第九話 文句があるなら後で聞く
「竹花の家は玉手の外れか……。中央と河東との境目だな」
「はい、次の交差点を右です」
「おう」
カーナビ越しの指示に応え、校長が白い軽ワゴンのハンドルを切った。
玉手は閑静な住宅街であると同時に、古い道がそのまま残っている。中央寄りの区画に行くまでは対向車とのすれ違いが困難なほどの細道が続く。
ようやく細道を抜けようかと言ったところで、助手席に座る俺の身体が前に持っていかれた。校長がアクセルを緩めたのだ。
「まっ、夏休み初日だしなあ」
校長が背もたれに体重を預けながら、苦笑する。
交差点に設置されたカーブミラー越しに、プールバッグを担ぎ、自転車に乗った小学生の集団が見えていた。
「この地域は地方にしちゃ、子どもが多い。俺たちにとっちゃ良いことだがな」
自転車が通り過ぎるのを認めた後、校長はゆっくりとアクセルを踏んだ。
「すいません、運転させてしまって」
「別にいい。昔、教員になる前は運送屋でバイトしてたからな。ハンドル握ってる方が、性に合ってる」
言って、校長は小さく笑った。
「それに、頭の中身を整理したい時には、いつも運転を買って出てるんだ。今日みたいな日は特にな」
信号待ちの間、校長がぽつりと切り出した。
「向こうでは、俺が話を進める。お前は、現場を見た事実だけを、聞かれたら答えればいい」
「分かりました」
俺は頷く。校長は険しい表情でつづけた。
「今回、二つほど筋が悪いことがある。竹花が保護者の承諾なしで道場に通っていたこと。そしてその道場での課外活動中に倒れたことだ」
校長が深く息を吐く。
「断言してもいいが、俺たちの不手際として叩かれる。感情的になるなよ。相手がどんな態度に出ても、な」
その一言に俺は少し身構える。先日の保護者会で暴発したばかりだ。校長の警戒は無理からぬものだった。
「……肝に銘じます」
信号が青に変わる。車が再びゆっくりと動き出す。
「玉手の町境は、小金持ちの住む土地だ。学区も入り乱れていて、あの辺りの連中は進学先を要領よく選ぶ」
校長の言葉は、俺にあててというよりは自分の中で頭を整理するために呟いているように聞こえた。
大通りに出たところで、問いをこちらへ向けてくる。
「竹花の母親、どんな人だ」
「第一に、学校への不信感が強いです。三者面談も、これまで実現していません。プライベートについてはSNSで学校に関するネガティブな話題を発信していたと、小学校からの申し送りにあります」
「ふん。そういうタイプは、大抵正面から責められたと感じた瞬間に殻を閉じる。話が通じる奴なんかいない」
校長は、前を見たまま続けた。
「だから今日は、責めには行かん。事実の確認と、これからの相談だ。それだけを伝えに行く」
言葉にすると簡単に聞こえるが、実際にそれを保てるかどうかは、また別の話だ。俺は昨夜の医師の慎重な言い回しを思い出していた。
「あと、五百メートルくらいです」
カーナビの画面が、目的地への到着を示していた。
「あー、やっぱここか」
校長が、ハンドルを握ったまま、窓の外に目をやる。
街路樹が等間隔に植えられた、ゆとりのある道路。並んだ家々は、どれも似たような佇まいをしていたが、その中に一軒、ひときわ目を引く家があった。
白い漆喰調の壁、焦げ茶の切妻屋根。玄関先には、小さなアーチ状のポーチ。庭付きの戸建てだ。
「あそこですね」
俺が指すと、校長は少し眉を上げた。
「立派な家じゃないか」
「そうですね。でも……」
言い淀んだ俺に、校長がちらりと視線を寄越す。
「でも?」
「その立派な家で、百花が栄養失調になっているわけですから……」
校長が薄くなった頭をがしがしと掻いた。
「前哨戦だ。良いか? くれぐれも慎重にいくぞ」
