第八話 見極めねばならない
昨今の地球環境はいよいよのっぴきならない状況に追い込まれているようだ。例年聞こえていた蝉時雨がほとんど耳に入らなくなってしまった。
まあ、この猛暑地獄じゃあなあ……、と流れっぱなしの汗を腕で拭きながら、センターに入る。
公共施設は二十七度設定が原則。少し物足りないが、外の熱波と比べれば天国だ。俺は教卓に立ち、既に席についていた三人娘に声をかけた。
「暑すぎる。もう俺たちの代で、地球は終わりだな。宇宙開拓は君らに任せた」
「また小鍛冶先生が変なこと言ってる!」
打てば響く返しが麻倫の良いところだ。俺は仰々しく腕組みをする。
「ソ連て呼ばれていた頃の昔のロシアはマジで地球脱出を視野に入れていたらしいぞ。まあ、すぐには脱出できないから、当面は体調に気をつけるように」
「はーい」
と、麻倫が手を挙げて応えた後、今日の日直である百花が「気をつけ」と号令した。教卓横に提げられた板目紙に貼られた週予定のプリントを見ながら、一日の流れを確認していく。
「今日は午前授業。通常学級は終業集会です」
「俺らはリモートで参加ね」
新型感染症が流行した時期に始まったリモート集会だが、今は集会に参加できない生徒たちのセーフティネットへと形を変えて生き残っていた。
退屈しのぎなのか、机上に両手を投げ出し、ヘッドバンキングしている麻倫がにやりと口の端を持ち上げる。
「よーし、猛暑ぎゅうぎゅう詰めの刑回避!」
「それは通常学級の子たちに悪いからお口チャックね。乃亜さん、お願い」
もがもがと乃亜の両手に口を塞がれながら何かを言う麻倫であったが、百花は気にせず連絡を続けようとする。
だが、続く文言に目を留めた瞬間、その表情が固まった。
「……今日は給食がありません。午後の活動をするなら、お弁当が必要です。持ってきていますか?」
「ばっちし」
「……はい」
百花の問いに、麻倫は片手で大容量の弁当箱が入った包みを持ち上げ、乃亜も両手でちょこんと持ち上げる。
「もーてゃは?」
「私も大丈夫」
言葉少なに答え、百花は視線をわずかに逸らした。
俺はパイプ椅子に座りながら、彼女の様子をそれとなく窺う。
終業集会が始まってからも、彼女は姿勢よくテレビ画面を見つめている。
見てすぐに分かる変化はない。だが、ほんの少しの違和感がこびりついていた。
◇
よほどの悪ガキでもなければ、最近の中学生は掃除が丁寧だ。俺が子どもの頃なんかは寺の坊主の雑巾がけ方式で、速攻掃除を終わらせていたもんだが、今の子たちはワイパー拭きなる雑巾のかけ方を小学校で身につけてくる。
さらに、何たら落ち君とかいうメラミンスポンジの存在が大きい。驚くほど綺麗に汚れを取り除けるので、没頭する奴は延々続けてしまう。
センターでは麻倫がその枠だった。乃亜と百花が効率よく丁寧に清掃を進めるのに対し、麻倫はただ一人頑固な汚れにずっと立ち向かっている。
さながら強敵と戦う勇者の如しだ。
俺はというと、いつものように大耀の机を受け持った。毎朝拭いている天板に、汚れらしい汚れはない。それでも今日は、脚の裏まで丁寧に拭き上げておく。
ひとしきりの強敵を退治し終えた勇者一行は、クリーニングに出すためカーテンを畳み、日差しの入り込む教室内で各々に弁当を広げた。
「やった! お母さんありがとう! 唐揚げ多めはマジで助かる! マダガスカル!」
麻倫の弁当箱は茶色いおかずでぎっしりと埋まっている。唐揚げ、豚の生姜焼き、卵焼き。卵焼きには緑が混ざっていて、母の苦悩が窺える。育ち盛りの食欲を支える、ボリューム満点の中身だった。
「……今日は、お花」
乃亜の弁当は、対照的に彩り豊かだった。ミニトマトと卵焼きで作られた花の飾り切り、キャラクターの形に握られたおにぎり。手間のかかった、女子生徒好みの見た目をしている。
俺は彼女の母の、心底疲れた表情を思い出した。
恐らく、嬉しくて仕方ないはずだ。この弁当には、幸せな学校生活を送ってもらいたいという切な思いが、ぎっしりと詰まっている。
俺は百花の机上に置かれたランチクロスへと目を落とす。
三年一組と小学校の頃から使い続けたことが良く分かる、名札入りの柄物だ。中身はすかすかで、まるで空っぽの巾着のようだった。
