第二話 前に飛び出す夏
開けられた窓から流れ込んでくる緑の匂いが、御伽市よりもだいぶ濃い。
県内の合宿所へ向かうバスの車内で、オレは背もたれを倒しながら、満足感に震えていた。
今、バスのトランクに収まっているオレのボストンバッグの中では、内ポケットに潜ませた携帯ゲーム機が揺れているはずだ。神算鬼謀をフル活用して、母さんの荷物チェックを見事に潜り抜けてやったのである。今夜はゲーム三昧だな。
隣の座席では、オレの相方であるトモが爆睡している。昨日は楽しみ過ぎて一睡もできなかったらしい。全国への出場というオレたちの夢が叶ったんだもんな。涎を垂らしたこの寝顔を見れば、校内に山ほど存在しているファンはさぞかしびっくりするに違いない。こいつ、学校では王子様キャラだし。
それに……。オレはトモが楽しみにしている、もう一つの理由へと目を向けた。
鍛冶Tだ。今は他校の先生と何やら話し込んでいる。
そう、今回の強化合宿は久しぶりに鍛冶Tのコーチを受けることができるのだ。
鍛冶Tがオレたちの学年の授業から外れてしまったため、最近は早朝のロードワークでしか接する機会がないが、去年と比べてだいぶ印象が変わったなあと思う。
まず日焼けが薄くなった。去年まではこんがり焼けた小麦色だったのに、今は妙に白っぽい。屋内部活をやってるんだなあという感じ。
その代わり、前腕がいかつくなっている。さっきバッグを預ける時にチラッと手のひらが見えたんだけど、ドン引きするくらいにボロボロだった。何やったら、あんな手のひらになるんだろう。
何だかオレたちの先生じゃなくなったみたいで少し寂しく思えたけど、今日からの二日間は小鍛冶JAPANの復活だ。中学校生活の思い出作りも兼ねて、エンジョイさせてもらいますかね。
◇
そうして始まったソフトテニスの強化合宿は、今までの常識が崩れる驚きの連続だった。
「玉手中の小鍛冶です。今日から二日間、君たちのコーチをします。教えられることは全部教えるつもりなので、よろしくお願いします」
ずらりと並んだ全国出場校の選手たちを前に、鍛冶Tは軽く頭を下げた。トモのテンションマックスな「はい!」という返事がひと際大きく響き渡る。拍手はまばらだ。他校の連中の中には鍛冶Tを知らない奴らも多いからなあ。どこの誰だか知らないオッサンって扱いなんだろう。
だが、次の一言で、そのまばらな拍手すらぴたりと止んだ。
「まずはラケットを置いて、フットワークと姿勢の稽古……、じゃなかった。トレーニングをしようか」
へ、姿勢?
コートのあちこちで、選手たちが顔を見合わせる。全国大会を目前に控えた合宿の初日に、ラケットを置けと言われたのだ。オレだって耳を疑った。
それでも鍛冶Tは「今の君たちに必要なトレーニングをやるつもりだ」と言って聞かない。
どういうことだ? 姿勢が悪いとテニスに響くのか?
「まずは上体と重心が、前にも後ろにも行っていない姿勢を作ってみよう。小さくランジをして、ちょうど良い場所を自分なりに探してみて。その場でジャンプをしてみると分かりやすい」
言われるがまま、足を前後に開いて腰を落とす。前に乗りすぎればつんのめり、後ろに残せば踵に体重が乗る。その真ん中――、と言われてもなあ。何となくしか分からない。これでいいのか、ほんとに。
ひたすらに続けながら、頭の中に疑問が山ほど湧いてくる。
去年までの鍛冶Tの練習に、姿勢だけのトレーニングなんてあったか? なかったはずだ。しかも、これがまたしつこい。
「もうちょい膝を緩めて。そう。……で、今どこに体重乗ってる?」
一人一人の前で立ち止まっては、不十分な奴を徹底的に直していく。他校のエースだろうが、全国常連の部長だろうがお構いなしだ。
ようやく全員の姿勢が及第点に達した頃、鍛冶Tは次の指示を出した。
「次は、コート内で軽く走って、さっきの姿勢のまま滑って止まってみて。姿勢は絶対に崩さないこと」
デュースサイドからアドサイドへ。走っては滑り、止まっては走る。それをひたすら繰り返す。
ボールは、まだ一球も出てこない。いよいよもっておかしな事態だ。
「あの、先生。このトレーニングにはどういった意味が……?」
ついには耐えきれずに、他校の部長が鍛冶Tに疑問をぶつけた。皆から無言の同意が伝わってくる。
鍛冶Tは「ああ」と何かに気づいたかのように、手をポンと叩いた。
「いつでもパワーポジションで打てる形をつくるためだったんだが……、確かに説明不足だった。俺が試しに完成形をやってみるから、よく見ていて。すいません、球出しを両サイド際に深く浅く、最後に頭上を越える深いロブを下さい」
そこからあっという間に、疑念が驚愕へと塗り替えられていった。
サブコーチが出した際どいボールに、鍛冶Tは俊敏なフットワークで追いついて球を返す。さらにすぐに振り返っては逆サイドへ飛び出し、コート上を滑っていく。
滑っている間も、鍛冶Tの頭の高さはまるで変わらない。体勢が全く崩れていないことに、オレは遅れて気が付いた。
それを深く浅くと繰り返し、最後に頭上を越えていくロブに背中を見せて追いつき、股抜きショット。
まごうことなきスーパープレイだ。
え、待って。これをやれって言うの……?
