第七話 反乱を起こさなきゃいいよ
「柏尾、黒板の日付直しておいてくれ」
「……うい」
担任の久度先生に言われて、日直であるぼくは自分の仕事を全うした。
朝の会終了後の一年一組はいつも通りの喧騒に満ちている。
誰かが昨日の動画の話で盛り上がり、誰かが宿題を写させてくれと拝み倒し、誰かが猿みたいな奇声を上げて笑いを取ろうとする。机の脚には、ひっくり返った水筒から漏れたお茶が、じわりと広がっていた。
一仕事を終えたぼくは机に突っ伏しながら、『草枕』の文庫本を両手でつまんではめくっていく。厭世観の先達が何を思い、生きていたのか興味があったから、図書館で借りてみたのだ。
『智に働けば角が立つ』も『意地を通せば窮屈だ』も、身に覚えがありすぎる。小学校時代のぼくだったら、この書き出しに大賛成しただろうな。分かったぞ! 確かに人の世は住みにくいったら、ありゃしない! って。
動画のどこが面白いのか、ぼくには分からない。奇声の、何が笑いどころなのかも。だから、周りの同級生と絡んでも、楽しいことなんか何もない。
小学校の頃、ぼくはずっと苛立っていた。
世界中が馬鹿ばかりに見えて、その苛立ちを誰かにぶつけずにはいられない。ネットでググって見つけた心理学者の言う「ネガティビティ・バイアス」――、悪いことばかりに目が向く認知の歪みってやつを、ぼくは自分に疑ってみたこともある。だが、結局のところ、そんな都合の良い話ではなかった
単純に、ぼくが周りから浮いていただけだ。
「それでもまあ、これの筆者の金之助さんよりゃ、だいぶマシだな」
ぼくは文庫本を閉じた。
今のところ、ぼくはこの筆者みたいに胃潰瘍や神経衰弱を患ってはいない。というか、筆者の死因は胃潰瘍なんだし、結局課題を解決できていないわけだ。悟った。参考にはならんわ。下を見てもしょうがないね。
「海老原の授業マジで価値ないわ。俺、アメリカ行ってたから、教科書読む時の発音おかしいの分かっちゃうんだよね」
「分かる、偏差値低そう」
クラスで幅を利かせている、チャラついた一人が大声で英語の教員を馬鹿にしている。他人の席を平気な顔で占拠しているあたり、本当クソポイントが高い。
海老原がクソなのはぼくも同感だが、こいつと同じ意見というのが癪に障る。そもそも、海老原最大のクソポイントはアクティビティを強制するところだ。発音にうるさいのは確かにクソだが、言っていることは間違ってない。朗読中に出てくるあいつの発音は間違ってるんじゃなく、典型的なオージー・イングリッシュだろうが。おかしいんじゃなく、方言が違うだけだぞ、もっと勉強しろ。恥ずかしい。
勘違いしたままのチャラい男子はそのまま他の教員の陰口を言い始める。一組担任の久度先生は脳筋。六組担任の門田はセクハラ野郎。犬養はぶりっ子。矛先はセンターの小鍛冶先生にまで及んだ。
「小鍛冶のいるセンターって、ガイジの集まりだろ。ああいうところに入ったら人生終了のお知らせだって、ママが言ってた。ガイジの先生なら、大したことねえよ」
「俺なら、センター入る前に死ぬわ」
ぼくは失笑を禁じえなかった。こいつら、小テストでセンターの連中に負けてると知ったら、どうするんだろう。死ぬのか?