百花が、居心地悪そうにそれを広げる。中に入っていたのは、コンビニで売られているビニール包装の具入りおにぎりが一つだけ。それに、水筒が一本。
俺の脳裏に、門田先生の声がよぎる。
『小鍛冶。お前、竹花の食事量をちゃんと見ているか?』
喉の奥が、ひやりとした。
門田先生の観察眼がなければ、彼女の弁当を見てもネグレクトを疑うことはできなかったかもしれない。
普通なら、単なる忘れ物だと思って終わるところだ。実際、百花の目の前にいる二人は驚きはしても、深刻そうには捉えていなかった。
「もーてゃ、お弁当忘れちゃったの?」
真っ先に声をかけたのは、麻倫だった。悪意のない、純粋な疑問だ。
「うん」
百花は何でもないことのように答える。だが、その声には微かな強張りがあった。
「そうなんだ」
麻倫はしばし呆けた後、
「じゃあ、これあげる!」
と、自分の弁当箱の蓋に唐揚げを二つ乗せて、百花に押し付けた。
断る間も与えない、一瞬の早業だ。
「え、でもさっき唐揚げが多くて喜んでたんじゃ……」
「友だちがお腹空いてたら、あげなきゃダメでしょ!」
いつもあっけらかんとしていることの方が多い麻倫にしては、珍しく真剣な表情をしていた。
「わ、私のも……。卵焼き、余分に入ってるので」
乃亜も控えめに卵焼きを一つ、弁当箱の蓋に乗せる。
「あ、ありがとう……」
百花は、少し戸惑いながらも、それを受け取った。三人で分け合いながら食べる様子を、俺は少し離れた場所で弁当をつつきながら、静かに見守る。
……二人の優しさに感謝だな。
場合によっては俺も参加しようと思ったが、オッサンの弁当をもらうというのも年頃の娘的には抵抗があるだろう。
勿論、問題の解決にはなっていない。門田先生の見立て通りなら、給食がなくなる、これからが危ないはずだ。
幸いなことに夏休み中も剣道部員として関わることは確定している。
ひとまず、今日のところは二人のおかずで乗り切ることができればどうとでもなるだろう。
そう判断して、一旦警戒を解く。
外の暑さは、窓越しでも肌でちりちりと感じられた。
◇
午後の活動は剣道三昧だった。
うちの道場が開くまで、まずは校内の道場でひたすら足さばきの反復を行う。
母から自主練が許されているのは、まだ足さばきと礼法のみだ。貰えた切り紙の分だけ自主練の幅が広くなっていく。
窓辺から感じるちりちりとした熱気に肌を刺されながら、俺たちはひたすら道場内を動き回る。
壁にかかった温度計はずっと三十三度を指したままだ。
校内の道場は予算の関係上、簡易的なスポットクーラーしか設置されていない。少し動いただけで、道着の背中が張り付くほど汗が滲む。
汗の玉が床にぽたりと落ちる様を見て、俺は三人娘に声をかけた。
「今日も暑いな。水分、しっかり取れよ」
汗をぬぐいながら、三人が素直に頷く。特に変わった様子はなかった。
足さばき地獄を終えた後、俺たちは丁寧に柔軟を行う。ここを疎かにすると、夕方からの稽古が辛い。
気温も段々落ち着いてきて、娘たちの表情も和らいでいく。だが、百花だけが表情の中に釈然としないものを抱えていた。
「どうした?」
「いえ、少し……、ふくらはぎがつりそうで……」
言って、百花は顔をしかめる。苦痛に歪むほどではないが、辛そうではある。
「伸ばすの手伝ったげるよ。もーてゃ!」
「はい、水筒……」
「あ、ありがとう。二人とも」
すぐに介助を申し出る麻倫に、水筒を手渡す乃亜。
百花の強張っていた肩からも、少しずつ力が抜けていく。
渡された水筒を傾け、一口二口と喉を潤してから、俺に向き直った。
「大丈夫そうです」
「そか、無理はしないように」
俺は内心安堵しながら短く答えた。
三人がこうして互いに気を配り合い、支え合う限りは深刻な事にはならないだろう。
夕方。帰り支度を手早く整え、一行はいつものように小鍛冶道場へ移動。運動着のままに稽古を始める。
中は学校と比べてだいぶ過ごしやすい。
うちの道場はボロいながらも、庭木に囲まれ、気温が上がりづらいつくりになっているのだ。
「こんばんは、三人とも。午後はどのような稽古をしましたか?」
母は道着姿で俺たちに向き合うと、放課後の稽古内容を確認してきた。
「静先生、こんばんは! ひたすら足さばきを繰り返したよ!」
