第十話 あなたはそのままでいい
夏休み中の学校はサマータイムが導入されており、定時が早い。
時計の針が午後四時を示したところで、俺は目下まとめている最中である"要対協"のケース会議に向けた資料を片付け、口笛交じりにタイムカードを押印した。
「最近早いね、廉君」
三年主任の瀬川先生が、山積みの進路関係の書類から顔を上げる。夏休み中も三者面談や進路希望調査の締め切りに追われ、机の上は普段以上に荒れていた。それでも、俺を見る目には、からかい混じりの余裕が滲んでいる。
「部活動の夜の部があるんで」
俺がしたり顔で返すと、彼女は笑って諸手を挙げた。
「テニスから離れても三つ子の魂何とやらだ。BDKにつける薬はないね」
そう言う彼女の眼差しは、思いのほか優しげだった。忙しさの合間に、こうして軽口を叩ける余裕があるのは、きっと俺が元気にやっていることへの、彼女なりの安心の表れなのだろう。相方を解消してからというもの、彼女には何くれとなく気にかけてもらっている。
「……良い顔になったね。三人娘の世話はやりがいがある?」
「長期休暇の七割が潰れるくらいには。今年は年休とって、道場に缶詰めになる予定です」
「ぶっ倒れなさんなよ。後……、お願いね」
その一言に、他の色々な意味が込められているのを感じ取る。単なる激励ではなく、要対協の件を含めた、労いの言葉だった。
「俺からもお願いします」
声をかけてきたのは、離れた席で校外学習の資料を作っていた久度先生だった。傍ら、野球部の遠征申請書らしき書類も広げている。二足の草鞋を、器用に履きこなしているらしい。
彼が頭を下げてくる姿に、俺は少し面食らう。
「久度先生、頭上げてください。俺は好きでやってるだけなんで」
「そういうわけにもいかないですよ。三人はうちの学年、麻倫に至っては本来うちのクラスの生徒でしょ。それを小鍛冶先生が肩代わりしてくれてるから、俺たちは助かってるんです。けど、本当にそれでいいのかとも思うんですよ」
その言葉には、感謝と、幾ばくかの申し訳なさが滲んでいた。
俺は手をひらひらとさせて応える。
「持ちつ持たれつですよ。これが、俺の業務なんで」
それだけ言うと、俺は職員室を後にした。
自転車にまたがり、河川敷を走る。夏の夕方はまだ明るい。
自宅にまで近づくと、甲高い声と木刀のぶつかり合う音が聞こえてきた。
俺はネクタイを緩めながら、道場の戸に手をかける。
「ういーす」
「小鍛冶先生行儀悪い! そこは失礼しますでしょ!」
早速体操服姿の麻倫から洗礼を浴びた。木刀をもって彼女と向かい合っていた乃亜がくすりと笑う。彼女は肌が弱いのか、体操服の下にアンダーウェアを着こんでいる。
「……小鍛冶、先生、こんにちは」
「おう、” 麻倫”は威勢が良くて満点。”乃亜”も挨拶が自分からできて素晴らしい。んで、失礼します」
小鍛冶道場に三人が通うことになってから、意識して”さん”付けをしないようにした。ここは学校ではないからだ。
俺は更衣室に向かいがてら、百花の様子をちらりと窺う。
百花は汗ではりついた体操服を気にもせず、八相の構えを取って、同じく脇構えをとっている母と相対していた。
そのまま流れるように歩み足で間合いを詰め、木刀をぶつけ合う。
中心をとる意識のまま、木刀のしのぎを互いに削り、間合いを離す。そして、
「ヤア!」
全力で水月へ諸手突きを放つ。
母は木刀で流れるように突きを受け流し、そのまま百花の側面に対し、木刀を振り下ろした。
「トオ!」
大した上達ぶりだった。剣道については入門したばかりだが、こと形について、彼女を一見して素人と断じる者は最早いないだろう。それほどに刀が振れている。
「……もーてゃ、何かすごい勢いで上手くなってない? なんかおかしいよ!」
麻倫が両手をぶんぶんと振り回して悔しさを全面に出す。
どうやら、形の前の足さばきも素振りも見違えているとのことだった。
