんの! 小鍛冶選手やん!」
彼女は娘に向き直り、さも常識だとばかりに熱弁を振るう。
そのあまりの勢いに、叶陽は納得したように腕を組み、大きく頷いた。
「ははん、有名な選手やったんか。それなら、道場持ってて納得や」
「ちゃいます。ママの青春時代の憧れの選手。ソフトテニスの――」
「剣道ちゃうんかい! そんなん知るわけないやろ!」
娘の見事なツッコミにもめげず、彼女は頬に手を当てて、うっとりと俺を見上げる。
「嘘やん、小鍛冶選手にほぼパーソナルみたいな環境で教わるとか、一体いくらお布施出せばええねん」
いや、教えているのは母なんだが。そう訂正する隙もない。
くすり、と小さな笑い声がした。振り返ると、母が口元を手で隠している。
「お茶出しますね。お母さんのお名前も聞かせてください」
「あ、美海ですー。美しい海と書いて!」
上座へ美海さんを案内する母の足取りは、何故か軽い。横顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
そういえば、俺や親父のことを誰かが褒めてくれた時も、母はこんなふうに笑っていたな。もう随分と昔の話だけれど。
◇
美海さんの車を敷地の奥へ誘導してから道場へ戻ると、叶陽はすでに着替えを終えていた。
袴の折り目以外、一筋の皺も許さない着装だ。
新たな仲間になるかもしれない少女の登場に、三人娘は興味津々といった様子だった。百花は着装を見て、こっそり自分の袴の裾を直しているし、引っ込み思案の乃亜ですら、ちらちらと叶陽を盗み見ている。
麻倫は叶陽の持つ竹刀をまじまじと見ていた。自分の竹刀の鍔に、無意識に指を添えながら。
「えっと、カヤちゃ? 私、麻倫」
「ん? これはご丁寧に。どしたん、まろんちゃん?」
「その竹刀。色が綺麗じゃない?」
隣に距離を詰めながら、そんなことを言う。気になって、俺も覗いてみたが、違いが全く分からない。
だが、叶陽は我が意を得たりとばかりに鼻息を荒くして、麻倫の目の前に竹刀を持ち上げた。
「そか、分かる人やったか! 数打ちの桂竹と違って、真竹のオーダーメイドや。柄は小判型で、形状は古刀型。木刀に近い感覚で振れるで。胴張りなんちゅう、棒振り専用竹刀とはちゃうねん!」
言っていることは欠片も理解できなかったが、とんでもない高級品だということだけは分かった。
「まろんちゃんも、いかつい鍔つけてはるなあ。竹刀の形もええやん」
「鍔は静先生にもらった宝物だよ! 竹刀も先生に選んでもらった!」
「なるほどぉ、道理で」
叶陽は他の二人の竹刀を見ながら、笑みを深めていく。
「うちの勘、当たっとったわ。稽古、楽しそうやん」
パンと手ぬぐいを広げると、彼女はその端を口に咥え、器用に頭へ巻き始めた。俺たちの知らない、面下のつけ方だ。母だけが、ほう、と小さく目を細めている。
そうして瞬く間に面をつけ終えると、面をつけ直した母の元へと駆け寄り、「お願いします」と座礼した。
稽古が再開される。
母は少し考えた後、切り返しは俺と三人娘の四人でまわしておくように指示してきた。叶陽はとりあえず、見極めも兼ねて母とマンツーマンでの稽古になる。
――ここで俺は、重要なことに気がついた。
母が抜けて、残りは四人。偶数だ。
つまり……、休みがなくなったということだ。
「イヤァァァァァァァァァアアアア!」
「オァァァァァァァァァァァ!」
俺たちは頑張った。ただひたすらに目標の千本を目指して、体力の続く限り竹刀を振り下ろす。
何度も倒れ込みそうになった。だが、これまでの母との稽古で前のめりに倒れてきた数え切れない回数が、つっかえ棒のように俺たちの身体を支えた。
「ウワァァァァ、オメェェェェン!」
ようやく千本をやり終え、俺たちはその場に座り込む。
その視線の先では、叶陽がまだ延々と母に向かって打ち込み続けていた。
「サー、サイサイサイサイサイ!」
彼女は切り返しを終え、俺たちが午前中にやっていた、母相手の打ち込み稽古に入っている。打突が甘ければ打ち返され、姿勢が崩れていれば容赦なく突き飛ばされる。地獄のような稽古だ。
傍から見ていても、母の構えは巌のように揺るがない。あれで、大の男である俺を体当たりで突き飛ばすのだ。一体どういう体のつくりをしているんだろう。
「ダァァァ、オコティ、コティ、オメン!」
そんな母に対して、叶陽は臆することなく、鋭い打突を浴びせ続けている。軽快な足さばきで瞬時に体を入れ替え、様々な角度からメン、コテ、左右のドウ、コテメンと打ち分ける。そのどれもが、残心を忘れていない。
一目で分かった。彼女はとんでもない上級者だ。
上座で湯呑に口をつける美海さんが、誇らしげに微笑んでいた。
「では、一本勝負で」
「ハイ、お願いします……!」
