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満天の剣道場~先生、剣道を教えてください~  作者: 三郎
第4章 恩赦:一年かかった
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第四話 別世界に住んでいるような人

「何やそれ、丸一日剣道三昧とかずるない!?」

 道場に響いた叶陽の声は、ほとんど悲鳴だった。両手で頬を挟んだその顔は、どこかの有名画家が描いた『叫び』そのものだ。

 事の発端は、通い方の相談だった。

 午後の稽古を終え、上座で美海さんを交えて話を始めたところで、叶陽が首を傾げたのだ。

「どういうこと? あ、いや……、稽古の時間って、決まってへんのですか? 普通、この時間に来てくださいとか、決まってるもんやと思うてたんですけど」

 そこで母が、三人娘の今の状況を説明した。夏休みの間、三人はこの道場で朝昼晩と食事まで済ませている、内弟子のような形で通っていること。朝のロードワークから夕方の稽古まで、文字通り剣道漬けの毎日を送っていること。

 それを聞いた叶陽の第一声が、さっきの叫びである。

「ええなあ、ええなあ……。めっちゃええやん……! でも、そうか――」

 両腕をぶんぶん振って、ひとしきり羨ましがった後、叶陽はふと真顔になった。その視線が、上座の端でスポーツドリンクを飲みながら、扇風機の風が当たる位置でくつろいでいる三人娘を、順番になぞっていく。

「三人とも、始めてから一か月足らずってことか」

「何か引っかかるのか?」

 俺が尋ねると、叶陽は腕を組んで唸った。

「いや、さっきの稽古中にちらっと見とって、三人の練度がちぐはぐやなと思っとったんです。あ、誤解せんでほしいんやけど、ビックリする程うまいんやで。うまいんやけど……、引き出しがないっちゅうかな」

「引き出し?」

 麻倫がきょとんと聞き返す。

「三人の打ちはな、気剣体が一致して、残心まで含めてめっちゃ綺麗なんよ。普通、ここまでしっかり打てとる子らは、剣道歴もそこそこあるから、技の引き出しが多いはずなんや。せやのに、仕(・)掛(・)け(・)技(・)も応(・)じ(・)技(・)もなしやろ。それに打ちも大きい。不自然極まりないで」

 言葉だけ聞けばダメ出しだが、叶陽の声色はむしろ感心しているようだった。

 彼女は口元に手を当てながら続ける。

「いや……、世辞抜きですごいことやと思う。たったの一か月でそこまで打てるんは、異常や。普(・)通(・)の(・)道(・)場(・)でこんなんおったら、注目の的やで。原石や! って」

 その言葉に、三人娘がちゃぶ台の方へと身を乗り出してきた。

「じゃあ、私たちって、成長速いんだ!」

 麻倫が目を輝かせ、隣の百花がほっと胸をなでおろす。

 しかし、叶陽の表情は渋いものだった。

「速いと思うで。それは間違いない。ただ、うーん……」

「……何?」

 言い淀む叶陽を、乃亜が前髪の隙間からじっと見上げた。

「前置きで言うんやけど、三人の剣道、うちは好きやで。まだちょっとしか見とらんけどな。ただ……、初心者同士の大会ならともかく、新人戦みたいな経験者がごろごろ出てくる大会やと、多分勝たれへんと思う」

「でしょうね」

 あっさりと頷いたのは、母だった。

 三人娘が揃って目を丸くする横で、俺はやっぱりかと一人納得する。

 数か月前まで部活で見ていた連中の剣道と、この道場で教わっている剣道は、似ているようで、まるで別物だ。

 例えば、打ちの大きさ。部活の連中の打ちは、もっと小さく、刺すように鋭かった。

 足さばきもかなり違う。部活で見ていたのは陸上のスプリントを思わせる、跳ねるような足さばきで、方向転換を繰り返しては、試合場を縦横無尽に動き回っていた。

 どちらが正しいのか、剣道を始めたての俺には分からない。ただ、試合で勝つための剣道は、きっとあちらの方なのだろう。彼らが町道場の高段者を古臭いとけなしていたのも、そう信じていたからに違いない。