「あー……。私、朝から道場に通ってて……」
一昔前に流行ったキャラクターもののタオルで汗を拭きながら、百花は申し訳なさそうに答える。
そう、百花は"要対協"にケース登録されてから、一日の大半を小鍛冶道場で過ごしている。何なら、母がつきっきりで指導している訳だから、これはもう内弟子のようなものだ。
そのお陰で、俺は朝飯を一人で食うようになった。
「七時前には百花さんが来るから、私は道場で朝ご飯を食べるわ。食器はそのままで良いから」
とは母の言だ。まさかこの歳になって俺の結婚以外の理由で親離れ子離れが起きるなんて思ってもみなかった。
というわけで、百花は現在実質的にスポーツ強豪校顔負けの朝練、昼練、午後練、夕方練の四部練を何日も続けている。
こんなの俺だって高校で全国行った時の強化合宿でしか経験したことないぞ……。
「何だと!」
百花の説明を受けた麻倫はショックを受けたように口をあんぐりと開け、そのまま怒り狂って地団駄を踏んだ。
「ずるい! ずるい! そんなの強くなるに決まってるじゃんか! 一人だけそんなのずるい! そう思うよね!? のあちゃ!」
「う、うん……」
幾分か勢いに押され気味ではあったが、乃亜も頷く。への字に曲がった口元から、自分も不満だという感情が透けて見えた。
「静先生! 私とのあちゃも朝から練習させて!」
母は麻倫の要求を受けて、困ったように眉を寄せた。
元々義憤から突っ走った結果が百花の四部練だ。一人を一日中見るだけでも大変だというのに、それが三人になるというのは――。
俺は母の逡巡を察して差し出口を挟んだ。
「母さん。しばらくまとまって休みをとる予定だから、交代で見られるよ」
「廉平さん……。うーん、それなら受け入れられそうね」
母は観念したのか、二人に向き直り、厳しい顔で言った。
「良いですか。道場に一日いるというのは、”内弟子”になると言うことです。泊りこそありませんが、同じ釜の飯を食べ、道場のことも自分たちで整えていきます。お客様ではないのですよ。それでも良いというのですか?」
二人は静かに頷いた。軽い気持ちで頼んだのではないと、目が語っている。
母は二人の覚悟を受け取り、ため息を吐いた。
「分かりました。親御さんには私からもちゃんと連絡します。今日から、あなたたちはうちの道場の内弟子です」
「やった!」
麻倫が全身で喜びを表現して飛び上がった。乃亜もその場で静かにぎゅっと拳を握り締める。
母は百花の方を向いて、苦笑いを浮かべた。
「百花さん、一緒にご飯を食べる相手が増えましたね」
百花は目を見開き、ぶんぶんと頷く。嬉しさを隠しきれない様子だった。
俺はほっと息をつきつつ、更衣室に入る。
他人事じゃない。俺も剣道漬けの日々が始まるのだ。
◇
三人娘が小鍛冶道場の内弟子になってから、一日たりとも騒がしくない日がない。
朝の六時半には元気よく道場の戸を開く麻倫の声が聞こえる。
そのまま、道場の雑巾がけ、モップ掛けを行う。七時には上座の一段高くなった座敷にちゃぶ台を置いて、五人分の食事を置く。
おひつで運ぶ米の量は何と八合だ。大家族かよと言う重量感に、おひつを運ぶ俺も戦慄する。
「食事が体を作ります。残すなんて許しません」
と母は昔ながらの感覚で三人に釘を刺す。
「勿論! 静先生のご飯美味しい! 今日のお魚最高!」
「……味噌汁美味しいです」
釘を刺された三人はと言うと、麻倫と百花は平気な顔でぺろりと一合、二合は平らげた。麻倫に至っては一食で三合は余裕でおかわりする。
しかし、乃亜は食事のたびにへとへとになっていた。
「ぴぇ」
小動物の悲鳴のような声が、半開きになった乃亜の口から漏れる。
見かねた俺が乃亜の分もおかわりをしようとすると、母から無言の圧力が飛んできた。
「げぷ……」
乃亜は観念したように食事を胃の中に押し込んでいく。
俺はその様子を驚きながら眺めていた。