はきはきとした麻倫の答えに母は頷き、
「よろしい。練習の成果を見せてください。足さばき、始め」
そう言って、俺たちの周りをゆっくりと回りながら、正面、後ろ、横から足さばきをつぶさに観察していく。
どうやら俺たちの出来は母のお眼鏡にかなうものであったようだ。
母は特に訂正を入れることもなく、素振り稽古に移るよう言ってきた。
「正面素振り、五百本。左右面素振り――、五百本。重心がおかしい。やり直し。胴素振り、五百本――、発声が間違っています。やり直し」
ただ木刀を振るだけではない。俺たちは教わった通りに鼻から息を吸い込み、腹で鋭く発声しながら面を素振り続ける。
得物は軽いが、決して楽ではない。全身の筋肉に緊張が走った。
切り紙を与えていない稽古について、母は本当に容赦がない。しつこいくらいに訂正され、素振りは千本を軽く超える。
そして、その場で前後に軽く跳躍しながら面を素振る跳躍素振りの稽古に移った瞬間、事は起こった。
道場内にカランと乾いた音が響く。
百花が木刀を落としたのだ。目の焦点が合っていない。ふらりとよろけ、その場に崩れ落ちた。
「百花さん」
母の声に、俺は駆け寄る。
百花は自分の両手を見ていた。痙攣している。顔色は真っ青で、冷や汗が止まらない。
熱中症か――、いやそこまで気温は上がっていないはずだが……。
俺の思考を押しのけるように、母が応急処置を引き継ぐ。
「廉平さん、冷蔵庫からスポーツドリンクと保冷剤を持ってきてちょうだい」
そう言って、母は百花の背を支え、百花の首筋を押さえる。
「聞こえる? 分かる範囲でいいから、返事して」
「……はい」
冷蔵庫へ向かいながら、俺は背中越しに母と百花のやり取りを聞いていた。
スマートフォンを取り出し、近場の病院を検索する。時間的には夜間外来になるため、向かうならば中央区の総合病院だ。
保険証は持っているのか、親にも連絡をしなければならない。いや、とにかく細かいことは医者に見せてから考えよう。
百花にスポーツドリンクを飲ませた後、俺は家を飛び出し、車のエンジンをかけた。母も、当然のように後部座席に乗り込んでいる。
俺が車で送る間、母のひざを枕に横になった百花は、ずっと目を閉じていた。
◇
夜間受付の窓口で、俺は震える手をこらえながら保険証を差し出す。幸い、百花の財布の中に入っていた。
「お預かりします。ご家族の方は?」
「これから連絡を取ろうと思います。まずは受診を優先で連れてきました」
俺が答えると、受付の女性は特に表情を変えることなく、事務的に手続きを進めた。こういう対応にも、きっと慣れているのだろう。
処置室に運ばれた百花は、すぐに看護師に囲まれる。血圧、体温、点滴の準備。テキパキとした動きに、俺は口を挟む隙もなかった。
「未成年の治療になるので、本来は保護者の同意が必要になりますが」
医師が、俺と母を交互に見る。
「緊急性があると判断しましたので、先に点滴だけ始めさせていただきます。並行して、ご家族への連絡をお願いできますか」
「はい、すぐに」
そう返事をして、俺は彼女の緊急連絡先を手元に控えていないことに気づく。今の時間なら学校に誰か残っていて、生徒名簿を確認してもらえるだろうか……。
「私が連絡先を控えているわ。入門時に彼女から聞いているから」
代わりに母が百花の自宅に番号をかけた。
コール音が虚しく鳴り続ける。何度かけても繋がらない。
さらに母親の携帯にも電話をかけるが、返ってくるのは「おかけになった電話番号は、お客様のご都合により、おつなぎすることができません」という無機質なアナウンスだけだった。
処置が一段落した頃、医師が俺たちを別室に呼んだ。
「診断結果をお伝えします」
白衣の医師は淡々とした口調で切り出した。
「軽度の脱水症状と、栄養状態の悪化が見られます。血液検査の数値からも、慢性的に栄養が足りていなかったことが分かります」
その一言に、俺は詰めていた息を吐き出した。命に別状はない。それだけは確かなことらしい。
「点滴で、今日のところは落ち着くと思います。ただ――」
医師は一度言葉を切った。
「ご家族の方とは、連絡がつきましたか」
「いえ、まだ……」
「そうですか」