 理念と実用。剣道の中には、その二つを隔てる断絶のようなものがあるのかもしれない。

「静先生、私たち……、このままで大丈夫なんですか?」

 不安げな百花の声に、残る二人も母を見る。

 母は湯呑を置き、三人を順番に見つめた。

「大丈夫です。今のやり方を続けます。新しいことは、私が必要だと思った時に教えます」

 落ち着いていて、揺るぎのない声だった。三人娘の肩から、すっと力が抜けていく。

「まあ、うちとしては今日見せてもろた稽古を続けてもらいたいから、大助かりやけど」

 叶陽がにっと笑って、話を戻した。

「で、曜日の話。ほんまは毎日でも通いたいとこなんやけど、塾があんねん。通えて週四かなあ」

「塾……。叶陽ちゃん、すごく期(・)待(・)されてるんだね」

 ぽつりと百花が呟く。その声に、ほんの少しだけ憧れのような色が混じっているのを、俺は聞き逃さなかった。

 『要対協』にケース登録されてから一か月。百花をめぐる状況は、まだ好転したとは言い難い。

 食事に関しては、月あたり一万円を持たせてもらっているらしい。倒れる前は、生活費全般を月五千円でやりくりしていたそうだから、そこは改善されている。

 とはいえ、親子の会話が増えたわけではなく、金銭以外のサポートは皆無。予断を許さない状態が続いている。

 そんな彼女にとって、『塾に通わせてもらっている』というのは、期待されていた小学校時代を思い出させる、一種のステータスのようなものなのだろう。

 ところが、叶陽の返事は、百花の想像とはまるで違っていた。

「ちゃうちゃう、逆(・)や(・)。期待されてへんから、借(・)金(・)して通ってる」

「しゃ、借金……?」

 叶陽は、何でもないといった風に顔の前でひらひらと手を振った。

「うちのパパ、成り上がりでな。ママとは家の都合でくっついたんやけど――」

 俺たちはぎょっとする。だいぶセンシティブな話題を出してきたからだ。

「そうそう。うちら、お互い好きにやらせてもろてるから、楽でええんよ。勿論、仲だって悪ないで?」

 俺たちの動揺など気にすることもなく、湯呑を片手に、美海さんがおっとりと相槌を打つ。娘の暴露にも、まるで天気の話でもされたような顔だ。

「で、パパは子どもに資産は残さん言うとんねん。生活費だって最低限。自分で稼いだ金は自分のもんや、っちゅうて。あ、剣道だけは別やで。ママの実家が古い家でな、伝統的な習い事は必ずやれ言われとって、お金も向こう持ちやねん。せやから、うちもパパに言うたったんです。ほんなら塾代は利子付きで貸して、働いて返すから、って。育ててもろた分は、初任給でたっかい時計買うたって、それで仕舞いや、って。そしたらパパ、笑っとったわ。期(・)待(・)な(・)ん(・)て(・)せ(・)ん(・)が、借りた金は返せ、って」

 あっけらかんと語る叶陽の横で、美海さんまでころころと笑っている。

 百花は笑わなかった。

 何か言いかけた口を閉じ、膝の上で手を握りしめたまま、まるで知らない国の言葉を聞いたような顔で、叶陽を見つめている。

 百花の事情を知る俺には、その沈黙の意味が、分かる気がする。

 俺が子どもの頃、親から受けていたサポートはどんなものがあっただろうか。

 勉強は親父に教わった。テニスも、家の空き地で手のひらを使ったラリーから根気強く付き合ってもらった記憶がある。大会があれば、母が必ず弁当を持って応援に来た。口惜しい敗北を喫した日には親父から忖度の無いアドバイスをもらって、ぼろくそにされたことなんかも良い思い出だ。

 親から受けた様々な恩が、俺の今を形作っている。

 それは麻倫や乃亜とて一緒だろう。

 では、百花は?

