第五話 いつもとは違う夏になりそうだ
三人娘が小鍛冶道場に入門してから、センターの日常が少し様変わりしていた。
「えい、とう」
例えば、麻倫だ。自習がひと段落すると、彼女は教室内の空きスペースで、道場で習った「形」と呼ばれる演舞のようなものを、手刀で真似るようになった。
足を入れ替え、手を翻し……、傍から見ていると、まるでカンフー映画を見ているようだ。母の動きの物真似が上手い。
百花は机の中に、剣道ノートを忍ばせるようになった。ちらりと見せてもらうと、所作の手順や角度、稽古の意味、そして母の言った言葉がびっしりと書き込まれ、重要なポイントにはマーカーまで引かれている。
そして入門のきっかけを作った乃亜はというと、特段大きな変化があったわけではない。麻倫に遊ぼうと言われれば付き合うし、百花と一緒に勉強もしている。ただ、明確に――、時計を見る回数が増えた。
平日の小鍛冶道場に明かりが点るのは十七時半から。自習をし、時には読書をしながら、放課後は校内の道場でストレッチや体力づくりに励み、夕方になるのを待つ。
昨日までは療養所で、今はアスリート養成所。こいつらストイックすぎるだろと、呆れ半分、感心半分。
啐啄がぴったり合ったということだろう。俺は彼女らが殻を破るきっかけになった稽古を思い出す。
◇
「今日から木刀を振るうことを許します。皆さん、正しい構えをとるように」
放課後、三人娘と共に黙想を終えると、神棚の前に正座していた母から、思いがけない言葉が飛んできた。
「えっ、木刀振れるの!?」
驚いたのは俺だけではなかった。麻倫が声を裏返らせ、百花も呆然と母を見上げている。
今まで、礼法と声、足さばき、正しい構え。ひたすらそれだけを繰り返してきた。軽い気持ちで木刀を振ろうものなら、母の雷が落ちた。刀は、軽い気持ちで振っていいものじゃない――、そう、耳にタコができるほど言われてきたのだ。
だからこそ、俺はてっきり、この賽の河原のような日々がまだしばらく続くものだと思い込んでいた。
母は答える。
「必要な土台ができたところに、必要なことを教えているつもりです。もう、あなたたちは木刀を振っても良いということ。古流剣術の道場でたとえるなら、礼法と足さばきの"切紙"を与えたわけです」
「えーと、そのキリガミを集めると、強くなれたってこと?」
麻倫の問いに、母が頷く。百花が目を輝かせて、手を挙げた。
「そ、それって英検や漢検みたいに、賞状を貰えますか!?」
いかにも百花らしい要望だった。母は口元に手を当てると、「少し待っていなさい」と言い残し、奥へ引っ込んでいく。
しばらくして戻ってきた手には、千代紙と筆ペンが握られている。
「次からは、きちんとしたものを用意します」
そう言って、達筆で記された『小鍛冶道場初伝、足さばき』を三人に手渡していく。
「いや、俺はいいって」
「あなたも修行者でしょう」
断る間もなく、俺の分まで押しつけられた。受け取った百花のテンションは、うなぎのぼりだった。
「それではまず、最初に覚えるべき素振りを伝授します。空間打突。または正面素振りと言われるものです。見ていなさい」
いよいよ木刀を振る稽古が始まる。まずは母のお手本から。
「メン」
何もない空間に面を打つ。スッと木刀が空間を縦に切り裂き、ぴたりと止まる。怖いほど鋭くて、正確無比な素振りだ。
「さあ、やってみなさい。その都度一人一人修正をします」
言われて母の真似をしてみるも、これが中々曲者だった。
特に俺は手慰みに数か月間竹刀を振っていたからわかるのだが、桐の木刀はとにかく軽い。軽すぎる。
まるで硬式テニスと軟式テニスのラケットの違いみたいだ。得物の重さを利用してスイングすることができない。いや、スイングと言うと怒られるな……。刃筋が、乗らない。どこかで乱れて、ふにゃふにゃとした素振りになってしまうのだ。
「うぇぇ、むずっ!」
「先生みたいに全然できません……」
「……えい! ……えい!」
三人娘も同様に苦戦していた。見様見真似が誰より上手な麻倫ですら、上手くいっていない。見てくれを真似るだけでは足りない、内側の何かが要るのかもしれない。
母が俺たちの苦闘ぶりを見て補足する。
「できなくて当たり前です。木刀は、重さを利用できない分、軽い方が振りづらいのです。だから、変な癖のつく前に振らせています」
成程そういうものか。どんな競技でも最初に癖がついてしまうと、訂正が難しいものな……。俺が一人で納得しているところに、母は無慈悲な課題を提示してくる。
「それでは千本振ってみましょうか。一時間もあれば終わるでしょう。はじめ!」
「えっ」
聞き返した間抜けな俺は、三百本追加された。俺の中で、三人娘のリハビリ剣道という図が音を立てて崩れていく。これはもう修行だった。