医師は手元のカルテに視線を落としたまま、続けた。
「差し支えなければ、少し伺ってもよろしいですか。普段のお食事の様子など、ご存知でしたら」
その聞き方に俺は微かな違和感を覚えた。単なる問診にしては、妙に慎重な言い回しだ。
俺はこれまでの経緯――、給食がなくなったこと、コンビニのおにぎり一つだった弁当、友人たちが分けてくれていたこと――、を正直に話した。
話すうちに、医師の表情がわずかに変わっていく。
「体格の割に、栄養状態の悪化が長期間に及んでいるように見えます。今日一日、食事を抜いたくらいでは、通常ここまでの数値にはなりません」
医師は俺と母の顔を順番に見た。
「学校関係の方、ということでしたね。念のため確認ですが、ご家庭での様子について何か気になることは?」
その問いは遠回しでありながら、明確に一つの可能性を指し示していた。
俺は口を開く。
「詳しいことはこちらでも把握しきれていません。小学校に通っていた頃の申し送りで、懸念していたことはあります」
「そうですか」
医師はそれだけ言うと、小さく頷いた。
「今日のところはこのまま入院はせず、点滴で様子を見て帰宅していただいて構いません。ですが……」
言葉を選ぶような間があった。
「念のため、当院の医療ソーシャルワーカーにも情報を共有させてください。学校の方でも、継続して見ていただけると助かります」
「分かりました」
俺は、それだけ答えるのが精一杯だった。
◇
翌朝、俺は始業前に校長室のドアを叩いた。
「花咲校長、朝早くにすみません。ご報告したいことが」
「おう、入れ」
校長はいつもの豪快な調子で応じたが、俺の顔を見た瞬間、その表情が変わった。
「……何かあったな」
「昨夜、竹花百花さんが、道場での稽古中に倒れました。病院での診断は、軽度の脱水と、慢性的な栄養状態の悪化です」
俺は経緯を順を追って説明した。給食がなくなったこと、コンビニのおにぎり一つだった弁当、友人たちが分けてくれていたこと、そして病院で医師から遠回しに家庭環境について尋ねられたこと。
校長は黙って最後まで聞いていた。
「至急会議を行う。これは生徒の命に関わる問題だ」
校長はそれだけ言うと、すぐに内線を取った。
◇
十分と経たないうちに、校長室に人が集まる。
保塚教頭、養護教諭の神崎先生、生活指導主任の栗岡先生。俺はもう一度、同じ経緯を説明した。
「……そうですか」
神崎先生が桃色のカーディガンの袖をいつものように弄りながら口を開いた。
「竹花さんの体格については、身体測定の結果を見てから少し気になっていたんです。今までの部会でも散々家庭環境についてあがっていましたし」
「気になっていたなら、言っても良かったんじゃないの」
栗岡先生が間髪入れずに突っ込む。
「確証がなかったので……。海老原先生と小鍛冶先生の話からだと、プラスの面しか読み取れませんでした。二つを合わせて……、給食の話を聞いてようやく腑に落ちました。すいません」
神崎先生の声が小さくなる。
「今更言っても仕方ねえな。それより、これからどうするかだ」
栗岡先生は腕を組んで続けた。
「病院がソーシャルワーカーに情報共有してるなら、向こうからも近々連絡が来るはずだ。学校側も、それに合わせて動いた方がいい」
「具体的には?」
教頭が促す。
「まずは、家庭訪問でしょうね。児相に通告するにしても、いきなりはハードルが高い。実際に会って、状況を確認してからでも遅くない」
栗岡先生は慣れた様子で続けた。
「ただし、一人じゃ行かせられません。管理職同伴が基本です」
「分かってる」
校長は大きく頷いた。
「俺と小鍛冶先生とで行く。話は基本、俺が進める。今日の放課後だ」
「校長先生自らですか」
保塚教頭が少し驚いたように聞く。
「生徒の命がかかった案件で、学校の代表者が出ていかなかったら、それはただの職務怠慢だろ」
校長はそう言い切ると、俺の方を見た。
「小鍛冶先生、現場を見た当事者として付き添いを頼む」
「はい」
俺は答える。
百花はうちの生徒だ。校長の言ではないが、彼女の健康と安全を守る義務が俺にはある。
本来ならば、母親にもそれがあるはずなのに――。
見極めねばならない。俺は拳を握り固めた。