元々担任とのトラブルもあった、デリケートな彼女だ。
母のやり方は、ともすれば押し付けともとられかねないから、俺もそれとなく声をかけてみたが、彼女はふるふると首を振って大丈夫だと返してくる。
「大丈夫、です」
上手く言語化はできなさそうだが、母との相性が悪くないのは確からしい。
食事が終わったら、入念にストレッチをし、ひたすらに足さばきを磨いていく。
最近はほとんど走っているのと変わらない速度で送り足をさせられている。それを前後左右に延々と続け、”偃月”というランジのようなものや、床を強く踏み込む踏み込み足、” 片足のみでの送り足”という稽古まで増えた。
ふくらはぎの筋肉は今まで以上に張り、一時間もやったら立ち上がれないほどだ。
その後、ストレッチを挟んで素振りに移る。
持たされる木刀はついに桐を卒業し、白樫の木刀に持ち替えた。これが思った以上に重い。
スクワットとジャンプを繰り返しながら素振り、体操の伸脚を繰り返しながら素振り、ランジをしながら左右の足を飛び上がり、入れ替えながら素振り……、やり直しも含め、これが五千本は軽く続く。素振りだけで二時間は費やされるのだ。
終わった時には、三人はその場に倒れ込んでしまっている。
俺も痛みを感じて手のひらを見れば、まめが潰れてぼろぼろになっていた。
三人娘も含めて怪我の治療をし、昼食の準備をする。
動き回った三人娘は朝以上の食欲を見せた。
「ご飯がこんなに美味しかったの、生まれて初めてかもしれない……」
と感動する麻倫に対し、俺も同意する。
「まあ、やってることは実質強化合宿だからな。特別感があるんだろ。俺も学生時代は飯の美味さに感動したもんだ」
「テニスの合宿?」
箸を咥えながら麻倫が言う。行儀が悪いと母から即座に注意が飛んできた。
「んだ。全国の選手が集まって、延々とやった。普段会えない選手とかいて楽しかったぞ」
「ふーん」
どこか遠くを見るようにして、麻倫が生返事を返す。
「私もこれだけ剣道頑張ってたら、そういうところに行くことになるのかな」
ぽつりと出てきたその言葉は、どこか複雑な感情が混ざっていた。
「何だ、そういう場所に行きたいのか?」
俺が聞くと、そうじゃなくてと首を振る。
「私、小学校の頃はサッカーやってて。普通に全国遠征に行ってたんだけど。遠征先でチームメイトやコーチと喧嘩しちゃってたから……。不安が強い、かも?」
完全に忘れてしまっていたが、俺は彼女が小学校時代トラブル続きの問題児だった事実を思い出した。
今、二人の仲間や俺たちと穏やかに過ごせているというのは、彼女にとっては奇跡のような……、想像もしていなかった日々なのだ。
「仮に遠征に行くとしても」
ふと今まで静かに食事をしていた母が口を開く。
「あなたは小鍛冶道場の礼法の切り紙を持っています。その礼法通りにふるまっていれば、誰にも文句は言われませんし、言わせません。自信を持って、あなたのままでいればよろしい」
母の言葉に麻倫はただでさえ丸い目を大きく見開き、
「そっか……」
喜色満面にして笑った。
「安心したら、もっと食べられそう。おかわり!」
◇
小鍛冶道場の賑やかさは日を経るごとに増していく。
「若先生、お昼ご飯の用意しておきましたよ!」
「ママありがとう!」
「ちゃんと手を洗ってね! 百花ちゃんも乃亜ちゃんも!」
気風の良い声をかけているのは麻倫の母親だった。麻子さんというらしい。
内弟子生活が続いてしばらく経ってから、ふっくらとしたお腹を揺らしながら娘を伴って平謝りに来た。
「まさか、朝昼晩を何日もお世話になるなんて……。しかもたらふくご飯まで! 月謝だけじゃ、ぜぇーんぜん足りませんよ。お手伝いさせてください!」
その勢いにはたじたじにさせられたが、申し出自体は非常に助かった。正直、手が足りなかったのだ。保護者の手が借りられるのならば、いくらでも借りたいところだ。