その後、教室内で追いかけっこをしていた生徒が教室の掲示物を破り、通りかかった先生にぶちぎれられた後、惰性のままに授業が始まる。
今日の時間割は数学、音楽、理科、社会、技術。社会までが本当に遠い。
門田の授業は静かに進む。皆怖いからだ。ノートは取るが発言はしない。名指しされれば、いやいや答える。まるで葬式のような空気感だが、授業自体は皆聞いている。
高校受験に必要なポイントを絞った授業をしているからだ。授業に文句をつけられないから、さっきのチャラ男はオッサンとしての外見を馬鹿にしていた。最高にダサいと思う。まあ、ぼくは門田の授業嫌いだけど。
音楽は、吹奏楽部が強権を振るうので比較的安定している。ぼくにとっては苦痛の時間だ。静かなること林の如しを地でいって、耐えがたきを耐えている。
理科になってから、ぼくはストレスから解放された。自由進度学習は、教科書のノルマさえ達成していれば、何をどれだけ積んでも良いところが利点だ。
この前、節足動物の単元で、特定の昆虫の持つ走光性と植生に因果関係はないか調べていたら、久度先生に褒められた。好きにやって良いというのは、本当に気楽だ。
そして、いよいよ社会の時間になった。しかも、好きな歴史でテンションが上がる。
「佐藤さんと木村さん、授業道具出した状態で五分前着席できているの偉いな。しかし、廊下が暑いと、皆外に出たがらんなあ。気候変動の影響か」
小鍛冶先生は大抵の場合、教室に入った直後、何かに対して褒める。そうすると、何人かが慌てて席につく。つかないのは勉強を捨てている連中か、教員を舐めている連中だ。
そんな奴らも、小鍛冶先生に無言でじっと見られると、つまらなそうに席につく。今日は気づくのが早くて助かった。遅かったら、殺意がわいていたところだ。
しかし、チャラ男が授業開始直前に余計なことを言い出した。
「先生、俺この前模試でやったんですけど、パナマ運河を作った人って知っていますか?」
にやついた笑みが気持ち悪い。パナマ運河は近代史。中学三年生で触れるか触れないかと言ったところだ。それを今聞くところに、揚げ足を取って馬鹿にしてやろうという意図が見え見えだった。
小鍛冶先生はチャラ男を見て、首を傾げる。
「どれのことを言っているんだ?」
「何だ、知らないんですか」
「いや、条件があいまいなんだよ。どの段階の、どの立場の人間をあげればいいんだ?」
チャラ男が固まった。言っている意味が分からなかったのだろう。
小鍛冶先生はタブレットを起動して、教室の大型テレビにグーグルアースを投影した。映っている場所は南北アメリカ大陸の接続点だ。
「パナマ運河はここ。運河構想自体はかなり昔からあって、スペイン、フランス、アメリカが関わっている。スペインは構想のみだから除外するとして、フランス人実業家のレセップスを指しているのか、その政権中枢を指しているのか、アメリカ人技師のスティーブンスを指しているのか、セオドア=ルーズベルトを指しているのか。関わった技師と言うだけでいったら、日本人技師の青山士なんてのもいる。彼は東京都内の放水路建設の方が有名だけれども。で、どれなんだ?」
チャラ男は答えられなかった。負けた、と顔に書いてある。
小鍛冶先生は気づいていないのか、さらに続けた。
「実は彼の言ってくれた『何かを作ってくれた人は誰なのか』って、とても面白い質問なんだ」
言って、先生は黒板に『安土城を築いた人』と大きく書く。
「まだ中学校ではやっていないけど、小学校では触れているはずだね。誰か分かる人」
「織田信長です」
答えたのは、先程準備が早いと褒められた女子生徒だった。先生に「正解」と言われ、得意げになる。
「でも、築城プロセスを細分化するとややこしいことになる。奉行として命じられたのは、丹羽長秀って言う重臣だ。石垣は穴太衆っていう石の専門家が担当し、天守は宮大工の岡部又右衛門が関わっている。もう一度聞くけど、安土城を築いた人は誰?」
「……皆?」
自信なさげに誰かが言った。先生は頷く。
「もっと言うなら、名前も知らない誰かが関わっている可能性があるね。歴史ってカメラのファインダーに似ているんだ。写っているものしか目に入らないけど、そこには確実に誰かがいる。大学に入ったら、そんなことを研究すると思うぜ」
言って、先生はプリントを配り始める。抜き打ちのレポートだった。
問題は一つだけ。
『小学校で学んだ歴史は人物を中心に勉強しました。ですが、中学校に入ってからは社会の仕組みや歴史の大きな流れを勉強するようになっています。その理由を考え、大人になったら歴史をどう学びたいか考えなさい』
クラス全体から戸惑いの声が上がる。
「教科書もノートも、タブレット以外は自由に使っていいよ。相談は不可。時間は三十五分。さあ、はじめて」
先生がタイマーを設定した瞬間、皆火がついたようにプリントに向き合い始めた。
ぼくも歯ごたえのある問題に舌なめずりする。いいね。研究者志望のぼくにとって、これはエントリーシートみたいなもんだ。
たっぷり三十五分かけてレポートを作成した後、最後列の回収役に渡す。そういえば、ぼくの列の回収役はチャラ男だった。
チャラ男の顔が歪む。ふふん、ぼくのレポートの出来栄えを見て震えろ。お前とは見ている世界が違うんだよ。
回収を終えた先生に向かって、チャラ男が耐えきれないという風に吼えた。
「先生、こういうタイプのテストやめてください。意味ないでしょ!」