 親から与えられるものが途絶えてしまった百花にとって、叶陽は初めて出会う種類の人間だった。

 愛情がないとは思わない。だが、親との関係にまでビジネスライクな理屈を持ち込む人間を見て、百花は何を思うのか。

 母が、空になった美海さんの湯呑に、黙ってお茶を注ぎ足した。

「では、週に四日。曜日は、塾の予定を伺ってから決めましょう」

 それで、その話はおしまいになった。

 条件を詰めた小野田親子は、「今日はほんまありがとうございました、また明日来ますよって」と、足取り軽く帰っていく。

 その後、一日の稽古を終えた三人娘と俺と母は、ちゃぶ台を囲んでいた。保護者の用意してくれた夕飯を平らげながら、話題はもっぱら叶陽のことだ。

「嵐みたいな子だったなあ」

 俺の感想に、乃亜がこくりと頷く。

「……声、大きかったです」

 予想の斜め上の返しに、俺はずっこける。確かに、普段の会話からして勢いがすごかった。

「剣道もすごかった! 早くあんなふうにバッシンバッシン打てるようになりたい!」

 箸を竹刀に見立てて、先ほど叶陽が見せた動きを再現しようとする麻倫だったが、すぐさま麻子さんと母に「行儀が悪い」と注意される。もちろん、そんな言葉でうずく身体を抑えられるはずもなく、胡坐をかいた両足はずっとパタパタと動いていた。

「百花は?」

 無言でアジフライに齧りついていた百花に俺が問うと、彼女は箸を置いて静かに答える。

「……すごい人、でした」

「すごい、かあ」

 どういうところが、という部分までは出てこない。百花はしばらく言葉を探すように視線をさまよわせてから、ぽつりと続けた。

「ただ……、満点を目指すなら、負けていられないとは思いました」

「そっか。できる限りのサポートはするよ。ひいきにならない程度にね」

 隣で、母も小さく笑みを浮かべている。

 食事を終え、俺は腰を上げた。

「ちょっと外に出てくる」

「えー? 先生、何か用事?」

 麻倫が首を傾げる。

「そう、大切な用事」

 道場の木戸から外へ出て、携帯を取り出した。

 週に一度、俺は大耀の家に電話をかける。事件の後から続けている、俺の習慣だ。

「……すみません、先生。今日もちょっと」

 電話口で、大耀のお母さんが申し訳なさそうに声を落とす。その向こうにいるはずの大耀の声を、俺はまだ一度も聞けていない。

「いえ。大耀さんの様子はどうですか?」

「勉強は続けているようですが、まだ家からは出られなくて――」

 それ以上を尋ねるのは、ためらわれた。

「では、学習に必要なプリント類は、また後日お届けします。失礼いたします」

 通話を切ると、道場の方から三人娘と保護者たちの団欒の声が聞こえてくる。

 話したいことは、たくさんあるんだけどな。

 一番話したい相手に、まだ何も話せずじまいだ。


◇

八月十七日 今日の目標 メンを打った後の姿勢を改善する

達成度 六十点

今日のメニュー

・ロードワーク 五キロ。

 まろんちゃんが途中から全力疾走したので、ついていくのが大変だった。次は最後までフォームを崩さない。

・切り返し 千本。

 初めて元立ちをやった。体当たりを受ける時は、足を作っておくこと。左足はいつも以上に後ろにおいて、前からの衝撃に備える。

 今日はまろんちゃんの体当たりで後ろに転んでしまった。次は転ばない。

・小野田叶陽ちゃんが入門した。明爽学園の一年生。すごく上手。

・叶陽ちゃんに言われたこと。

 私たちには「引き出し」がない。打ちが大きい。

 新人戦みたいな大会ではたぶん勝てない。

・静先生に言われたこと。

今のままでいい。私は先生を信じる。

・叶陽ちゃんのお父さんは、高い時計で全部おしまいにするらしい。

 前に会った理久君もそうだけど、中学生になってから会う人の中には、まるで別世界に住んでいるような人がいて、驚く。

満点にするための次の目標。

体当たりで負けないようにする。

誰よりも諦めない人が一番偉いって信じ続ける。

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