さらに後日、麻子さんが手伝いに入ったことを聞きつけて、乃亜の母親である佳乃さんも手伝いに駆けつけてきた。
「若先生には何とお礼を言ったら良いか……、子どもたちの洗濯と食事のお手伝いは任せてください」
元々はこういう人柄だったのだろう。細面ながら、ふにゃりと柔らかな笑顔で佳乃さんもサポートを申し出てくる。
勿論助かるのだが……、俺は釈然としないものを感じて、彼女に聞く。
「あの、若先生というのは……?」
俺の言葉に佳乃さんはきょとんとする。
「静先生の息子さんなら若先生では? ちょっと古風ですけど……」
そういうことらしかった。
かくして食卓の香りに加わり、小鍛冶道場の軒先には三人娘の体操服が干されるようになる。
◇
足さばきも習熟し、手のひらの皮が分厚くなった八月の初めごろ、俺と三人娘は素振りも含めた『小鍛冶道場初伝、木刀稽古』の切り紙を認可される。
鮮やかな千代紙を両手で持ち、食い入るように見つめる三人娘。その傍らで、麻子さんと佳乃さんがパチパチと拍手を送っていた。
「よかったねえ、麻倫」
「見て見て、ママ! 私の名前なのに、静先生の字だとマジかっこいい!」
誇らしげに千代紙を掲げる麻倫を、麻子さんが目を細めて見守る。その光景に、俺まで胸が温かくなった。
喜びもひとしきり落ち着いた頃、次の課題を待ちきれない様子の彼女たちに、母が静かに切り出す。
「……今までよく頑張りました。いよいよ、防具をつけた竹刀稽古に移ろうと思います」
「やった! ついに本格的に剣道ができる!」
麻倫が両手を突き上げて叫ぶ。だが、母はそれを制するように、指を一本立てた。
「と、その前に大事なことがあります」
場の空気が、一瞬で引き締まる。
「あなたたちの道着を用意しなければいけません」
その一言に、麻倫と佳乃さんの表情がぱっと明るくなった。
「みんなのユニフォーム! 立派なのを防具屋さんに注文しなきゃですね!」
「刺繍を入れてくれるみたいですよ。小鍛冶道場の名前は入れるとして……、あっ、この柄可愛いなあ」
佳乃さんが、早速スマートフォンで検索を始める。自分が着るわけでもないのに、画面をタップしてはにまにまとしていた。
その盛り上がりから一人だけ取り残されるように、百花の表情が、すっと暗くなる。
「あの、先生……。お金のかかることは――」
言いかけて、口をつぐむ。
七月いっぱい見守ってきたが、百花の母親は道場に入り浸る娘の様子に口出ししてくることはなかった。だからといって、積極的に支援してくれるわけでもない。経済的な事情は、他の二人とは明らかに違っていた。
母はその空気を読んだように、すぐさま言葉を継ぐ。
「防具も含め、剣道の道具は、新しいものを注文しても仕上がりまで時間がかかります。丁度良く、この道場には、元いた道場生が残した防具も道着もありますから、しばらくはそれを使いましょう」
言いながら、母は奥の物置から、丁寧に畳まれた白道着と黒袴を取り出してきた。
長年しまい込まれていたはずなのに、折り目は寸分違わず正しく、色褪せも少ない。持ち主が、大切に扱っていたことが一目で分かった。肩口には『小鍛冶道場』と刺繍がされており、黒袴の腰板には金字で『一刀即万刀』と記されている。
一般的な言葉ではないから、その意味するところは理解できないが……。
「はーい。うわ、年季入ってる!」
麻倫が受け取った道着を広げ、感心したように呟く。乃亜も、静かに自分の分を受け取る。
残るは、百花の分だけだった。
「百花さん」
「は、はい」
背筋を伸ばして応える百花の前に、母が、もう一着の道着を差し出す。
手渡されたのは、二人が持っているものと同じ色でありながら、肩口にだけ、小さな桜の刺繍が施された一着だった。
「こ、これは?」
「この道場で一番真面目だった生徒のおさがりです。使ってください」
百花は、恐る恐るその道着を受け取る。袴の裏地に目を落とした瞬間、彼女の肩が、びくりと震えた。