チャラ男の発言に何人かが同意する。
先生は先程と同じように首を傾げ、「何でそう思う?」とすっとぼけるように返した。
「これ、入試の何に役立つんですか? ちゃんとしたテストだけやってくださいよ」
「ちゃんとした、っていうのは知識分野の定期テストだよな。そっちは皆しっかり勉強していて、高得点だよな。すごいと思うよ。ただ、これは思考判断表現や主体性を図るためのレポートだから、観点が違うんだ」
「勉強したところが出ないテストなんかテストじゃないでしょ!」
チャラ男がヒートアップしていく。
だが、小鍛冶先生は柳に風だ。
「……勉強したところがそのまま出たら、それは結局知識では?」
ぼくはたまらず吹き出してしまった。
ぶった切り方が、本当に笑える。価値観の断絶って、こんなに面白いのか。
チャラ男の舌打ちが聞こえてきた。タイミング的にぼくにあてたものだな。危ない、危ない。地蔵に徹しておこう。
「とにかく点数の取りようがないテストなんて出して、俺たちの成績を下げたいだけでしょ! こんなの認められない!」
「何で点数取りたいの?」
「難関校に受かって、良い大学に行きたい以外の何があるんですか!」
先生は少し困ったかのように眉を寄せる。
「四月の授業で、将来的に今ある職業の大半がなくなるから、”今まで通り”が通用しなくなる可能性があるよって話をしたのは覚えてる?」
「覚えてますよ。でも、それは先生が嘘を言っているって、親が言ってました。先生がFラン低学歴だから、言い訳を言ってるだけだって。先生の大学を言ってくださいよ。言えるもんなら!」
先生の顔が歪む。あまりしたくないタイプの話題だと言うことが丸わかりだった。ぼくは呆れて物が言えない。先生の普段の言動や態度を見れば察することだってできるだろうに。最初の自己紹介で元研究者だって言ってたんだから、ネットで論文検索すれば速攻で分かることだ。
無駄な時間は好きじゃない。
ぼくはため息を吐くと、皆に聞こえるように独り言を言った。
「ググレカス。先生の出身は旧帝国大学。学士も修士もそこで取ってる。何本も論文掲載されてるから、すぐ分かる。多分、お前らの親は勿論、日本中のほとんどの学歴厨が馬鹿にできないと思うよ」
チャラ男もクラスも凍り付く。
完全なオーバーキルだった。
先生が困ったように小さく頭をかき、苦笑を深める。
「学歴について話させてほしい。就職氷河期って知ってるかな? 俺の所属していたサークルの先輩には面白い研究をしていたのに、スーパーに就職した人がいるよ。また、原子力発電について人生を賭けて研究していた人が、震災でキャリア全部吹き飛んだって例も知っている」
でも、と先生は続けた。
「スーパーに就職した人は、自分の力で農家との繋がり増やしていって、自社の強みを作っていったよ。原発について研究していた人は、環境に配慮した廃炉の仕方を研究し始めた。俺は彼らを尊敬してる」
先生の口調が、いつになく熱を帯びていた。チャラ男は、もう茶々を入れる隙を失っている。
「あなたが大人になった時、受験というゲームを勝ち上がったご褒美がなかったらどうするの? 他人事じゃないよ。お隣の中国では現在進行形でトップエリートが職を失っているけど」
教室が、しんと静まり返った。ぼくでさえ、続きを急かす気にはなれなかった。
「頑張っていたことが駄目になった時、立ち上がれる武器を増やすための学びが、このレポートで図る部分。そろそろ時間だから、授業をおしまいにしようか」
気をつけ、礼の号令の後も、教室は何処か気まずい沈黙に包まれていた。
……これはぼくにも刺さる話だ。
チャイムと同時に教室を出る先生を、ぼくは慌てて追いかけた。
「小鍛冶先生!」
「ん、どした。理久さん」
廊下の途中で振り返った先生は、いつもの飄々とした調子に戻っていた。さっきまでの熱っぽさが嘘のようだ。
「……なりたいものになれなかった時、どうすればいいんですか?」
「ん? あー」
先生は、少し困ったように頭をかいた。質問の重さを、はかりかねているようだった。
少しの間の後、口を開く。
「反乱を起こさなきゃいいよ」
「え?」
予想外の返しに、思わず間の抜けた声が出た。先生は悪戯っぽく笑っている。
「理久さんは歴史が好きだから、ネタバレはやめておく。でも、歴史上には融通の利かない秀才が夢破れた例なんて、山ほどあるんだよ。唐末の黄巣、清代の洪秀全、大日本帝国の青年将校とかね。歴史を調べることが、君の疑問の解決につながると思うぜ」
言って、先生はセンターの方へと歩いていってしまう。
大きな宿題をもらった気分だった。
でも、悪い気はしない。これは小学校の時に押し付けられた、答えの分かり切っている不毛な手の運動とは違う。ぼくの将来につながる宿題だ。
朝に読んでいた金之助さんにも謝っておこう。
「下」扱いしてごめんなさい。課題を解決していようといまいと先達は人生全てが教材だ。
「そういえば……」
と、先生の向かっていった方向を見ながら思い出す。
確か、センターにも偏差値ばかり気にしている奴がいた。麻倫と仲の良い、ポニーテールの奴。
あいつも大概、ぼくと同じく融通の利かない秀才枠だったと思うが、センターにいるってことは中学校に上がる前に何かあったということだろう。
もし夢破れて、あそこにいるのなら……、あいつはこれからどうするんだろうな? 少し、気になった。