俺は頷き、ネクタイを締めなおした後、インターホンを押す。
◇
呼び出し音がしばらく響くが出てくる様子がない。
俺は校長と互いに見合った。
「留守の可能性は?」
「仕事は在宅のはずです」
たっぷり時間をとってから二度、三度と押し続ける。
やがてスピーカー越しに不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「……どちらさまですか?」
出た。
俺は緊張した喉をごくりと湿らせ、努めて柔らかく声を出す。
「お忙しい中、大変失礼いたします。私は御伽市立玉手中学校の教員を務める小鍛冶と申します。百花さんの件でお話をさせていただければと思い、直接お伺いしました」
「娘の? 私には話すことはありません。帰ってください」
ぶつりとスピーカーが切れる。
俺は奥歯を嚙み締め、再びインターホンを押した。
こうなったら、根競べだ。感情的にならず、長丁場を覚悟して相手の反応を待つ。
やがて、乱暴に家のドアが開いた。
「何なの、本当に! 警察呼びますよ!」
ようやく対面できた母親は、目を吊り上げてこちらに噛みついてくる。化粧の崩れた顔だ。怒りの表情の中に疲れが見えていた。
校長が俺の前に出て、福顔にいつもの人懐っこい笑みを浮かべる。
「いやあ、本当に申し訳ありません、お母さん。実は先日、娘さんが町の剣道場で倒れ、病院で検査を受けまして。その場で連絡はいったはずなのですが、繋がらなかったため、こうして家庭訪問をさせていただきました」
校長が、なるべく穏やかに切り出す。だが、返ってきたのは硬い反応だった。
「はあ? 剣道? そんなの、私はやってもいいって認めた覚えありませんけど」
「百花さんはセンターのご友人がやっているのを見て、お試しにと参加していて……」
「そんな無駄なことにお金を使う予定はありません。ていうか、学校側の管理がなってないんじゃないんですか? 子どもに余計なことをさせずに、まっすぐ家に帰らせるのが、あなたたちの仕事でしょ」
取り付く島もない彼女の態度にカチンとくるも、校長が体で俺を押しのける。
今は出てくるなという無言のメッセージが伝わってきた。
「お子様の安全についてはより一層気を配ってまいります。ただ、そこで確認をさせていただきたいことがありまして……、病院の診察結果で『慢性的な栄養失調』と出まして、何かご存じのことはありませんか?」
「ありません」
母親は憎々しげに睨みつけてくる。
「どうせ、ダイエットかなんかでしょ。放っておいてください」
「いえ、校内の記録ですと、娘さんはおかわりをするほどしっかり給食を召し上がっているんです。そのことはセンターの担当教員も毎日把握しています」
母親が苛立たしげに腕を掻く。
「結局、あなたたちは何が言いたいんですか?」
「ご家庭での食事について、ご存じのことを聞かせていただければと」
家庭、と聞いた瞬間、母親の顔色が赤く染まった。
「あの子、また私に恥をかかせて……!」
ぎりりと歯ぎしりをする母親の様子に俺は面食らう。彼女の様子からは、娘に対する愛情などかけらも感じられなかった。
「うちの家庭方針に学校なんかが口を挟まないでください。あなたたちにそんな権限ないですよね?」
母親の語気が強まる。少しも譲るつもりはないという頑なさを感じた。
校長は困ったように表情だけ笑いながら、続ける。
「参りましたな。ただ、学校としましてはご家庭と二人三脚でやっていきたいと思っております。今後の状況によっては関係機関との連携もありますので、お困りの点があればご連絡をいただければと――」
校長の話が終わるのを待たずに、乱暴にドアが閉められた。
そのまま母親の気配が消えても校長はその場に立ったままだ。
「校長……?」
