第六話 小鍛冶も良く見とけ
学生の時分から継続できている習慣なだけあって、御伽川沿いを走る朝は、嫌いじゃない。
コンクリートの堤防ではなく、自然のままの土手。丸みを帯びた岩肌が水際に顔を出し、流れはそれにぶつかるたびに音を立てる。県内でも指折りの清流と言われるだけのことはあった。
自宅からのジョグで早くなった呼吸を整えた後、河川敷の入り口にある馬留を両手で掴み、身体全体を入念にほぐしていく。
剣道の稽古は、テニスと比べても、いわゆるアイソメトリック的な負荷や、急ブレーキをかける運動が多いように思う。稽古後、翌朝の凝りが今までと比べてもひどいため、手を抜くことができない。
一通り身体をほぐし終え、いつものように早朝のロードワークを始める。すると、少し先の土手道から、並走してくる二つの人影が見えた。
トモとタケだ。
「おはよ、鍛冶T」
「おう、タケも起きられたんだな」
「ちゃんと眠ぃよ」
俺のからかいに、タケが大あくびを返してくる。
「総体。ひとまずはおめでとう」
「あざす。まあ、支部大会はね」
河川敷を並んで走りながら近況を聞く。テニス部の新体制、後輩たちの様子、保塚教頭の指導ぶり。
「教頭、めちゃくちゃ頑張ってくれてますよ。素人なりに。この前なんか、謎の重りを使ったメニューを考えてきて笑いました。俺ら、ドラゴンボールかよって」
タケが笑いながら言う。皮肉ではなく、素直にそう思っているらしい。
「恨み言、出ないんだな」
思わず、そう聞いていた。頭の片隅には、剣道部でのしくじりがずっと居座っている。
タケは道端の小石を横に蹴り飛ばしながら、あっけらかんと言った。
「出ないっすね。だって、あの人がいなかったら、俺ら宙ぶらりんだったし」
トモも頷く。
「最初は鍛冶Tがいないって不安のが強かったよ。でも――」
タタンと鋭く踏み切り、振り返りながら言う。
「今までの環境がありがたかったんだって、離れてから気づいたんだ。俺ら。だから、今は感謝の方が強いです」
その一言に、俺は少し面食らう。
新しい環境に不満を漏らすのではなく、失った当たり前への感謝で頑張る。中学生とは思えない成熟だった。
全くもって完敗だ。
「実力も運の内かあ」
「運も実力の内じゃなく?」
トモの指摘に俺は答える。
「マイケル・サンデルってハーバード大の教授がいてな。努力と才能で手に入れた勝利って、実は誰かから与えられた環境の影響が強いだろって、身もふたもないツッコミが本になってる」
「何それ、えっぐ」
タケが舌を出して顔をしかめる。俺は賛同するように頷き、にやりと笑う。
「だろ? あまりに人情味がないから、俺は別の言い方で捉えなおしてる」
「どんな言い方?」
トモの問いに、俺はしたり顔で答えた。
「実力も恩の内」
「恩。良いね。それなら分かる」
くしゃりとトモが笑う。
気分が乗ってきた俺たちは、徐々に走る速度を上げていった。
「颯真も栄斗も今度誘ってみようかな」
ぽつりと出たトモの呟きに、並走していたタケが真顔で返す。
「いや無理だろ。エイトはまだしも、ソーマはあれだ。俺側じゃん。朝練より早い朝は起きられん」
「自分で言うなよ」
トモが噴き出しながら、タケの背中を軽く小突く。
「俺にとっては、このロードワークも恩の場だから。分け合いたいなってだけ」
「ふうん」
タケはそれ以上茶化さなかった。トモの言葉に、何かを思うところのあるような間があった。
「まあ、言ってみたら? 良いでしょ、鍛冶T」
「おう」
軽い相槌で返しながら、俺は内心、こみ上げるものを抑えるのに必死だった。
◇
「それでは定刻になりましたので、教育相談部会を始めます」
主任の言葉を受け、俺は配付された資料に目を通す。