「この合宿中、最初に身につけるのがこの足運び。股抜きはおまけだから、やらなくていいよ。できるようになるまで次には進まないからね」
マジかよ……。要求されるハードルが高すぎる!
げんなりするオレの隣で、相方だけがぴょんぴょんと跳ねながら、テンションを振り切らせていた。
結局、初日はフィギュアスケーターなのかよってくらい、ほとんどがコート上を滑る練習に費やされた。
もう足の裏がバッキバキだ。普段使っていない筋肉ばかり酷使して、生まれたての小鹿みたいになっている。
「何か鍛冶Tの教え方変わったよな」
「そう? 鍛冶Tは鍛冶Tだと思うけど」
晩御飯を食べている時、それとなくトモにオレの抱く違和感を打ち明けてみるも、納得のいく答えは返ってこなかった。くそっ、信者のこいつに聞いたのが間違いだったな。
その後、夜に隠れてゲームをやるスペースを探すために合宿所内を散策する。
外も良いんだけど、虫がなあ。どこかベストプレイスはないものか……。
そうして徘徊していると、庭で一人佇む鍛冶Tの姿を見つけた。
誰と話しているわけでもなく、すっとその場に立っている。何やってんだ、あれ。
やがて、鍛冶Tは両手を静かに振り上げ、目にも留まらぬ速さでそれを振り下ろした。
剣道の素振りか。
あのボロボロの手のひらの答えは、これだったのか。その動きはすっかり板についていて、ああ、今の鍛冶Tは剣道の先生なんだということが理解できた。ほんの少しだけ寂しくて、でもなぜか、ちょっと嬉しい。
オレは静かにその場を去って、携帯ゲーム機の電源を入れる。
程なくして、最近はまっているゲームのロビーにTAIYOのハンドルネームが入室した。ゲームをやりながら、オレはコメントを打ち込む。
「鍛冶T、剣道やってたよ。夜に一人で素振りしてた。結構サマになってた」
◇
八月十四日。洗濯物がパリッと乾くお日様。
道場の軒先に、足の生えたきゅうりとナスが飾ってある。きゅうりのお馬さんで早く帰ってきて、ナスの牛さんでゆっくり戻っていくんだって、神社のおじいちゃんが昔教えてくれた。可愛い。
お盆は静先生やお母さん、そして百花さんと宿題を片付けながら、ゆったり過ごしている。
勿論、稽古は続けているけど、あまり根は詰めていない。麻倫さんが里帰りしてて、稽古に差がついちゃうからって言ったのと、静先生が休めって言ったのが理由だ。
何でも、休んでいる最中に身につくものもあるんだとか。この感覚は私にもわかった。里神楽のお稽古は、習ったその場でできていなくても、時間を空けたらすんなりできたっていうことが何度かあったし。
遅れていた私の勉強もようやく中学校の範囲に追いついてきた。もっと時間がかかると思っていたんだけれど、百花さんが熱心に教えてくれたおかげだ。小学校の範囲を終えた時には、お母さんが買ってきてくれたラムネで百花さんと乾杯した。
こんなに穏やかに夏休みを過ごせたのっていつ以来だろう。少し前までは長期の休みは怖いものだった。だって、いつか終わって学校が始まってしまうから。学校に行かなくても許される日があるってことは、登校しなきゃいけない日もあるって自覚させられちゃうんだ。
でも今年は夏休みが終わるのがあまり怖くない。休みが明けても、センターにはみんながいて、夕方には道場がある。いつもが続いていくって、こんなにも幸せな事なんだって。そう思える。
八月十五日。ちょっと曇り。
今日は終戦記念日なんだって、テレビで言ってた。黙とうと黙想って同じものなのかな。
麻倫さんも帰ってきて、また丸一日の稽古が再開した。と言っても、最初にやったのは防具と竹刀の手入れの仕方、それに綺麗な着装の練習ばかりだ。
静先生は剣道具を雑に扱うことを絶対に許さない。前にYouTubeで麻倫さんが剣道の動画を周りに見せていたことがあったんだけど、動画に映っていた選手が竹刀を床に叩きつけた瞬間、静先生は「この選手の振る舞いは間違っています」と言って、その動画を参考にすることを禁止しちゃった。