不審に思った俺は校長に声をかけ、ぎょっとした。
閻魔のような表情で、竹花家を凝視していたからだ。
「――竹花は今家にいるのか?」
「は、はい。病院から帰ってきているはずですが」
「もう少しだけ待つ。母親がすぐに動くなら、対応する」
俺はハッとする。校長は、怒り狂った母親が娘に手をあげないか危惧しているのだ。
しばし待ち、家の中から物音が聞こえてこないことを確認すると、校長は身を翻した。
「今後数日が勝負だ。ありゃ、厄介だぞ」
◇
竹花家に訪問した翌日、俺は夏休みの二日目を職員室で過ごしていた。
室内に人は少ない。長期休業中の教員は部活指導や研修がない場合、比較的自由に年次休暇が取りやすいのだ。
外部活の歓声がかすかに聞こえる中、俺は溜まった書類の整理に手をつけはじめた。
スマートフォンが震えたのは、そんな時だった。画面には「母」の文字。
「もしもし?」
「廉平さん。今、話せる?」
母の声のトーンに、俺は指の動きを止めた。いつもの落ち着いた声とは、明らかに違う。
「大丈夫だけど……、どうしたんだ?」
「今朝、百花さんが道場に来たの。まだ七時前だった」
思わず、職員室の壁の時計に目をやった。
「え? いつも通りなら、稽古は夕方以降だろ。そんな早くからの稽古なんて――」
「ないわ。それでも来た」
母は、一度言葉を切った。
「顔が、腫れてたのよ。頬の辺り。本人は『転んだ』の一点張りで……」
背筋が、一気に冷たくなった。
「……原因、本人は打ち明けてくれているのか?」
少しの間の後、母は答える。
「何も。でも、病院の一件からすぐにでしょ? 疑わしいのに見過ごすつもりはないの」
母の声には、迷いがなかった。
「もう、児相に連絡した。これは、私が決めたことだから。文句があるなら後で聞く」
「いや……、文句なんて」
あるはずがなかった。むしろ、俺が真っ先にすべき判断を、母が先にしてくれたことに、情けなさすら覚えていた。
「百花さんは、今どうしてる」
「道場にいる。素振りをさせてる。何もしないでいる方が、余計辛そうだったから」
その光景を想像すると、胸が締め付けられた。顔を腫らしたまま、それでも木刀を振ることでしか、自分を保てない子どもの姿が脳裏に浮かぶ。
「俺も、今すぐそっちに――」
「来なくていい」
母の声が、ぴしゃりと遮る。
「今、あなたが来て何が変わるの。仕事があるでしょう。ここは私に任せて」
その通りだった。俺は拳を握りしめることしかできない。
◇
それから数日、事態は静かに、しかし確実に動いていった。
児童相談所の職員がまず道場を訪れ、百花本人と面談をした。次いで、竹花家への家庭訪問が行われたと、後になって母から聞いた。
百花の母親は、当初こそ強く反発したらしい。だが、児相という公的機関を前に、これまでのような「帰ってください」の一点張りは通用しなかったようだ。
「一時保護には、ならなかったみたい」
数日後、食卓で母からそう告げられた時、俺は問いかけた。
「それって良かった、のか?」
「良かった、と思う。だって、今のあの子は剣道がやりたいのよ。一時保護なんてなったら、居場所を奪ってしまうわ」
母はそう言って、少しだけ表情を緩めた。
一時保護には至らなかったものの、この件は「要保護児童対策地域協議会」――、通称"要対協"のケースとして、正式に登録されることになった。学校、道場、児相、市の子ども家庭課が連携し、継続的に見守っていく体制だ。
「これからは、私や学校が見守ってることが、ちゃんと公的にも認められた形になったってこと」
母の言葉に俺は頷いた。
完全な解決ではない。むしろ、これは長い道のりの、ようやく最初の一歩に過ぎない。
それでも、百花にはまだ通える場所が残っている。
その事実だけは確かだった。