手と足があっていない。手の内が崩れている。物を斬っていない。顔が下を向いている。数えきれないほどの指摘が、素振りの最中に飛んでくる。
「静先生、もう腕が……」
「まだ五百本もいっていません」
一切の妥協がない。だが、不思議と誰も逃げ出さなかった。
◇
三人娘は千本、俺だけは千三百本。雑な素振りは一本もなく、それぞれの本数を振り終え、疲労困憊で手をだらんとさせていると、母が次へ進む許しをくれた。
「素振りができるようになったら、次は"形"を学びます」
「カタ……?」
オウム返しをする麻倫に続き、俺も口を挟んだ。
「えーと、形って剣道形のことだよな。昇段審査で必要な」
「そうです」
母はこともなげに頷く。だが、俺には引っかかるものがあった。
「順番が違くないか? 確かこの子たちが最初に受ける一級審査では、"木刀による基本稽古法"を先に覚えるはずだ」
「"木刀による基本稽古法"……? 何ですか、それは」
眉根を寄せる母を見て、俺の方が面食らった。
スマートフォンを取り出し、youtubeを開く。全日本剣道連盟のチャンネルに、"木刀による基本稽古法"の演武動画があった。本当に便利な世の中になったもんだ。
母と一緒に、高段者らしき先生の演武を眺めていると、やがて母が納得したように呟いた。
「成程。私が指導者を辞めてから、できたものなんですね」
そう言うと、母はあっさりと切り捨てる。
「一級審査の直前に、触れておけば十分。うちの稽古には必要ありません」
「何でさ。これは剣道に必要なものなんだろ? だから、一級に上がる前に必要な訳で」
俺が食い下がると、母は静かに続けた。
「これは恐らく、日本剣道形を学ぶ前に、木刀に親しむために作られたものでしょ。でしたら、うちには不要です。あなたたちは刃筋を意識した素振りをすでに行っています」
「けど、剣道形って上段とか下段とかあるやつだろ。上段なんて高校から解禁される構えだよな。何で最初にやるのか理解できないんだが」
「日本剣道形が、初心者こそ学ぶべきものだからに決まってるじゃない」
どうやら、根本的なところで認識がずれているらしい。俺がなおも食い下がると、母は木刀を上段に構え、黙って実演してみせた。
「日本剣道形の太刀の形は七本。七種類のやりとりがあります。初段で学ぶのは三本目まで。一本目はお互いに相上段からのやり取りになっています。けど、一本目はむしろ、間合いと一拍子の打突を学ぶためのものなんです」
言って、母は上段のまま歩み足を進める。三歩目で見るからに気を張った状態になり、前方を睨みつけた。そして、鋭く後ろに下がりながら、木刀をさらに持ち上げ、流れるように振り下ろす。
「トウッ!」
そして、何もない空間に向けて木刀を突きつけ、さらに上段に戻る。まるで母の前に何か敵がいるような錯覚を覚えた。
「一本目のこの振り方を理解していないと、竹刀剣道を覚える時に、打突のリズムが振り上げと振り下ろしで一、二となってしまう。間違って覚えたことを後で訂正するのは、とても労力がいるので避けるべきでしょう。ですから、うちは形を先行して学ぶ。良いですね?」
ここまで言われれば否やはなかった。元より俺だけが異を唱えていたようなものだったから、一度始まってしまえばスムーズに進む。
拳を脱力して自然に刀を振り下ろすやり方、足の引きつけ、相手の打突を予測と角度でさばく方法……。
三人娘が特に興奮したのは、三本目以降の形稽古だった。木刀と木刀をぶつけ合う場面が発生するのだ。
中でも、麻倫の喜びようは尋常じゃなかった。
「チャンバラだ!」
「ちょ、ちょっと麻倫ちゃん。速い!」
麻倫とテンポが合わず、百花がたまらず逃げ出す。
「形稽古は合気でやるものですが、いずれは今の倍の速度でやってもらいます」
「ひえぇぇ!」
百花の泣き言を聞きながら、俺も必死に乃亜と形稽古をしていた。怪我でもさせたらどう責任を取ったらいいか……。恐る恐る木刀を振ると、母の雷が落ちる。……どないせいっちゅうねん。
母の形稽古はさらに続く。どう考えてもこれは剣道形ではないだろうと言ったものまで登場し始める。聞けば、北辰一刀流の形だとか何とか。
本当に剣道に必要あるのだろうか……? だが、俺たちは母を信じるしかない。
まあ、三人娘は楽しんでいるから、良いか……。彼女らの笑顔を見れば、水を差すことが無粋なのは流石に分かる。
こうして、足さばき、素振り、形稽古を毎日繰り返す。俺の手のひらにはマメができる。
日常の少なからぬ割合が、剣道に塗り替えられていく。夏休みが始まるまで、もう一週間とない。
今年はいつもとは違う夏になりそうだ。俺は流れる汗をそのままに、ただひたすら「ヤア、トウ」と木刀を振り続けた。