最後に面をつけた時、不思議な気持ちになった。神楽のお面をつけた時みたいに、すっと肩の力が抜けたんだ。でも、神楽のお面と違って、剣道の面は前がよく見える。相手の顔も、ちゃんと見える。
静先生に前髪を上げてもらったあの日のことを思い出した。
防具まで全部綺麗に身につけると、なんだか強そうに見える。鏡の前で構えてみたら、まるでYouTubeに出てくる選手みたいでテンションが上がった。すぐ静先生に構えを直されたけど。
夜、小鍛冶先生が道場に帰ってきて、お詫びにとお土産をくれた。キャラクターが描かれたおまんじゅうで可愛い。
八月十六日。昼にちょっと雨模様。
朝、びっくりすることがあった。今日はちょっと来るのが早かったせいで、道場前で鍵が開くのを待っていたんだけど、ジャージ姿の小鍛冶先生と一緒に男の子が四人走ってきたんだ。
身長も高くて、全員私より先輩っぽい。一番後ろを走っていた長い髪の人なんて、今にも寝ちゃいそうな顔で大あくびをしていた。
爽やかなスポーツマンって感じのお兄さんに、「ああ、この子が剣道部の一年か」って詰め寄られた時は、もうめちゃくちゃ慌てた。多分、亀になれたら甲羅にこもっていたと思う。
スポーツマンなお兄さんを諫めてくれたのは、王子様みたいにキラキラした先輩だった。
「今日は朝練の日なの? すごいね。頑張ってるね」
って聞かれたから、答えに困って頭を振った。
王子様は不思議そうな顔で「どういうこと?」と首を傾げたので、勇気を出して、「毎日、朝から夕方まで」って答えたんだ。
上手く答えられたかは分からないけど、先輩たちが小鍛冶先生を見て呆れていたのは覚えてる。
その後で、麻倫さんと百花さんも合流して少し話して、次の日から朝のマラソンに私たちも参加することになった。……何でぇ?
お昼以降は面をつけて、竹刀をぶつけ合う稽古。
静先生が練習台――、元立ちっていうらしい役割になって、私たちの打突を受けてくれたんだけど、これが本当に大変だった。
声と姿勢と足、それに刃筋。その全部がちゃんとしていないと、ずっと終わらない。で、静先生の考えるちゃんとしている打突がすごい難しいんだ。
「いやぁぁぁぁ! いやぁぁぁぁ! いぃぃぃやぁぁぁぁぁ……!」
って一番槍で突っ込んでいった麻倫さんは、十分近く全力で打ち込み続けて、終わった後には前のめりに倒れていた。これを私たちもやるの!? って思ったよ。
私の番では、何度も「目が泳いでいます」と止められた。面の中なら大丈夫だと思っていたのに、静先生にはお見通しみたい。
「敵は怖くありません。怖いのは自分自身。さあ、前に出る。もう一本!」
へとへとになりながらメンにコテにドウを打ち続ける。敵から目をそらすな。前髪を上げてもらった日の言葉を思い出して、最後はちゃんと静先生の目を見て打てた、と思う。百花さんは一本ごとにノートに書き込みたそうな顔をしていた。
最長記録は二十分近かった小鍛冶先生。最後は麻倫さんと同じポーズで床に倒れてて、少しおかしかった。
一時間も私たちの打突を受け続けていたのに、静先生は涼しい顔のまま。本当にすごい人だ。
休憩の後は、切り返しっていう稽古。面を打って、体当たりして、それから左右の面をずっと打ち続ける。一息で何本分も声を出し続けなきゃいけなくて、途中から自分が何を叫んでいるのか分からなくなるんだ。
小鍛冶先生なんかは終わった後、床に大の字になったまま「これを毎日やるのか……」って遠い目をしていた。
センターでは頼りになる先生の顔しか知らなかったから、弱音を吐いているところが、少しおかしい。馬鹿にしてるわけじゃなくてね。
でも、「毎日」って言葉が、私の胸にすごく響いた。
そう、「毎日」なんだ。
夢みたいな日々が、これからも「毎日」。
今年の夏は、大声を出して前に飛び出す夏にしよう。
そう決めた。