「こ、これ……。『小鍛冶静』って――」
言われて俺も覗いてみるが、確かに母の字が刺繍されている。
縮こまる百花に対し、母は気兼ねするなと頷く。しかし――、
「ああああ、良いな! 良いな! ずるい、ずるい!」
真っ先に声を上げたのは、麻倫だった。
「何でもーてゃが静先生のなの! 不公平だ!」
そう言って癇癪を起こす麻倫。
「おさがりがそんなに良いのか……?」
俺が思わず聞き返すと、麻倫は心底羨ましそうに地団駄を踏んだ。
「静先生のおさがりって、それ一番弟子って事じゃん! それはずるいよ!」
「あー……、うん。そういうもんかあ?」
俺にはいまいち理解できなかったが、乃亜も同意するように小さく頷いている。
「わ、私も……」
母は困った顔をしていた。まさか、争奪戦になるとは思わなかったのだろう。いつもの毅然とした態度が緩み、麻子さんや佳乃さんに目配せしている。
「麻倫ちゃん。あの道着と同じデザインで注文しよっか……」
「違う! 静先生のが良い!」
これは二人とも引かなそうだ。こういう時、公平に決めるならばじゃんけん……。もしくは特に持ち主を決めない、色々と考えられるが……。
俺は何かうまい解決策はないかと考えながら百花を見る。
すると彼女は、二人の羨望の声とは対照的に、なぜか道着を胸に抱いたまま身動き一つ取れずにいた。
「……百花?」
俺が名前を呼ぶと、百花の肩がびくりと震える。
しばらくの沈黙の後、彼女は絞り出すように口を開いた。
「私……、これ、着られません」
場の空気が一瞬で凍りついた。麻倫の言い争いも、ぴたりと止まる。
「もーてゃ?」
「私、こんな……、一番真面目だった生徒のなんて、着る資格ないです」
百花は、道着をきつく抱きしめたまま、俯いた。
「私、去年、中学受験に落ちたんです。志望校、ずっと母の母校で……。母が、そこに行かせたくて、小学校の頃からずっと塾に通わされて」
声が少しずつ震えていく。
「模試じゃ、いつもA判定だったんです。でも、本番で……。足りなくて。良い点とれたと思ったのに」
誰も口を挟まなかった。
「その日から、母は変わりました。私を見る目が変わったんです。『あんたは失敗作なのよ』って……。お父さんとの喧嘩も増えて、お父さんは家を出ていっちゃいました」
その一言に俺は息を呑んだ。これまで断片的に見えていた母親の態度が、初めて一つの線として繋がった瞬間だった。
「だから、私……、いつも思ってたんです。満点じゃなきゃ、駄目なんだって。九割じゃ、駄目。合格じゃないかもしれない。合格点取れなきゃ、価値がないんだって」
百花は顔を上げる。目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「だから……、この道着、私には似合いません。一番真面目な生徒の道着なんて。私、あと少しで駄目になる方の人間だから」
道場に重い沈黙が落ちた。
麻倫も乃亜も何も言えずにいる。俺自身、かける言葉が見つからない。
その沈黙を破ったのは、母だった。
「百花さん」
静かだが、はっきりとした声だった。
「剣道はテストとは違います。一発勝負の入試とも模試の判定とも違う」
母は百花の前に一歩進み出る。
「あなたが学び始めた道は、生涯をかけて挑むものです。確かにあなたは満点ではない。でも、私だってそう。八段の先生に同じことを聞いてごらんなさい。まだまだ満点なんてとても言えないと返ってきますよ。いつか届く日を目指してただ進む。いつまでも、終わらない道が剣道なの」
百花が顔を上げたまま、母を見つめていた。
「今、あなたが合格点に届いていないとしても、それは今の話でしかありません。大事なのは、満点に向かおうとする、その姿勢そのもの。それさえあれば、あなたは立派な修行者です」
母の声にはこれまでの厳しさとは違う、静かな温かさがあった。