会議室に集まるのは、管理職とスクールカウンセラー、各学年の教育相談担当、養護教諭、それにセンター担任の俺だ。
議題は直近の悩みを抱える生徒について。その範囲は交遊関係から思春期の悩み、親子関係まで多岐にわたる。
支援センターに移ってから、通常学級のそういった情報が、以前のようにリアルタイムで入ってこなくなった。廊下で交わす立ち話も、職員室での雑談も、学年という輪の外にいると、驚くほど耳に届かない。
だからこそ、俺は真剣に資料を読み込んでいた。どんなに小さな悩みや困り感だとしても、大きなトラブルに発展する可能性はゼロじゃない。もう大耀のような生徒を増やすのは御免だった。
俺はセンターに在籍する三人娘の最近の様子を参加者に共有する。
継続した登校自体、誰も期待していなかった。だからこそ、三人の出席状況は会議室に驚きをもって受け止められる。
「提出物も、定期テストの状況もかなり良いですよね! これなら、近い内に通常学級に戻れるかもしれませんね」
「……あはは、素晴らしい話ですが、そこはゆっくり見ていきたいですね」
素直に喜ぶ一学年担当の海老原先生に対し、スクールカウンセラーが慎重論を唱える。白髪の混じった七三分けを片手で整え、ずり落ちた眼鏡を直す。微笑んだ口元も含め、柔らかい印象でまとまっているが、その目は決して笑っていなかった。
「一年生の様子はどうですか?」
主任に促されて、海老原先生が資料をめくる。
「えっと、四か月弱見てきましたが、大きな問題は起きていません。特に今年度は重ための子が入学しなかったことと、体育祭で対人トラブルがなかったからか、長くお休みをとる子が少ない印象です」
「今年はSNSトラブルも今のところないですよね」
「はい、学年職員皆でほっとしていますよ」
二学年の担当と軽口を叩きながら、海老原先生が笑う。
「ただ、指導が入りづらい気はします。集会でもざわついていますし、廊下でも走る子がいる。まあ、これは生徒指導の範疇だと思いますけど」
三学年担当の指摘に、海老原先生が慌てて手を振った。
「いやいや、今年の一年生は、やんちゃな子は多いですけど、根は優しい子ばかりですよ! 先生の仕事を手伝ってくれる子も多いです」
彼女の擁護に、首を傾げている者がいた。養護教諭の神崎先生だ。桃色のカーディガンの袖を弄りながら、何かを言おうか言うまいかと、思い悩んでいるように見える。だが、結局のところ、意見を飲み込むことにしたらしい。
その後、三学年の生徒情報を共有し、部会は静かに終わった。
◇
会議室を出たところで、俺を呼ぶ声があった。
よれよれのシャツを着たベテラン教員、門田先生だ。
「小鍛冶、ちょっと面貸せ」
「どうしました?」
俺が何気なく問うと、彼は会議室の中を気にするようにちらりと見た後、「良いから、来い」と有無を言わせぬ調子で、学校の裏門へと歩き出す。
裏門を出たところは二股に分かれている。片方は河川敷、もう片方は雑木林に繋がっており、住宅街には接続していない。だから、ここを通るのは河川敷へ走りに行く運動部くらいのものだ。
門田先生は、河川敷ではなく雑木林の方へと歩を進めた。
「今、勤務時間中ですよ」
後を追いながら、俺は釘を刺す。学校に隣接するこの雑木林が、タバコをやめられない教員にとって格好のシェルターになっていることを、俺は知っていた。俺が小学生くらいの頃には、地元の不良が隠れて煙草を吸っていた場所だ。隔世の感がある。
門田先生は俺のお小言に顔をしかめるも、ポケットから洋物の銘柄を取り出し、口に咥えて言った。
「ちっ、うるせえなあ。休憩は取ってもいいと管理職も言ってるだろ。昔は職員室でも吸えたって言うのに、ほんと息苦しい世の中になっちまった」