あらかた技を出し切ったところで、母が一本勝負を申し出た。これは俺たちの経験したことのない稽古だ。
叶陽と母は剣先をぶつけ合いながら、互いに踏み込めば打突の届く、一足一刀と呼ばれる間合いまで詰めていく。そして、やがて同時に仕掛けた。
「メン」
母の竹刀が真っ直ぐに振り下ろされる。同じく振り下ろされたはずの叶陽の竹刀は、まるで自ら避けたかのように逸れていき、叶陽の面だけが乾いた音を立てた。
まさかの一本で勝負が決まったことに、俺たちは驚きを隠せない。
「すっご」
麻倫が食い入るように二人を見ながら呟いている。百花は無言だったが、面金の奥の表情はどこか口惜しげだった。乃亜は、まるで教室で教科書を読んでいる時のような静けさで、二人をじっと見つめている。
「……不思議。すごく綺麗なメン」
そう呟く乃亜の膝の上で、指先が小さく竹刀を振り下ろす形をなぞっていた。
◇
「あーん。あかん、先生めっちゃすごい! うち、ここの道場の子になるわ!」
全員で竹刀を収め、面を外して休憩に入ると、飛び入り参加をしていた叶陽がきゃいきゃいと騒ぎ出す。
「静先生って、やっぱりすごいの?」
「すごいなんてもんやない! 最後の、古流の技やで。よう知らんけど!」
麻倫の問いに、叶陽は口から泡を飛ばしながら解説する。
「あぁ……、棒振り道場ばっかかと絶望してたとこにパラダイスの発見や……。久方ぶりの古流ニウムの摂取で満足やわぁ」
「こりゅうにうむ……?」
「気にせんといてー」
首を傾げる百花に対して、手をひらひらとさせて返す叶陽。この子、見た目よりずっとフランクだし、何というか……、あれだな。上手く形容する言葉が出てこない。
「そういえば、まだ聞いていませんでしたね。なぜ、この道場に来たのですか?」
手ぬぐいで汗を拭きながら、母が尋ねる。
叶陽は居住まいを正して、しっかりと答えた。
「うち、西の方から越してきたんです。けど、通うことになった学校に剣道部がなくて。近くの道場探してたんですわ」
「どこに通うことになったんだ?」
「明爽学園です。若先生」
この子にまで若先生と呼ばれるのかよと思いつつ、内心で舌を巻く。百花も露骨に反応した。
明爽学園は、この辺りでは名の知れた中高一貫校だ。通知表がオール五の生徒ですら、必死に勉強してようやく合格できる。そういう学校だといえば分かりやすいだろう。
ただ、あそこは……。
「明爽には、剣道部がありませんでしたか? 知り合いの先生もいらしたと思うのですが……」
そう、母の言うとおり、明爽には長い歴史を持つ剣道部があった。いわゆる古豪と呼ばれる立ち位置で、学力と剣道の両方を求める生徒が受験していたことを覚えている。
母の言葉を聞いた叶陽は大袈裟に頷いた後、よよよと泣き真似をした。
「うちもそう思ってたんですが、剣道雑誌にも載ってた名物先生が、定年で退職しはったんです。で、今は後任がおらへんくて。一応、お弟子さんが教員として戻ってくる、いう話もあるらしいですけど」
「あー」
顧問目当てで学校を選ぶと、稀に起こる話だ。特にサッカーや野球のような、保護者が熱心な部活動ほど多い。そして大抵の場合、後任を誰にするかで揉める。
思えば、俺が玉手の剣道部を引き継いだ時にも同じことがあった。
「せやから、外で剣道の稽古して、大会の時だけ学園の名前を貸してもらおうかと。学校のセンセも負担ないし、ウィンウィンやと思ったんですけどね」
「なかなか良い道場が見つからなかった、と」
俺の相槌に、叶陽はちっちっと人差し指を振った。
「見つからんかったんやなくて、合わんかったんですわ。今日も見学させてもろたんですけど、門下生が打突の後に、パシンと竹刀を床に叩きつけはって。試合稽古なんか、打った後に竹刀を高々と掲げて、審判にアピールや。うぇーい、どや、どやって」
ぴくり、と母の眉がわずかに動いた。
「極めつけは、一本取った後にぶんぶん竹刀振り回して大喜びや。もう興ざめですわ。あんな棒振り道場には入れません」
ぷりぷりと頬を膨らませる叶陽に、麻倫が身を乗り出した。
「どこの道場?」
「何やったっけ。剣清館やったかな」
強豪じゃねえか。
首をひねってみせる叶陽の顔は、どう見ても名前を覚えている顔だった。
さっき出てこなかった言葉が、はっきりと浮かんでくる。
この子、良い性格をしている。
「せやから先生、うちをここに入れてください! 後生や!」
叶陽は上座の畳の縁まで膝を滑らせると、そこに額をこすりつけんばかりの勢いで頭を下げた。
母は湯呑を置き、少しだけ間を置いてから、静かに言った。
「うちは古く、小さい道場ですから、合わないと思ったらいつでもやめて結構です。とりあえず……、通う時間帯のご相談から、お母様を交えて話しましょうか」
「うっしゃ!」
喜色にまみれた叶陽の声が、道場内に反響した。