「一番真面目だった生徒、というのはね。一番上手だった、という意味じゃないの。一番諦めなかった生徒、という意味よ」
その一言に、百花の目から涙がこぼれ落ちる。
「私……、諦めなかった、ですか」
「私にはそう見えたの。あなたはそのままでいい」
百花は道着を抱きしめたまま、声を上げて泣き出した。
その背中に麻倫がそっと手を置く。乃亜も隣で静かに寄り添った。
今、合格点でなくても、満点でなくても……。それでも、この場所には確かに彼女の居場所がある。
俺はその光景を、少し離れた場所から見守っていた。
そうして、百花の涙が落ち着いた頃、俺はパンと大きく手を叩く。
「とりあえず、道着に袖を通してみないか」
その一言で湿っぽくなっていた空気が少しだけ軽くなる。
麻子さんと佳乃さんの手を借りながら、三人は順番に着替えていく。俺もせっかくだからと自分の道着に袖を通してみたが、これが思いのほか難しかった。
「結び目は横に向いていなければ駄目。やり直し」
「腰板の位置が低い。やり直し」
母の合格点が出るまで、何度も着直させられる。ちょうちょ結びに縦も横もあるのかよ……。ようやく及第点をもらった頃には、腕がすっかりくたびれていた。
道場に備え付けられた大鏡の前に立つ。
鏡に映った自分の姿は、思っていたよりも様になっていた。不格好な素人丸出しだった数ヶ月前とは違う、少しだけ剣道家らしくなった自分がそこにいる気がして、俺は小さく息を吐いた。
そこでふと、大事なことを思い出す。
「母さん。麻倫と乃亜にも、何かおさがり渡せないのか」
二人の優しさに免じて、先ほどの不満はもう聞こえなくなっていた。だが、このままでは不公平なのは間違いない。
母はおとがいに手を当て、しばし考え込んだ。
「麻倫さん」
「はい!」
「私の使っていた竹刀の鍔をあげます」
母は竹刀置き場に置かれていた竹刀から、使い込まれた小さな鍔を取り外し、麻倫の手のひらに乗せた。
「……昔の武士には、刀の刃や鍔を打ち合わせる、金打と呼ばれる作法がありました。これは、決して約束を違えないという覚悟を示すために行うものです」
言って、母は微笑む。
「意志の強いあなたなら、約束は破りません。だから、これを渡します」
狸のような丸い目を一杯に見開き、麻倫は鍔を両手で包み込むように握りしめた。いつもの騒がしさが嘘のように、じっとそれを見つめている。
「乃亜さんは……」
母は、少しの間だけ言葉を止めた。
「ずっと気になっていたのよね……。髪をまとめましょう」
そう言うと、母は自分の髪を縛っていたヘアゴムをするりと解く。
「あなたは、これからたくさんの敵と向かい合わなくてはなりません」
母の手が乃亜の長い前髪を、そっとかき上げる。躊躇なく、後ろで一本にまとめ上げた。
「目をそらしてはだめ。少なくとも、剣道をする時は――、ほら」
乃亜は道場に備え付けられた大鏡に映った自分を見て、長いまつげをぱちぱちと瞬かせた。
前髪に隠れることのなくなった、彼女の素顔がそこにあった。戸惑うような、それでいてどこか誇らしいような、複雑な色が、その目には浮かんでいる。
「……久しぶりだ」
乃亜がぽつりと呟く。
「自分の、顔見るの」
その一言に、俺は胸を突かれた。
学校に行けなくなってから彼女は、前髪という厚いカーテンで外界との接触を遮ろうとしていたのだ。
その両目が今、剣道限定ではあるが外へと向いている。
俺は乃亜という名前の元になったであろう神話を思い出していた。
大洪水の後には再生が待っているものだ。
乃亜も、麻倫も、百花も……、ここからが新しく始まろうとしている。
気づけば、俺は武者震いしていた。それも仕方のないことだ。人が再び立ち上がる様を見て、奮い立たない奴は教員じゃないだろう。
騒ぐBDKの血を必死に押さえつけながら、俺は明日へと思いを馳せる。口元が自然と持ち上がっていくのを抑えることはできなかった。