意外にも火はつけないようだ。とすると、単なる口寂しさから取り出しただけかもしれない。まあ、子どもたちはにおいに敏感だから、気づく奴はすぐ気づくしな……。
門田はしばらく火のついていないタバコの香りを求めるかのように深呼吸し、やがて口を開いた。
「一年の話だ。部会で何て聞いた?」
「やんちゃですが、根は優しい子たちだと」
「……はっ、やっぱりか。何も伝わっちゃいねえ」
門田先生は、咥えていたタバコを指に挟み直し、乾いた笑いを漏らす。
「海老原の奴は産休育休の繰り返しで現場感が薄いんだ。今年の連中の目を見ておいて、本当のところ根は優しいお子様方なんだと、口が裂けても言えねえわ。お前も分かんだろ」
「まあ、確かに……」
今年の一年生は、俺も授業を受け持っているから、知らない相手ではない。良いことも悪いことも、何をするにも大人の反応をまず窺ってくる。あの目つきには、覚えがあった。
「” 試し行為”ですよね。あれ」
門田先生が頷く。
「どこまでがセーフで、どこまでがアウトか。あいつら、四か月たっぷりかけて、俺らのことを試して来やがったからな。ここから態度が変わっていくぞ。怒られない、減点されない教員の言うことは聞かなくなるはずだ」
「そうか、初任の先生方には対応が難しそうですね……」
……だいぶまずい事態になっているのかもしれない。
「最悪、海老原と高遠は潰れるかもしれん。首藤は体よく利用されるタイプだ。犬養くらい、逃げ道を塞げる人間じゃないと、学年が崩れていくぞ」
俺は、思わずつばを飲み込んだ。
一度敵に回った子どもたちというのは、残酷で陰湿だ。一人が精神を病んで療休に入れば、その負担は一気に周りへ拡散する。慢性的な人手不足を招き、また別の教員が潰れていく。何度も見たことのある地獄だった。
「それに、竹花のことも気がかりだ」
「……百花ですか?」
門田先生は、それから声を落として続けた。
「小鍛冶。お前、竹花の食事量をちゃんと見ているか?」
言われて、センター内での食事風景を思い出す。
麻倫も百花も、乃亜だって給食はしっかり食べている。何なら、分量が多めに見えても、ぺろりと食べていたはずだ。
「少しくらい多くても、給食をしっかり完食していたと思いますが」
「あれは、俺が意図して多めに配膳している」
「えっ?」
面食らった俺に対して、門田先生は言う。
「最初は少な目に盛っていた。あの細身で、元長欠だからな。経験上、好き嫌いが激しいか、小食のどちらかだと思った」
だが、と一呼吸置く。
「好き嫌いもなく完食。うちのクラスは偏食が多いからな。試しに少しずつ、飯の量を増やしてみた。今は、二人前近くに盛っている」
覚えがあった。通常学級から運ばれてきたお盆の重みが違ったので、冗談交じりに話題にしたことがあったのだ。その時の彼女は、「給食、美味しいです」と当たり障りのないことしか言っていなかったが……。
門田が指に挟んだタバコを握りつぶす。
「ネグレクトの線を、俺は疑っている」
その一言が、雑木林の湿った空気に、やけに重く響いた。
「警戒しすぎるくらいでちょうどいい。特にあそこの母親は、インフルエンサーまがいに口うるさく、教員を無能だ馬鹿だと決めつけてくる手合いだ。三者面談も、結局できなかった」
門田先生は、握りつぶしたタバコを、地面に放り捨てた。フィルターだけになったそれを、律儀に拾い上げてポケットにしまう。
「小鍛冶も良く見とけ。あそこは児相も選択肢に入りかねん」
俺は、何も言えなかった。
切紙を貰って、無邪気に喜ぶ百花の笑顔が、嫌な予感に塗りつぶされていくようだった。




